第1話 コシェニング・サーカス団
空は一面、陰鬱な雲に覆われていた。正午だというのに、陽光は重なり合う雲の層を突き抜けず、不気味な雲を死んだように蒼涼な色合いに染めている。
眼下の土地は、まるで人の気配のない、起伏に富んだ荒野だった。しかし、微風が吹き抜けるたびに、地面の土が微かに震え、そこから星屑のような輝きがちらちらと顔を出し、遠くに見えるカラフルでふっくらとしたテント群を、瞬きながら見つめているようだった。
そのふっくらとしたテントは、けばけばしいほどの色で彩られ、五色の地色の上に、きらびやかな装飾が連なり、西大陸語で印刷された文字を際立たせていた。
「コシェニング・サーカス団」。
それは、諸国を巡り歩く旅芸人の一座であり、その演目は、伝統的なサーカスの内容と大差ないだろう。テントの間では、珍しい動物たちが、サーカス団員に引かれて歩き回り、道化師のような化粧を施した役者たちが、額のふっくらとしたカツラを整えている。
「コリン団長、準備はほぼ完了しました。ブライアン城に向けて出発できます」
サーカス団の入り口で、ピエロの格好をした団員が、コーヒーカップを手にした、太鼓腹の中年男にそう告げた。男は、髪はふくれあがって乱れ、髭は手入れもされず、スーツでは隠しきれない贅肉が、まるで鉄桶のように膨れ上がった体躯を、さらに醜く見せていた。
「ああ……準備できたなら、そろそろ出発の準備を……うむ、もうしばらく買い手を待とう。今夜まで来なければ、出発だ」
「かしこまりました。皆に伝えてきます」
道化師はテントの間へと走り去り、 “コリン”と呼ばれた男は鼻をこすった。ブライアン荒野の風は、まるで刃物のように冷たく、刺すようで、諸国を渡り歩く彼らでさえ、容易には耐えられないほどだった。
やはり、最も暮らしやすいのは、聖ナリだろう。
中年男はコーヒーを飲みながら、そう思った。
そこには、完璧とも言える教育システムと医療システムがあり、人間の文明の光は、街の石畳の一枚一枚にまで宿っている。彼らのような、さすらいの身の者でも、街に足を踏み入れただけで、その安寧とした雰囲気に心酔し、汚一つない石畳に跪き、口づけしたくなるほどだった。
それなのに、今はこんな場所で商売をしている。しかも、買い手は約束を反故にし、いつまで経っても姿を現さない。
コリンは、周囲の土の下から、星屑のように瞬く瞳を一瞥した。次の瞬間、その小さな妖精のような生き物は、一斉に地中へと姿を消した。
男は瞳孔を僅かに縮め、何かを感じ取ったように、広大な荒野の彼方を見た。雷鳴のような馬蹄の音が、静寂を打ち破り、次第に大きくなってくる。道なき荒野を、小さな黒点が馬蹄とともに、サーカス団へと近づいてくるのが見えた。
「来たか……」
コリンは、肥満した……いや、突き出た顎を少し上げ、カップに残った最後のコーヒーを飲み干し、振り返って団員にカップを渡し、手をさすり合わせ、肥大化した自身の容姿を整えると、作り笑いを浮かべ、サーカス団の入り口に仁王立ちし、遠方から来る客を待ち構えた。
二頭の黒い駿馬が、一台の馬車を猛スピードで牽引し、サーカス団へと接近してくる。近づくにつれて、コリンは馬車の前に座り、手綱を握る男の姿を捉えた。
男は、仕立ての良い、上品な聖ナリのスーツに身を包み、白い手袋をはめた手が、手綱を優しく握っている。黒いシルクハットの下には、若々しく精悍な顔立ちが覗くが、感情の欠片もない表情が、彼との距離を遠ざけ、冷徹な雰囲気を漂わせていた。
「ヒヒン!」
距離が縮まると、男は軽く手綱を引いたように見えた。しかし、前方の二頭の黒馬は、まるで巨大な力に阻まれたかのように、嘶き声を上げ、前足を僅かに浮かせ、サーカス団の手前で、熱気を帯びた蹄を地面に踏み鳴らし、荒い息遣いをしながら停止した。
コリンは、男の容姿に見惚れていた状態から、慌てて意識を取り戻し、内心で「まずい」と呟きながらも、愛想笑いを顔に貼り付け、手を擦り合わせながら、馬車へと歩み寄った。
「ようこそ、遠路はるばるコシェニング・サーカス団へ。わたくし、このサーカス団の団長、コリンと申します。ようこそ、ようこそ……」
