『見えざる相棒(バディ)』

MKT

1.見えざる存在

 雨が降りしきる木曜の早朝、警視庁捜査一課の刑事・日高光彦は、東京・世田谷区の閑静な住宅街に降り立った。通報があったのは未明。二階建ての一軒家で女性が殺害されたという一報は、今期いちばんの重大事件として扱われていた。

 正門をくぐると、既に複数の制服警官がテープを張り、物々しい空気を漂わせている。傘を畳みながら中へ足を踏み入れた日高は、控えめに声をかけた。

「捜査一課の巡査部長、日高です。状況は?」

 出迎えた若い巡査が恐縮した様子で応じる。

「被害者は二十八歳の女性、名前は池内沙織。遺体は一階リビングで見つかりました。ドアや窓に外部から侵入した形跡はありません。鍵はかかっていました」

「鍵がかかっていて被害者が死亡している……密室か」

 巡査は黙ってうなずいた。日高はその言葉に引っかかりを覚える。密室事件。過去に何度か担当してきたが、こういうときは室内に仕掛けがあるか、そもそも加害者が内側から施錠した可能性が高い。だが、いずれにしても闇雲に当たるしかない。日高は貸し出されたビニールカバーの靴を履き、リビングに向かった。


 リビングはわずかに湿った空気が漂っていた。空調は止まっており、室内は梅雨の湿気に包まれている。被害者――池内沙織の遺体は床に倒れたままで、床の上には小さな水滴がいくつも散らばっていた。血痕は少ない。致命傷がどこにあるのか、ぱっと見ではわからないほどだ。

 現場検証班の法医がそっと遺体を確認している。日高はそこへ歩み寄り、静かに尋ねる。

「外傷は見つかりましたか?」

「うーん、目立つ外傷は見受けられない。仮に毒物による急死かもしれないし、首を絞められた痕も薄いが確認中だ。確定はもう少し後になりそうだな」

 腑に落ちない表情で法医が顔を上げる。やがて現場検証のスタッフが細かく写真を撮り始めた。日高は細心の注意を払って部屋をぐるりと見回す。家具や家電に異常はなさそうだ。テーブルの上に置かれた小さなノートパソコンと、水滴が付着したコーヒーカップだけが生活の気配を示している。

 ――何かが足りない。だが、今はまだそれが何なのか、日高にははっきりわからなかった。


 遺体から少し離れた場所に、写真立てが倒れているのを見つけた。家族の写真だろうか。写っているのは若い女性と見知らぬ男性、そしてもう一人、中年の女性。全員が笑顔だ。

 その写真を手に取る瞬間、日高は不意に視線を感じた。生温い空気の動きとは別に、背後から何かがこちらを見ている。妙な感覚が一瞬だけ首筋を撫でたが、思わず振り向いても誰もいない。同行していた鑑識係も、他の刑事も、すでに各自の作業に没頭している。

「気のせいか……」

 日高は心の内でそう呟き、フォトフレームを元に戻した。


 検証を終え、いったん外に出てみると、雨は弱まっていた。曇天の下、道路脇に停めてある捜査車両に歩み寄ろうとしたそのとき、背中のあたりにまた“視線”がまとわりつく。再び振り返るが、やはり誰もいない。

 だが、その瞬間だけはっきりと感じた。まるで言葉にならない“声”が、脳裏をかすめたような気がする。――ここにいるのに、なぜ気づいてくれないの、とでも言いたげな。

 日高は思わず息を呑んだ。だが、周囲の刑事たちは何の変化もない表情で歩き回っている。誰一人、彼の異変に気づいていない。

(何なんだ…疲れているのか?)

 事件の緊迫感と睡眠不足が重なったせいで、錯覚を見ているだけだろう。そう思い直し、日高は車に乗り込んだ。後部座席のドアを閉めた瞬間、運転席に座っていた同僚が振り返る。

「日高さん、どうします? 捜査本部に戻りますか?」

「ああ、ひと通りの現場検証が終わったみたいだし、俺たちもそろそろ――」

 言いかけて、日高は息を止めた。背後のシートに人の姿がある。けれど、外には日高と同僚の二人しかいないはず。

 そこに座っていたのは、まだ若い女性だった。どこか憂いを帯びた瞳で、じっと日高を見つめている。

「えっ……?」

 思わず声を上げた日高をよそに、同僚は不思議そうに首を傾げる。

「日高さん、どうしたんです? 誰もいませんよ」

 日高は咄嗟に、何も言えなかった。無言でその女性を見返す。すると彼女は唇を少しだけ動かし、声にならない声を放つ。

「あなた……私が見えるんだね」


 雨の滴が再びフロントガラスを叩き始める中、日高の鼓動だけがやけに大きく聞こえてきた。


 日高はその場で石のように固まった。

 後部座席には確かに若い女性が座っている。黒髪の肩先が微かに濡れているのは、外の雨に打たれたからだろうか――そう思うほどの生々しさだ。だが、同僚の刑事にはまったく見えていない。

