6.不可解な来訪者

「こちらです。……どうぞ、楽にしてください」

 捜査一課の取調室で、日高光彦は証言者――被害者・池内沙織の隣家に住む主婦・大橋美和子(おおはし みわこ)を丁寧に案内した。

 家庭的な雰囲気の女性で、四十代後半だろうか。肩先までの髪を大人しくまとめ上げ、黒縁眼鏡の奥に不安そうな眼差しを宿している。そんな彼女が、なぜ今さら“男の声”を聞いたなどと証言を変えたのか――そこが今日の焦点だった。


 日高の隣には主任の警部補が同席し、録音機器をテーブルに置く。すでに簡単な事情聴取は済ませているが、改めて詳細を聞きたいというわけだ。

 「大橋さん、改めて当夜のことをお話し願えますか。深夜零時前後に何があったのか、正確なところを」

 そう促すと、美和子は眼鏡のブリッジ部分を指先で押さえながら、視線を下に落とした。

 「はい……最初の聴取で“ガラスが割れるような音を聞いた”とだけ申し上げたのは、本当にそうとしか思えなかったからです。でも、どうも違和感が拭えなくて……。それで一昨日、あらためて思い出そうとしていたら、かすかに“男の声”が混じっていた気がして……」


 美和子の口調は慎重だが、どこか怯えているようにも感じられる。

 「それは、一人の男の声? 複数人?」

 主任が追及すると、彼女はしばし考え込み、「一人か、二人か……はっきりしません」と答えるにとどまった。

 「気がついたときには、物音が止んで、窓の外を誰かが走り去る気配が見えたんです。――でもそれが男性かどうかまでは、はっきり……」

 申し訳なさそうに言葉を濁し、肩をすくめる。やはり、曖昧な証言に変わりはなさそうだ。


 証言を一通り聞き終えた後、主任が顔を上げる。

 「最初に警察へ“ガラスが割れる音”だけを伝えたときと、今回“男の声”を付け足したとき、何か大きく状況が変わったわけではないんですよね?」

 「はい。でも、最近なんだか不安なことが多くて。実は……数日前から、家の周りで見慣れない人影を感じるんです。夜に物音がするというか、誰かがこっそりうちの窓を覗いてるような……」

 そこまで言うと、美和子は声を落として震え始めた。

 「もしかして、自分の証言でご迷惑をかけることになったんじゃないかと思うと……。それで私、怖くなって黙っていました。でも、これ以上黙ってるのも……」


 “妙な人影”“夜の物音”――先ほど日高が感じた“尾行”や“圧力”を考えると、決してあり得ない話ではないかもしれない。誰かが大橋美和子の証言を警戒し、威圧している可能性もある。

 (真梨子の取材メモ、池内沙織が掴んだ“写真”。何者かが必死に真相を封じようとしているとすれば、証言者を脅すことも十分考えられる……)

 日高は脳内でそう推理しながら、テーブルの上のメモ帳にさらさらと書き込んだ。


 取調室を出た後、主任が日高を呼び止める。

 「やはり、この事件の裏で何かあるかもしれん。大橋さんへの嫌がらせが事実なら、ただの殺人では済まなくなりそうだ」

 「そうですね。おまけに、池内さんが残したメールの下書きのことも……どうやら彼女は“大きなネタ”を掴みかけていたようですし」

 主任は首をひねりながら歩き始める。

 「法医の見解でも、池内の死はやはり他殺の可能性が濃厚になってきた。頸部に極めて微かな圧迫痕があるらしい。犯人がどんな手段で部屋を出入りしたかは不明だが、密室ではなくなったとみていいだろう」

 密室殺人が覆され、他殺へ傾く――これは捜査にとっては一歩前進だが、裏を返せば「犯人は計画的に侵入・退出した」ということでもある。ますます厄介になるのは間違いない。


 そこへ若手の宮下が小走りで近づいてきた。

 「日高さん、主任! 解析チームから連絡がありました。池内さんのパソコンにあった“例の写真”、高解像度データの復元が進んだそうです。ちらっと映り込んでいた人物の顔が、ほんの少しだけ判別できるかもしれないって」

