第3話マルヴァーニャへ

 春風が心地よく肌を撫でる中、侯爵家の馬車がマルヴァーニャの領地に到着した。大きな門がゆっくりと開き、馴染み深い風景が目の前に広がる。バーベナは、馬車の窓を開けて外の空気を吸い込みながら小さくつぶやいた。


「ただいま…マルヴァーニャ。」


 婚約破棄と共に、長かった王子妃教育を終えた彼女にとって、この地は渇望したほどの故郷であり、等身大でいられる場所だった。馬車が止まり、リリーが荷物を抱えながら降りるのを待たずに、バーベナは軽やかに馬車を下りた。


「お嬢様。」


 迎えに来たのは、侯爵家のカントリーハウスを管理する執事長セバスチャンだ。その端正なモーニングと落ち着いた佇まいは、彼の年齢を忘れさせるほど若々しい。


「セバスチャン!」


 バーベナは思わず彼の元に駆け寄り、ぎゅっと抱きついた。バーベナの表情は相変わらず微動だにしないが、その行動から彼女の喜びが伝わってくる。


「お嬢様、お帰りなさいませ。お元気そうで何よりですな。」


 セバスチャンは小さな少女をあやすように、彼女の背をぽんぽんと叩きながら微笑む。


「ただいま。しばらく領地で過ごすわ。少しゆっくりしたいの。」


「もちろんでございますとも。使用人たちも皆、お嬢様の帰りを楽しみにしておりました。」


 その言葉通り、屋敷に足を踏み入れると、温かい歓迎が待っていた。キッチンから漂う香ばしい匂いと、使用人たちの笑顔に包まれる。


「王都でのことは奥様から聞いております。領地の使用人も皆、腹を立てております。あんなことなど忘れてマルヴァーニャでゆっくり過ごされなさい。」


 その言葉通り、セバスチャンは温かいお茶を準備するよう、使用人たちに目配せをする。


「ええ、ありがとう。でも待って。馬車でここまできたのだけれど、街も様変わりしたわね。少し見に行きたいの。」


 バーベナは、セバスチャンに上目遣いでおねだりをする。バーベナの少女のような振る舞いに、セバスチャンは安心感を覚えながら、にっこりと微笑む。


「是非そうされてください。ハンスを共につけましょう。モノの調達でよく街へ出かけるので案内にうってつけでしょう。」


 セバスチャンが、使用人に「ハンスを」と一言告げると、すぐに侍女たちが動き出す。


 バーベナはハンスを待っている間、ゆっくりと門の外を眺めて、低くなった太陽のまぶしさに目を細める。バーベナの領地、マルヴァーニャ侯爵領は広大で肥沃な土地が広がり、帝国の穀物庫と呼ばれている。帝国の小麦の4割はマルヴァーニャ産だ。今の時期は穂が出てきたところだろうか、とバーベナは幼少期の記憶を手繰り寄せる。


 そこにひときわ大きな声が響く。


「お嬢!久しぶりだ!」


 駆け寄ってきたのは、幼馴染で執事見習いのハンスだった。


「ハンス!相変わらず元気そうね。」


「ああ!お嬢も相変わらず表情がかたいな!」


 バーベナが喜びを表現したが、ハンスは軽口を叩く。すると、すかさずセバスチャンの拳骨が飛んできた。


「ハンス!お嬢ではない、お嬢様だ!」


「あぁ、いけね!お嬢様だ。」


 ハンスはセバスチャンに怒鳴られて、頭を押さえながら首をすくめる。バーベナは、ふふふと、笑おうとして、顔がぐにゃりとゆがんだ。


「お嬢、相変わらず顔がこわばって、笑顔が悪魔教サティウスみたいだ。」


「もう!仕方ないじゃない!」


「ははは!かわいいと思ってるさ!」


「「ハンス!!!」」


 ハンスの頭に何かがぶつかるゴッというにぶい音と、怒号がとんだと思ったら、ハンスはセバスチャンに怒鳴られ、リリーに重い荷物をぶん投げられていた。


「いてててて…リリーも相変わらずだな。あんな遠いところから…。」


 ハンスは頭をさすると、セバスチャンは「自業自得だ。」と額に青筋をたてる。


「でも、よかったじゃないか!もうあんな苦しい思いをしなくていいんだ。また昔のように笑えるさ。」


 ハンスはなんだかんだいいながら、バーベナのことを一番に考えてくれる。バーベナは、セバスチャンやリリーとのやりとりも含めて、また般若のような表情になりながら笑った。


「そうね。さぁ出かけるわよ。街を案内して、ハンス。」


 ――


 丘を越えた瞬間、視界が一変した。目の前に広がるのは、どこまでも続く青い花畑。風に揺れる花々は、空の青さと溶け合い、地平線まで続く青い絨毯のようだ。馬車を止め、バーベナは窓越しにその景色を見つめたまま、言葉を失った。


「こんなに美しい景色が広がっていたなんて…。」


 彼女は窓を開けるよう促し、馬車の中に新鮮な空気を取り込む。けれど、その瞬間、想像以上に濃厚な香りが流れ込み、鼻を刺激する。


「これは…!」


 思わず手で鼻を覆いながらも、バーベナの瞳は花畑に釘付けだった。甘く濃密な香りは頭を揺らすようで、自然の持つ圧倒的な力を感じさせる。


「この花がな〜。ここ数年、群生地ができるほど増えちまった。でも香りが強すぎるって住民たちは文句ばかりさ。」

 ハンスが窓を閉めながらため息をつくが、バーベナはその言葉に頷く余裕もない。


「確かに、ものすごく濃厚な香りだわ…。でもすごい…こんなにも美しいなんて…。」


 彼女は窓枠に手を置き、ゆっくりと視線を動かした。花畑の中を歩く農夫や、遠くの木々にとまる鳥たちの姿が、まるで一枚の絵画のように完璧に調和している。バーベナの胸に、懐かしさとも違う、新しい感情が生まれる。


「お嬢、行きたいなら降りてみるか?ドレスや髪に香りがついてしまうと思うけど。」


「大丈夫よ。このまま眺めながら進みましょう。もうすぐ日が暮れてしまうわ。」


 馬車の中で青く広がる風景を見つめながら、バーベナはふと考えた。強い香りを放つこの花に、なぜかとても惹き寄せられる。


「この花の香り、とても、懐かしいわ…。」


 小さく呟いたその声はハンスには届かないほど小さい声だったが、その花の香りはバーベナ自身の中で確かな情景に変わっていった。

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