「えっと……日高さん?」

 運転席から同僚が訝しむように声をかける。

「いや、何でもない。ちょっと……」

 日高はわざとらしく咳払いをしてから、後ろに視線を戻した。女性はじっとこちらを見つめている。表情に驚きや恐れはなく、むしろ懸命に何かを訴えようとしているようだ。

「どうしよう。いったん外に出て頭を冷やすか……」

 日高はそう思い、ドアを開けようとした。すると、その女性が声も出さずにかぶりを振った気がした。彼女は身振りで「ここで話したい」とでも言いたげだ。


 運転席にいる同僚は困惑している様子だが、あえて突っ込んではこない。「捜査本部に戻りましょうか」と確認するが、日高は「ちょっと待ってくれ」と答えるだけ。

「すぐ戻るから、先に出発しないで待っていてくれ」

 そう言い残して日高は車を降り、傘をさして車体の陰に回った。後部座席のドアに手をかけると、まだそこにいるはずの“彼女”の気配を感じる。周囲に野次馬やマスコミはいない。雨の音だけが静かに耳を叩く。

 意を決して後部座席のドアを開けると、まるで当然のように彼女がそこに座っていた。日高は周囲を確認した上で、声を抑えつつ問いかける。

「……君は一体、何者なんだ?」

 すると彼女は、また唇を動かした。今回はかすかではあるが、確かな声が聞こえる。

「平沢、真梨子……たぶん。それしか思い出せなくて……」

「平沢真梨子?」

 日高は聞き覚えのない名前に首を傾げる。間違いなく、先ほどの被害者の氏名とも違っている。

「いつから……ここにいたんだ?」

「わからない。気づいたときには、あなたの姿が見えたの。そしたら……あなたも私を見ている気がして」

 声は弱々しく震えているが、その瞳は必死に何かを伝えようとしている。日高は思わずドキリとした。生きた人間となんら変わりない“存在”を、自分だけが認識できているという現実。理性がこの状況を否定しようとしても、彼女がそこに“いる”という事実が揺るがない。


 雨粒が車の屋根を叩く音がひときわ大きくなった。日高はドア越しにそっと傘を差しかけながら、声を潜める。

「幽霊……なのか?」

 自分で言っていても馬鹿げていると感じる。だが、そうとしか説明がつかない。彼女は困ったように眉を下げて、ほんの少し頷いた。

「そう、みたい……。でも私、自分が死んだのかどうかも、はっきり覚えてなくて。名前と断片的な記憶くらいしか残ってないの」

 彼女の表情に怯えや悲しみがにじむ。だが奇妙なほど、彼女の姿は鮮明で、まるで本当に血の通った人間のように見える。日高はごくりと唾を飲んだ。

「どうして……俺が君を見えるんだ?」

「わからない。でも……お願い。助けてほしいの」

「助ける? 何を?」

「私が……なぜここにいて、どうして死んだのか。きっと理由があるはずなの」

 言葉はそれだけで尽きるかのように途切れた。彼女自身も、自分の状況を理解しきれていないのだろう。日高は戸惑いながらも、捜査官としての直感が心を揺さぶるのを感じた。

(放っておけるわけがない。こんなのはあり得ない話だが、もしこれが何かのヒントになるなら……)


 彼女に伸ばした手は当然ながら空気を切り、何にも触れることはできなかった。

「日高さーん、戻ってきてください!」

 同僚の刑事が車内から声をかける。どうやら捜査本部に戻る時間が迫っているらしい。

「……わかった。すぐ行く」

 日高はドアを一旦閉め、屋根越しに彼女に向かって言った。

「ひとまず一緒に来るか? と言っても、どうやって連れていけばいいのかわからないが……」

 そこまで言ったところで、彼女の姿がふっと消えた。慌てて後部座席を覗き込んでも、そこにはもう誰もいない。まるで最初から存在しなかったかのように。

「……幻覚、だったのか?」

 日高は半ば放心したまま、車のドアを再び開けて後部座席を覗いた。やはり誰もいない。だが、さっきまで確かに感じていた妙な生気はまだその空間に残っているような気がする。

 胸の奥がざわつく感覚を抱えたまま、日高は仕方なく車に乗り込み、同僚に指示した。

「捜査本部に戻ろう。現場の報告をまとめないと」

 同僚は怪訝そうに日高を見やったが、口には出さなかった。車が発進し、ゆっくりと住宅街を抜けていく。雨音がフロントガラスを叩くリズムを聞きながら、日高は先ほどの“幽霊”――平沢真梨子の必死なまなざしを思い出していた。

(池内沙織殺害事件と関係があるのか? まさか、そんなはずは……)

 だが、彼女の眼差しはただの幻想にしてはあまりにも切実だった。

 警察官としての論理と、人間としての直感。その狭間で、日高の思考は揺れ動き続ける。

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