サイバー・ファイバー・ダイバー・バイバー

けいりん

サイバー・ファイバー・ダイバー・バイバー

「それじゃ、最後の曲、聴いてください。『Drastic Violet』」

 歓声はなく、だがそれに変わるように大きな拍手が起こる。短い前奏の後、なぐりんが、ちかおが、順にメロディーをついでいき、皆が振り上げるペンライトの色は黄色、そして赤へと変わる。さらにオレンジに変わった時があたしのパート。

 みんなわかってるなあ。

 あたしは安心感とともにマイクを握り直す。


  ♪見せかけの色じゃ もう我慢できない 

  ♪および腰の知性なんて ねじ伏せてきて


 軽やかに回りながら、くれあと場所を入れ替える。ペンライトは緑へ。

 そしてサビ。会場が紫に埋め尽くされる。


  ♪DramaticなLove なんて幻なの?

  ♪DomesticなMoral 打ち破ってよ

  ♪最高よりも最高 絶頂よりも絶頂

  ♪お願い輝かせて Drastic Violet


 ああ、もう、本当に、最高よりも最高。フロアの発声禁止なんて、ちっとも気にならない。

 だってほら、みてよ、みんなの輝く瞳。

 あたしはウインクを飛ばし、手を振りながら、ステージを駆け回る。

 

「久しぶりー! 元気だった?」

「いつもありがとう。今日どうだった?」

「初めての方ですか? きてくれてありがとう!」

 今日はアイドルグループ、Violet Violence、略してバイバイの主催スリーマンライブ。あたしはそのかみつきオレンジ担当、阿久ベリル、通称べりたん。もちろん芸名。

 今は特典会の真っ最中。小さなハコに三グループ分のファンってこともあって、フロアはそれなりに賑わっていた。

「こんにちは」

「こんにちは。久しぶり!」

 にっこり笑って手を振る。

 冷麺さんだ。基本的には今日の共演グループの一つ、ブリアント・ビー、略してブリビのオタクなんだけど、バイバイの中ではあたしを推してくれていて、共演イベントの時には必ず特典会にもきてくれる。

「どうする、今日は?」

「あ、イキダオレの決めポーズで」

「おっけー!」

 あたしのセンター曲、『ため息だってオレンジ』の決めポーズでカシャリ。

「今日はありがとうね」

 マネージャーさんから差し出されたチェキを受け取り、サイン用のバインダーに挟みながら言う。

「ブリビは? もう撮ってきたの?」

「いや、これから。今日はバイバイさん主催だから、後にすると列伸びそうだと思って先に……って、なんかすみません、ついでみたいで」

「え、なんで? いつもきてくれて嬉しいよ」

 チェキにサインをして、短いメッセージを添える。マネージャーはまだ他の子の撮影中なので、戻ってくるまで、少しお話。冷麺さんは隣の列に目を走らせながら言う。

「それにしても、ずいぶん戻ってきたねえ」

 あたしは深く頷いた。

「そうだねえ」

「やっぱり集客数違う? 実感として」

「まあ、そりゃね。一時期は半分以下まで落ち込んだから」

 この数年、世界中に猛威を振るい続けている厄介な感染症。当初は感染拡大のリスクが高いとかで、ライブハウスそのものの使用に制限がかかり、ライブがままならない時期が続いたりもした。うちのようなライブ主体の地下アイドルにとっては大きな痛手。