男は傍らのステッキを手に、馬車の側面から降り立った
革靴がブライアン荒野の土を踏みしめる。その足下では、土の精霊たちが好奇心いっぱいに地上を覗こうとしていた。だが男は、無慈悲にもそれらを踏み潰した。土くれが数度跳ね上がり、小さな波紋を残して散る。
精霊たちが逃げ去った気配だった。
男は表情を変えず、被っていた帽子を取り、コリンに向かって言った。
「ご挨拶いたします、コリン団長。ヴィクトルと申します。先日、予約した商品の取引に参りました」
コリンは、目の前の男を改めて観察し、眉をぴくりと動かした。そして、ようやく手を擦り合わせながら、ためらいがちに作り笑いを浮かべた。
「ううむ……わたくしと取引をされるのは、フィロエンヌのオーン様だったはずでは? あなた様のような立派な紳士では……それとも、もしかして、わたくしどものショーをご覧に? それは残念ながら、ブライアン城までお待ちいただかないと……おや!」
コリンの言葉が終わる前に、目の前のヴィクトルは、ステッキで軽く地面を叩いた。かすかな笑みを浮かべながら、念を押すように言った。
「注文です、ショーではございません、コリンさん」
「……あ、あの、わたくしどもには原則というものがございまして、原則として、注文が確定した以上、それは……」
「原則、ですか?」
漆黒のヴィクトルは、ステッキで馬車の側面を軽く叩いた。すると、小さな隠し扉が音もなく開き、中から血なまぐさい臭いを放つ袋が転がり出てきた。その長さからして、ちょうど成人男性ほどの大きさだろうか。コリンのような肥満体型が入るかどうかは不明だが。
転がった袋は、コリンの足元で止まり、袋の口が僅かに開き、中から血の匂いと恐怖に歪んだ男の顔が覗いた。それは、紛れもなく、本来の買い手であるオーンだった。
コリンは慌てて、太った口を噤んだ。足元に広がる血の匂いが、体内に流れ込み、己の身を汚染するのを恐れたのだ。彼は、震えながら眼球だけを動かし、紳士然とした男が、ステッキを逆手に持ち替え、先ほどと同じ隠し扉から、今度は、チャリンチャリンと音を立てる袋を取り出すのを目撃した。それは、聖ナリ金貨で満たされているようだった。
その量は、当初の取引で約束された金額を遥かに上回っていた。
「あ……ああ! そうです! 原則です!」コリンは唾を飲み込み、勢いよく手を叩き、断言するように言った。
「わたくしどものような商売で最も重んじるのは、まさに原則でございます。ヴィクトル様との取引をお約束した以上、それを他の方に譲るなど、断じてありえません……ハハハ……ハハ、そうでございましょう?」
「コリンさんは、ユーモアのある方ですね」
ヴィクトルは、相変わらずステッキを握り、目の前の肥満男を、笑みを湛えた眼差しで見つめている。その平淡な視線を受け、コリンは一瞬躊躇したが、地面に置かれた金貨の詰まった袋を掴み上げた。口を開けて中身を確認すると、確かに本物の金貨で溢れかえっている。彼は、地面に転がったままのオーンには目もくれなかった。
まさに彼が言う通り、彼は確かに原則を重んじる男だった。その原則とは、金貨を尺度とし、己の欲を指針とするものだった。
ヴィクトルは、帽子を被り直し、彼の行動には頓着せず、ただ口を開いた。
「品を見せてもらおうか」
「もちろんです、もちろんです、ヴィクトル様、こちらへ、こちらへ……」
コリンは、金貨の詰まった大きな袋を、服の内ポケットへと押し込み始めた。肥満体躯は、その強引な動作によって歪み、見るからに苦しそうだったが、驚くべきことに、その苦悶に満ちた動作の末に、本当に大きな金貨の袋が、彼の服の内ポケット……いや、正確には、服の内側の贅肉の中に、すっぽりと収まってしまったのだ。
彼は、さらに太ったように見え、げっぷまで漏らした。
「あれは、どこの国の魔法ですか?」
ヴィクトルは興味深そうに尋ねた。
ヴィクトルの視線に気づき、コリンは気まずそうに笑い、弁解するように言った。
「ほんの、手品のようなものです。本物の魔法には及びませんよ……」
