4.封印された記事

 翌日、朝からしとしとと降り続く雨は少しだけ勢いを増し、灰色の雲が都心を覆っていた。日高光彦はいつものように捜査一課のオフィスに顔を出したが、すぐに内勤の若手たちへ指示を飛ばす。彼の目的は“平沢真梨子”が生前に属していたとされる新聞社――それらしき媒体の有無を徹底的に探ることだった。

 もっとも、真梨子という名が警察のデータベースに一切引っかからなかった以上、どの新聞社か特定するのは困難を極める。しかし、少なくとも彼女が地方紙の記者見習いだったらしいことは断片的にわかっている。少しでも当たりをつけるしかない。


 パソコン端末の検索だけでは埒が明かないと感じた日高は、昼前に外出許可を取り、警視庁を出た。向かう先は都内にある大手図書館と新聞の資料室だ。過去の記事を網羅的に閲覧できる場所なら、「平沢真梨子」という名に繋がる痕跡が出てくるかもしれない。


 公共図書館の地下にある新聞資料室は、古い紙面や縮刷版がずらりと並ぶ空間だ。全国紙だけでなく、地方紙のバックナンバーを一部揃えている。日高は図書館職員の助けを借りながら、十年分ほどの縮刷版を手当たり次第に調べ始めた。

 (もし彼女が五年以内に亡くなったと仮定すれば、この辺りの時期に記事を書いていたはずだが……)

 紙をめくる作業は地道で時間がかかる。しかも記者見習いの名前が紙面に大々的に載ることは稀だ。諦めずにページを繰り続けるうち、古い紙の匂いが鼻を刺激し、疲労感がどっと押し寄せてきた。

 (やはり無理があるか……)


 そう思い始めたころ、ふと背後からかすかな声がした。

「そっちじゃない……もう少し先……」

 低い声量。だが、その音色に聞き覚えがある。日高はハッとして周囲を見回す。平日の昼下がりの資料室は静かで、人影もまばら。誰もこちらに呼びかけているようには見えない。しかし、彼の耳にははっきりと聞こえた。

「真梨子……いるのか?」

 思わず小声でつぶやくと、かすかに空気が揺れる。なぜか、その揺らぎは右手の棚へ導くかのように動いていく。日高は無意識にその棚へ近づき、背表紙を確かめながら縮刷版を辿る。

 (平成○年……地方紙……北関東エリアか。彼女が“地方紙”と言っていたなら、この一帯かもしれない……)

 長く埃をかぶっていた分厚いファイルを引き抜き、指定されたと思しき年月のページを開く。すると――そこに小さな記事が載っていた。


 見開きの隅に、「○○新聞・平沢(記)」と署名のある短いレポートが目に飛び込んでくる。三段コラムの地方面記事。内容は地元商店街の祭りレポートだ。実名での表記ではなく「平沢(記)」とイニシャルに近い形だが、記事末尾には「記者見習い・平沢真梨子」との肩書が小さく添えられている。

 「これだ……!」

 思わず声に出そうになり、慌てて周囲を気にする。今も彼女の姿は見えないが、その気配がこのページに誘導してくれたのは間違いない。

 記事の内容はさほど重要ではない。だが、別のページを捲ると、同じ時期に地元政治家へのインタビュー記事があり、そこにも同じ署名が確認できた。取材の補佐に入ったか、あるいは短いコメントを追記した形か。

 (確かに地方紙の記者見習いだったんだな。これで一つ確実な証拠が得られた……)


 日高はさらに先を読み進める。そこには、商業施設の進出を巡り地元住民と開発業者が対立した記事も載っていた。名前は異なるが、開発会社が地元議員を取り込もうとしている疑惑がちらりと記されている。

 (ここに、三浦総合開発の動きは書かれていない。だが、同じような再開発トラブルの記事を真梨子が複数書いていたのかもしれない。これが“彼女の死”と関係している可能性は……?)

 その真意を確かめるべく、より詳細な記事を探したいと思うが、紙面上には大きな記事として取り上げられていない。いずれも数行から数段程度の扱いで、真梨子の名が出てくるのも稀だ。


 日高はそれでも諦めずに紙面を繰り続ける。数日後のページに、地域行政の不正疑惑を追及する特集が組まれていた。執筆者としてメイン記者の名が大きく載り、その端に「取材補佐:平沢真梨子」との注記がある。

 (これだ……)

 記事は、地元議会と不動産会社の裏取引らしき内容を示唆しており、具体的な政治家名と会社名も一部記されている。もっとも、紙面上では告発というよりは「市民の疑惑を追う」という控えめな論調にとどまっている。

 (真梨子はここで何を掴んだんだ? そして、その後どうなった……?)


 さらに一週間分ほど紙面を読んでも、“平沢真梨子”という名は一切登場しなくなった。連載の途中で、突然フェードアウトするように姿を消している。

 (このタイミングで何が起きたんだ……?)