「それでも、みんなが配信とかオンライン特典会とか拡散してくれたからさ、自宅待機中に知ってくれたとか、最近になって初めてきてくれたって人、ちょいちょいいるんだよ」

「バイバイはマメに配信してたもんね。べりたんなんか、今も毎週やってるでしょ」

「あたしの場合は、半分趣味っていうか、息抜きっていうか」

「そういえば、あの人……マキノさんだっけ、ライブには来た?」

「あ、あの人。ううん」

 あたしは首を振った。

「少なくとも名乗ってきてはいないね」

「そっかー。ブリビの方にもきてないみたいなんだよね。遠方住みなのかな」

「え、あの人ってブリビさんの配信にも行ってたの?」

「あ、知らなかった? 他にもいくつかのグループさんの配信、巡回してたみたいだよ」

「へえ……」

「オタの間でも噂になってるんだよね、多分諸々あわせると月に軽く一〇〇は使ってるはずだって」

「そんなに?」

「うん。計算したわけじゃないけど」

「そっかあ。どんな人なんだろうね」

「まあ興味は湧くよね。それに引き換え、ごめんね、毎回きてもチェキ一枚だけで」

「全然! こういうのはさ、金額じゃないから。現場にいれば必ずきてくれる、その気持ちが嬉しいの」

 現実的なあれこれとは別に、これはこれで本音。

「そう言ってもらえると気が楽だよ」

 冷麺さんがそう言ったとき、マネージャーが回ってきて、お話は終了。あたしはマネージャー経由で、サインをしたチェキを冷麺さんに渡す。

「ほんと、いつもありがとう。またね」

「うん。また!」

 入れ替わりでやってくるファンのために笑顔を更新しながら、あたしはこっそり考える。

(マキノさんねえ。ほんと、どんな人なんだろ)


 マキノさん、というのは、配信を通してバイバイを知ってくれたうちの一人。感染対策が叫ばれ始め、アイドルだけでなくバンドなどのミュージシャンも、みなそろってオンラインでの活動を模索していた頃、手探りで始めた配信に、ひょっこり顔を出してくれた。

 あたしたちバイバイは初動が早い方だったと思う。ちょうど新曲のお披露目とレコーディングを終え、リリースが間近だったことも追い風になった。本来なら各地CDショップでリリースイベントを行うところ、動画配信サイトでトークしながらネット通販での購入を呼びかけ、オンラインサイン会や、サイン入り写メ、お名前呼びかけ動画の作成、販売などをそれなりの頻度で行った。配信サイトで投げられるギフトも、重要な収入源となった。

 当初はメンバーが集まることすら制限されていたため、各メンバーの単独配信かコラボ配信というのが主な形式だった。ライブがなくても、そういう活動を通して新たについてくれるファンがいるというのは、ちょっと新鮮な驚きだった。

 そんな配信の場に、ごく初期からきてくれていたのがマキノさん。なぜ覚えているかと言えば、まだポツポツしか見にくる人がいなかった頃からよく名前を見かけていたのに加え、軌道に乗り始めてからはあっという間に、配信サイトのギフトにも各種オンライン通販にも多額の課金を繰り返す、いわゆる「太客」になったから。

 いや、それだけではない。マキノさんは、それだけ目立つ人にも関わらず、正体が一切わからない人でもあった。

 オンラインイベントやデジタルな商品には月に数十万は下らない課金をしながら、リアルな商品、CDやチェキ、各種グッズなどには一円も使っていなかったのだ。音楽は全て配信利用。データで受け取れる写メは買ってもチェキには目もくれない。だから住所も本名も、スタッフにすらわからないまま。

 人それぞれとはいえ、いくらなんでも極端だ。アイドルを推すような人は、リアルな手応えを求める場合が多い。だからこそ、感染の恐れと天秤にかけつつも、有観客ライブが始まれば会場に足を運んでくれるんだろうし、来れない人だって「もう少し落ち着いたら」と将来の希望を口にする。そんな人たちにとって、具体的な「モノ」はいつだって重要だ。

 いや、そんな話以前に、これだけ金払いがいいのに、リアル商品の購入だけが全くないのは、やはり不自然だろう。

 あまりに目立つのに顔のわからないマキノさんの存在は、逆説的とも言える強い存在感を、周囲に示していたのだった。


 合間合間にそんなことを考えながらチェキ列をこなしていたあたしは、たった今「かみつきポーズ」でチェキを撮り終わった憂鬱ファイトさんが、不意に黙り込んであらぬ方に視線を奪われているのに気がついた。