ヴィクトルは頷き、それ以上は追求しなかった。
本物の魔法であっても、恐らくは、このような男の秘伝の類いだろう。根掘り葉掘り詮索する必要もない。彼の目的は、そこにはない。今回の目的を無事に手に入れられれば、コリンなど、どうでもいい存在なのだ。
「お客様だ、客寄せの準備!」
先を歩いていたコリンが、突然大声で叫び、手をパンと叩いた。
その声に応じるように、背後のテントがまるで生き物のように動き出し、口のような覆いを開き、中にいる多くの役者や蒸気機関、そして珍しい獣たちを露わにした。
その中では、小さな象が、鼠のように役者の手の上で跳ね回り、幻影のような蒸気機関車の上では、正体不明の幽霊たちが騒がしく叫び、一人の女役者が深呼吸した後、空に向かって無限の炎を吐き出した。そして、その炎の中から、人影が現れ、地面に着地した。
「皆、リハーサル中なんです……特に、あの幽霊どもは、まだ姿を現すための粉を撒いていませんで。あれは高価なものでして、正式な公演以外では、なかなか使えなくて」
コリンは、ヴィクトルを奥へと案内しながら、サーカス団の看板演目を説明した。
霊渡り列車。機関車は、本物の蒸気機関車を霊体で模倣して作った、高価な代物だ。縮小術。魔法で巨大な生物を縮小させ、ショーに取り入れている。火の精霊。あの炎の中から現れた人影は、成体の火の精霊で、外の地面の下にいる土の精霊と同種族だ。
ヴィクトルは、役者たちの衣装の奥から、紫色の紋章が仄かに光るのを見つけると、何事もなかったかのように視線をそらした。
奴隷紋章。紋章を刻まれた奴隷は、その生死はおろか、行動の全てまで、紋章の所有者に支配される。つまり、このサーカス団の団員は全員、奴隷なのだ。
主人は、目の前にいる肥満体、コリン団長だ。
「ここの者たちは、皆、奴隷です」
「ええ、ハハハ、ご存知でしたか……ええと、その、コストの問題でして」コリンは、少しばかり狼狽しながら手を擦り合わせた。
「あの、例の議員様たちが、シェーン議章を可決して以来、街の労働者の人件費が、以前とは比べものにならないほど高騰しまして。街に入るだけでも、防疫章代やらなんやらで……わたくしのような、細々と商売を営む正直者には、とてもじゃないですが、痛手でして……」
彼は、王国議会が可決した人権シェーン議章に、相当な不満を抱いているようだ。肥満した顔を僅かに揺らし、思案顔になる。
「確か、こう言ったはずです、あの議員様たちは、綺麗事を並べるばかりで、血税を貪るばかりの輩だと。かの御方は、全ての人々が、統一された最低賃金基準を享受できるように、と仰せになられたとか……」
「『余及び余の後継者は、本議章に則り、成年に達したる労働者に対し、同一の最低賃金待遇を享受することを、ここに誓約する……』」
ヴィクトルが、議章の原文を諳んじると、コリンは勢いよく手を叩き、
「そうです、そうです! 全く、あの忌々しい議員どもめ!」
議章は、奴隷と、汚らわしい亜人種を除き、身分や性別、年齢に関わらず、王国に住まう全ての自由で平等な市民を保護する……。
「着きましたよ、ヴィクトル様……」
サーカス団の奥まで辿り着き、黒いテントの前で、コリンは再び手を擦り合わせ、ヴィクトルのために、目の前の遮蔽幕を捲り上げた。
薄暗いテントの中は、中央に吊るされた頼りない蛍光灯が一つあるのみで、周囲には、折り重なるように鉄格子が並び、その中で、啜り泣き、震える影たちが、排泄物と食物が混ざり合った汚れた地面に這いつくばっていた。身体上の深紫色奴隷紋章が、微かに光を放ち、中にいる影たちが、常人とは異なる存在であることを、仄めかしていた。
ヴィクトルは、口と鼻を覆い、その様子を見たコリンは、腰をかがめ、愛想笑いを浮かべながら言った。
「ヴィクトル様、外でお待ちください。すぐに品を運び出させますから……以前お約束した通り、竜人族の雌を五体、で、よろしかったですね?」
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