 「本当か? それは朗報だな」

 主任が顔を上げ、目に力を宿す。

 「ただ、まだ解析中で、はっきり断定はできないそうです。もう少し時間がかかるって……」

 「いいだろう。引き続きそっちは任せる。俺たちは一課の捜査会議を再度セットしよう。証言の整理と法医の分析結果、そして写真解析の進捗をまとめるんだ」


 宮下が去った後、日高は主任に一言断ってから廊下の隅へ向かった。言うまでもなく、わざわざ人目を避けるのは“彼女”が現れるかもしれないからだ。

 予想通り、空気がわずかに揺らめいた。半透明の姿がちらりと見える――平沢真梨子だ。

 「話、聞こえてたかな」

 日高が低い声で問いかけると、真梨子は曖昧に頷く。

 「池内さんが撮った写真に、犯人の顔か、あるいは共犯者が写っているかもしれないってことよね」

 「そうなる。もしも写真が決定的な証拠を映しているなら、犯人は何としてでもそれを回収したいだろう。だから池内を……」

 そこで言葉を切り、日高はため息をついた。続きは言わずとも明白だ。真梨子は切なげな表情で床を見つめる。

 「わたしも同じ。何らかの“証拠”をつかみかけて……殺されたのかも」


 彼女の声は震えていた。自分の死が、単に“不慮の事故”ではなく、誰かの意図による“口封じ”だったという可能性――それを突きつけられるのはどれほど恐怖だろう。

 「だが、まだはっきりしたことはわからない。池内さんの写真と同じように、君が書いていた“取材メモ”が鍵になるかもしれない」

 「……そうね。わたしが生きていたころの取材メモが、今でも残っているなんて……皮肉な話だけど、それこそがわたしの死の証明になるのかもしれない」


 日高はそう話を続けようとしたとき、突如、捜査一課の受付カウンターが騒がしくなったのが耳に入った。数人の刑事が慌てて動き出し、書類を手に走り回っている。

 「なにかあったのか……?」

 廊下を覗くと、若い女性がカウンター越しに必死で訴えているのが見えた。茶色がかった髪を一つに束ね、ロングコートを着たその姿に見覚えはない。だが、どこか切迫した空気を纏っている。

 「すみません、あなたが日高さんですか?」

 カウンターの刑事に問いかけた女性が、こちらに目を向ける。その瞬間、日高は戸惑いながらも一歩進み出た。

 「ええ、日高ですが……どちら様でしょうか」

 彼女は周囲を気にしながら、震える声で切り出す。

 「わたし……池内沙織の友人、鈴村彩香(すずむら あやか)といいます。どうしても、池内さんの事件について話したいことがあって……」


 池内の友人――これまでの捜査で名前は挙がっていない。単なる同僚や取引先以外で、プライベートな友人関係はほとんど把握できていなかっただけに、日高は思わず身を乗り出した。

 「はい、詳しく聞かせてもらえますか?」

 「できれば、人目の少ないところでお願いしたいんです……」

 鈴村の瞳は強い意志を秘めつつも、どこか不安げに揺れている。日高は彼女女を応接室へ通し、周囲の刑事に「自分が対応する」と告げてドアを閉めた。


 ドアの外側では、警戒するような目つきで主任がこちらを見やっているが、“まずは話を聞く”という姿勢に反対はないようだ。

 鈴村彩香はソファに落ち着き、深呼吸を繰り返した後、日高の目を真っ直ぐに見つめる。

 「池内沙織が言っていたんです。『とんでもない写真を手に入れた』って。けど、それだけじゃない。“マリコ”って人の名前もよく口にしていました」

 「“マリコ”……?」

 日高が反応したのを見て、鈴村の表情がこわばる。

 「はい。“平沢マリコ”だったと思います。名前まではっきり聞いたわけじゃないけれど、池内は“マリコが残した取材メモがある”って言ってました。もしそれを世に出せば、大きな不正が暴かれるはずだって……」


 聞き慣れた名。まぎれもなく“平沢真梨子”のことだ。事件当夜、池内沙織は真梨子の取材メモを探し出し、あるいは手にしていたのかもしれない。

 「それで……そのメモを実際に見たんですか?」

 鈴村は首を横に振る。

 「いえ、私には見せてくれませんでした。“危険だから巻き込みたくない”って。でも、彼女は言ってたんです。“あの人の無念を晴らしたい”って……」

 その一言に、日高の胸が熱くなる。池内沙織は、死んだ記者の意志を継ごうとしていたのか。


 外の廊下では、真梨子がその会話を盗み聞くように佇んでいるのかもしれない。彼女が今、どんな表情を浮かべているのかと想像するだけで、日高は痛切な想いを覚える。

 (平沢真梨子――その名は確かに池内沙織へと受け継がれ、そして池内もまた殺された。これは偶然なんかじゃない。やはり“大きな闇”が裏で動いている)


 日高は短く息をつき、鈴村に向き直る。

 「鈴村さん、あなたが知っていることを全て話してください。池内さんがいつ、どこで“マリコ”の名前を聞いたのか。そして、あの“写真”についても……」

 決意をにじませる彼女の視線と、日高の真摯な表情が交差する。廊下の外では、雨のような静かな空気の中、“幽霊の相棒”がそっと見守っていた。

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