「ん? どしたの?」

「いや、なんかあっち」

 言われてみるとフロアのちょうど反対側、ブリビが特典会をやっていたあたりが騒がしい。あたしは思い切り爪先立ちになった。一五〇センチそこそこのあたしと長身の憂鬱ファイトさんで見える景色は雲泥の差。とても背伸び程度で補えるようなものではなかったが、何やら人だかりができているらしいことは確認できた。ざわめきに混じって、悲鳴とも泣き声とも困惑ともつかぬ声が切れ切れに届く。こちらのスタッフやメンバー、列に並んだ人たちの注目もそちらに集まり始め、やがてざわざわという波が情報の断片をこちらまで運んできた。

「人が倒れたって」

「メンバー?」

「いや、オタみたいだよ」

「おいおい、感染かあ」

「それはわかんないけど……失禁してるみたいで」

 失禁? まさか。何かの病気だろうか。感染症だったらちょっとシャレにならない。

 やがて人混みをかき分けて担架が運ばれてきて、ブリビのTシャツを着た大柄な男性が運ばれていくのが見えた。隙間から床が濡れているのが見えたような気もしたが定かではない。続いてモップやらバケツやら持った人が現れるのと、感染症のことなどを考慮して特典会を打ち切りにすることが告げられたのはほとんど同時だった。

 未使用のチェキ券の扱いや、非常時連絡先の登録について注意事項が告げられ、皆は不安と不満の入り混じった煮え切らない表情のまま、三々五々、去っていった。

「なんだったんだろうね」

「怖いね」

 不安そうな声を聞きながら、あたしは呆然と、床掃除をするスタッフと、涙目のブリビさんたちを眺めていた。


 数日後、感染は確認されなかった、という知らせが届いた。距離もあったし、ブリビのメンバーに比べたら精神的に余裕があったあたしたちでさえ、その知らせを聞いた時は胸を撫で下ろし、互いに喜び合った。