 紙面にも謝辞や退社の案内などは見当たらない。地方紙の場合、見習いが辞めたりすれば何かしら人事の一文くらい載るものだが、それすらない。

 (やはり“事故死”もしくは何らかの事件に巻き込まれて、そのまま伏せられたか……)


 考え込んでいると、背後の空気がふわりと動く。日高が振り向けば、姿は見えずとも真梨子の気配がそこにあった。

「ありがとう……わたし、確かにこの新聞にいたのね」

 声だけが、日高の耳に届く。切なげな吐息も混じっている。

「君が取材していたのは、再開発か、それとも政治家の不正か……?」

「わからない。でも、どうしても追わなきゃならないと思っていたことがあった。それがきっかけで……消えたのかもしれない」

 その声には、かすかな震えがあった。日高は周囲に人目がないのを確認しながら、小さくうなずく。

「少なくとも、この記事の続報が急に途絶えてるのは事実だ。裏で何かあったとしか思えない。――よし、記者が誰だったのか調べてみよう。メイン記者の名前も載ってるし、そこから辿れるかもしれない」


 日高はその記者の名をメモし、縮刷版をきれいに元の場所へ戻した。時間は既に昼を過ぎている。このままここで調べ続けても限界があるので、一旦警視庁に戻り、正式に“裏取り”をすることを決めた。警察としての権限をどこまで使えるかは微妙だが、何もしないよりはましだ。

 (これで真梨子の過去が少しずつ浮かび上がってくるはず。池内沙織の事件とも、どこかで繋がっている……その感覚だけは確信に近い)


 図書館を出て、資料室の受付に軽く会釈をしながらエレベーターへ向かう。雨音がビルの壁を伝って響くロビーに出た瞬間、日高は微かな殺気のようなものを感じて足を止めた。

 ガラス張りの自動ドアの外、道路脇に立つ黒い傘の男がじっとこちらを見ている気がする。視線が絡む瞬間、男はさっと顔を伏せ、違う方向へ歩き始めた。

 (今のは……?)

 日高はエレベーター前で一拍置き、警戒の目つきで外へ出る。だが、雨の中で黒い傘を差して歩く人影など珍しくない。先ほどの男かどうかすら判別できないほど人通りが多いわけではないが、見失うのは一瞬だった。

 (考えすぎかもしれない……だが、こんな場所に尾行がいるとはな)

 池内沙織の事件に関わる何者かか、それとも警察内部の誰かなのか――日高はわからないまま、タクシー乗り場へ向かう。どこからか感じる不穏な空気が、胸の奥をざわつかせた。


 警視庁に戻る前に、日高は意を決して“○○新聞社”の東京支局へ立ち寄ることにした。真梨子が記者見習いをしていた当時、彼女を指導していたメイン記者が東京支局に異動している可能性もある。少なくとも、地方本社への連絡ルートはあるだろう。

 ビルのエレベーターで受付フロアに降り立ち、応対に出た守衛に警察手帳を見せ、簡単な訪問意図を伝えると、「広報担当」を呼んでくるという。待合スペースで数分待つと、タブレットを抱えた若い広報スタッフが小走りでやって来た。

「警視庁の方……ですよね。今日はどのようなご用件でしょう?」

「少しお伺いしたいことがあります。そちらの新聞社で、数年前に“平沢真梨子”という記者見習いが在籍していなかったか……。その確認です」

 広報スタッフは怪訝な顔でタブレットを操作する。社員・アルバイト・契約記者などの簡易データベースを検索しているようだが、どうもヒットしないらしい。

「申し訳ありませんが、当社の東京支局にはそのような名前の者は在籍しておりません。過去のデータにも見当たりませんね」


 想定内ではあったが、落胆は否めない。日高はさらに踏み込んで尋ねる。

「では、地方の支局や本社を含めて確認してもらうことは可能ですか? この名前で働いていたか、あるいは何らかの事情で記録が残っていないかもしれませんが……」

 スタッフは少し困った顔をしたが、警察の要請とあっては無視できないらしく、「本社へ問い合わせてみます」と答えた。

「お時間をいただくかと思いますので、折り返しのご連絡でもよろしいでしょうか?」

「ええ、構いません。急ぎではありますが、どうかよろしくお願いします」

 名刺を差し出し、スタッフと連絡先を交換する。彼は軽く頭を下げて、奥の執務スペースへ戻っていった。


 やるべきことはやった――そう自分に言い聞かせるように、日高は新聞社のビルを出た。ぽつぽつと降り出していた雨が再び強くなる。

「いずれにせよ、ここから先は地方本社とのやりとりになるか。表に出せない事情があった場合、すんなり情報は出てこないだろうけど……」

 少し苛立ちまじりにつぶやき、日高は再びタクシーを捕まえて乗り込む。警視庁へ戻るまでの短い道のり、窓ガラスを流れる雨粒を眺めながら、“彼女”の声が耳に残っていた。

「どうして死んでしまったの……?」

 幽霊という不可思議な存在と対峙しながらも、刑事としての倫理感や理性が崩れそうになる瞬間がある。それでも、彼女の訴えが嘘や幻だと思えないのは、やはり自分の“勘”が動いているからだ。


 タクシーの後部座席、いつの間にか真梨子が現れているかもしれない――そう思って振り返るが、そこには誰の姿もなかった。ただ、助手席から振り返った運転手が怪訝そうに目を瞬かせた。

「お客さん、どうかしましたか?」

「いいえ、何でもありません」

 日高は曖昧に笑みを返し、雨にけぶる街の景色に目を移す。そう簡単に都合よく出てきてくれるわけでもないらしい。

 だが、このまま進めば、いずれ真梨子の記憶も真相も掴めるはずだ。そして――池内沙織の殺害犯にも近づける。二人の事件が交錯する先には、一体どれほどの闇が待ち受けているのだろうか。

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