「でもさ、結局原因わかんないんでしょ」

 無事開催された翌週のライブの楽屋で、くれあが、緑色の前髪を手で捻りながら言った。

「ちょっと気持ち悪いって言うか、座り悪いよね」

「まあね、ブリビの子はもっと怖いんじゃない?」

 ちかおが答えると、マスカラを盛っていたあびぃも振り返る。

「それなんだけどさ、あの人、常連だったって知ってた?」

「そうなの?」

 何人かがユニゾンで言った後、めるめるが細い声をあげた。

「あたし、知ってます。めいちゃんのオタクの人ですよね」

 と、ブリビメンバーの名前を口にする。

「めるめる、めいちゃんと仲良いもんね。そうそう、そうなのよ」

 あびぃは言った。

「結構気合の入った人らしくて。重箱仮面、だったかな、そんな名前の。ブリビオタの中では、結構な有名人」

「厄介とか?」

 あたしは聞く。厄介、と言うのは、ストーカー行為や粘着質な言動など、行動に問題があるファンのこと。

 有名と聞くとついそんなことを連想してしまう自分にはちょっと嫌気がさすが、長年業界の闇も見てきたのだから仕方がない。

 だが、あびぃはきっぱりと首を振った。

「ううん。品行方正、それでいてきっちり課金もする優等生。むしろ自治厨に近いって言うか、マナーとかルールにうるさいタイプ」

「あー、そっちかあ」

 皆で頷く。安全は安全なのだが、度を越すと煙たがったファンがグループ自体から離れてしまうこともあるので、これはこれで頭の痛い存在だったりはする。

「ま、そこまでじゃなかったらしくてね。むしろオタク仲間でも愛されてたみたいなんだけど」

「でもさ」

 と、くれあ。

「普段問題ない常連さんってことは、ほんとに突然具合悪くなっちゃったってこと? それはそれで怖いね」

「あたし、聞きました」

 ふたたびめるめるが小さい、けれどもきっぱりした声で言う。

「あのとき、重箱さん、最初から様子おかしかったみたいです」

「特典会はじまった時からってこと?」

 くれあの問いかけに、めるめるは首を振る。

「ライブの最中から。いっつも最前で盛り上がってるのに、まんなかへんでぼーっと突っ立ってるから、めいちゃん、ステージから見て、どうしたんだろうって思ったらしくて」

「それって開始時点で具合悪かったってこと?」

 くれあが棘のある声で言う。

「ヤバくない? このご時世にさ。体調不良時は来ないでくださいって、毎回しつこく言われてるのに」

「そうなんですけど……ただ、あびぃさんが言う通りの人だから。前にも、ちょっと喉痛いだけで、万が一にも迷惑かけたくないからって来なかったことがあったらしくて。そういうことするタイプじゃなさそうなんですよ」

「だけど……」

 くれあは納得のいかない様子だ。

「まあ、とにかく、陰性だったわけでしょ」

 ずっと黙ってメイクに専念していたなぐりんが口を挟む。

「結果オーライってやつよ。逆に考えれば、このご時世、感染るときは感染るんだし、これ以上うだうだ考えても仕方がないっしょ」

「ま、そりゃそうね」

 あたしも頷く。ライブ前だ。不安を振り払って気合を入れなければ。

「でもさあ」

 まだ何か言いたげなくれあを、ちかおがまあまあとなだめる。

「あとで聞くからさ、なんぼでも」

「うー」

 そこにちょうどマネージャーがやってくる。前グループが最後の曲に入ったようだ。

「さあ、いこ」

 一つ手を叩いて声をかけると、くれあも一つ小さく頷き、立ち上がる。

 地下だってプロ、インディーズだってベテランだもんね。

 あたしはくれあの肩をひとつ叩き、一緒にステージ裏に向かう。


『最近多いよ』

『俺も聞いた』

『こないだ行った現場でもあったな』

『まって浮気がバレるw』

 そんなコメントが流れていくのを眺めながら、あたしは当たり障りのない言葉を発した。

「へえ。そうなんだ」

 自宅からの生配信。事務所に許可だけはとってるけど、基本的にはノータッチ。いくつか禁止事項とかまだ言えない情報なんかもあるけど、それさえ守れば何を話しててもいいって感じ。

 実は今してる話は、そんな禁止事項の一つ、「感染症絡みの個別の話題」に関わりかねないんで、だいぶ際どいんだけど……

『俺が聞いた範囲だと、こないだのバイバイさん主催の前に、最低でも一件。そのあと二週間くらいでわーっと増えたけど、今週に入ってからは収まってきた感じ』

 情報通の冷麺さんが状況をまとめる。

 つまり、それだけの人が、最近、アイドルのライブで倒れている、というのだ。

 タイミングはまちまちで、公演の最中、特典会の時、会場を出たところで、などなど。

『あと、色々出ちゃったって人も、何人か』

 冷麺さんは言葉を濁す。要するに失禁やら嘔吐やららしい。

「でも、全員陰性なんでしょ?」

 思い切って聞いてみる。陽性者の特定でなければ、ぎりぎり許容範囲だと思うことにして。

『そうだね』

『あ、でも一人陽性者いたって聞いたけど』

 他の人がコメントを挟み、何人かが同様のことを書き込んだ。中にはグループ名や公演名が書かれたものもあったが、私は故意にそれらを軽く読み流す。これは話題変えないとまずいかな、と思ったところに、再び冷麺さんからのコメントが届いた。

『でも、割合としてはごくわずかだから。偶然か、その人たちだけ原因が別か、じゃないかなあ』

「そっか。そうだよね」

『俺もそう思う』

『だよねー』

 悪者探しにならなかったことに胸を撫で下ろす。これなら、大丈夫だろうか。そう考え、もう一件の懸案事項を、あたしは口にした。

「で、その全員が、覚えてない、っていうんでしょ? 倒れたことだけじゃなく、ライブに足を運んだこと、それ自体を」

『予約してた人も、当日のことは何も覚えてないみたいだね』

 冷麺さんのコメントに続き、いくつかの賛同と、怖い、不気味、謎などの感想、そして記憶喪失についての蘊蓄が流れてくる。

「うーん……みんなは健康に気をつけてね。少しでもおかしかったら無理しないで、きてくれる時は、一〇〇%元気な顔見せて欲しいな」

『りょーかーい』

『おけおけ』

『まかせてー』

 いくつかのギフトとともにそんなコメントが流れていく。と。

「わっ!」

 思わず声がでた。

 それまでの、湯飲み茶碗や小さなキャラクターのギフトとは違う、激しい動きを伴う大輪の花火のギフトが画面を埋め尽くしたからだ。

 唐突にこんな課金をするのは……確認し、頷く。やっぱり、マキノさんだ。

「マキノさん! ちょっと久しぶり? どうもありがとう! 元気だった?」

 マキノさんは顔文字でお辞儀をしてみせると、文字コメントを続けた。

『来週、やっと行けそう』

「え、そうなの!? 土曜? 初めてだよね? 楽しみ!」

『俺も楽しみです』

「ずっと応援してくれてたもんね。待ってるね! ……じゃ、ちょうどいいからここで告知タイムね。今週はちょっとお休みなんだけど、来週末はライブあります!」

 直近のライブの告知に続いて、来月の七周年ワンマン、それに向けての新グッズや抽選会の案内などを続ける。

 謎の失神案件も気にはなるけど、収まってきてるってことだし、まあ大丈夫でしょ。

 新しくライブに来てくれる人がいるっていう事実に、あたしはもう一度、明るい未来を信じる。


「あ、ごま団子さん、久しぶりー」

「やあ、どうもどうも」

 小柄な体にバイバイの公式Tシャツ姿のごま団子さん。ショルダーバッグには大量の缶バッチが所狭しと並んでいる。うちのもどこかにあるんだろうと思うが、多すぎて見つけるのは困難だ。

 DD、つまり「誰でも大好き」を自任するごま団子さん。どちらかと言えば揶揄的に使われるその言葉を「好きなものは多い方がいいじゃん」と誇らしげに掲げるそのスタンス、あたしは決して嫌いじゃない。

 でも必然的に、タイミング次第でしばらく顔見なかったりもするわけで。

「いやごめん! バイバイ、甘く見てたわ。また進化したでしょ」

「ふふん、そう思うならこれからはもっときてよね」

「善処するわ。いやマジで」

 かみつきポーズで撮ったチェキにサインをしながら、あたしは聞く。

「ライブは行ってたんでしょ。最近はどの辺?」

「まあぼちぼちね、思うほど行けてないんだけど」

「あ、そうなんだ。忙しいのに来てくれてありがとうね」

「その甲斐あったよ。これだけレベル高かったら、他から流れてくる人も増えてるんじゃない?」

「どうだろ。特典会は来てくれるし、褒めてもくれるけどね」

「最近推し変する人多いみたいだし、チャンスなのかもよ」

「そうなの?」

 それは初耳だ。わざわざ去っていくのに挨拶していく人もいないわけだけど、少なくともまだ新規さんが特に多いと言う実感もない。

「うん、意外な人を意外な場所で、みたいなことは多いね。ただ……」

「え?」

「いや、気のせいかもしれないんだけどさ。そういう人たち、様子がおかしいんだよね。あれ、なんでこっちの現場にいるの、って聞いても、キョトンとしてるし、こっちのこともあまり覚えてないみたいで」

「覚えてない……」

 つぶやいた時、別の子を撮ってたマネージャーがまわってきて、あたしは内心を隠し、にっこり笑ってごま団子さんに手を振った。

 なんだろう、何か……引っかかる。

 そんな気持ちのまま、次のファンにも笑いかけようとして、顔を上げた時。

 一瞬思考が止まった。

「あれっ? 冷麺さん?」

 今日はブリビと一緒じゃないのに?

 疑問とともに、先日の配信のことを思い出す。そうか、「覚えてない」って言葉、あの時冷麺さんのコメントで。

「どうしたの、今日ブリビいないのに珍しいじゃん」

 なんとなくぼーっとした様子の冷麺さんに、努めて明るく声をかける。

「そんなにあたしに会いたくなった?」

「あ……うん」

 冷麺さんは答える。どこか上の空……というより、何か……表現できない、違和感がある。

「やっと……安定したから」

 その口から漏れる、謎の言葉。

「え、何? なんか変だよ? 倒れたりしないでよ」

 冗談めかして言う。そうすれば様子がおかしいこと自体冗談になるような気がして。

「もう大丈夫……やっと、会えた」

「え? やっぱりそんなにあたしに」

「僕、マキノです」

「えっ?」

 何? 何言ってるの?

「ちょっと冷麺さん、冗談はやめてよ」

「冷麺さんって、この体のことだよね。違うんだ。この体はただ借りてるだけ。僕はマキノだよ」

「ちょっと、何言って……」

「僕はね、ネットの海に生まれた、情報知性体なんだ。最初は掲示板やSNSで情報をやり取りするだけで満足していた。だけど、見つけたんだ。アイドルの動画を。心を奪われた。いや、違うな。僕はそれを見て初めて、心というのが何かを……自分に心があることを、発見したんだ。キラキラしていて、美しくて、激しくて、優しくて……中でもいくつかの動画、そして何人かの歌声と姿に、僕は惹きつけられた。君、Violet Violenceの阿久ベリルも、その一人だったんだ」

「ちょっと何の冗談よ……じゃあ、あたしにずっとあんな高課金してたのも冷麺さんだったって」

「違う違う。この体に入ったのは昨日の夜だから。課金はね、あちこちでデータいじって、かき集めて」

「それってハッキング? 違法なお金ってこと?」

「まあ人がやったならね。いいじゃん、そんなこと。それよりさ、べりたんは嬉しくないの? 楽しみにしてくれてたじゃん」

「そんなこと言われても……」

「こうやって会いにくるまでにさ、ずいぶん苦労したんだよ。分割した自分の情報を、言葉や映像の中に紛れ込ませて、感覚器官を通して人の脳にアップロードできないかって考えたとこまでは良かったんだけどさ、身体制御システムとか、個人ごとに違う神経ネットワークとか、全部把握して適応するのが大変で。最初のうちは、宿主の身体が意図しない反応をしちゃったり」

「それって、つまりあの、倒れた人たち」

「そう。なんかこっちも大騒ぎになったみたいだけど、僕にとって結構痛手でさ。せっかくアップロードしたデータも消えちゃうし。何が起こったか、外から観察できる反応から推測するしかなくて、ほとんど手探り。最近やっと、安定して人の脳に自分を再現できるようになったんだ」

「それ、ここに来る前にも?」

「ああ、他にもね、推しはいるから。すでにいくつかの現場に、コピーがいってるよ」

 じゃあ、急な推し変って……

「でもね、今日見てて、改めて思ったんだよね」

 続く言葉を聞いて、あたしは絶句した。血の気が引いていくのがわかる。

「はいすいませーん、ありがとうございまーす」

 何か言おうとしたあたしと冷麺さん(マキノさん?)の間にマネージャーが入って、あたしの手からサインの済んだチェキをとりあげる。

 冷麺さん……の、体をもった人は、ありがとうございました、といってそれを受け取った、そして。

「じゃあ、またね」

 そう言って、彼は意外にもあっさりと、その場を去っていった。


 そのあと特典会をどうやってこなしたのか、よく覚えていない。ルーチンというのはありがたいものだ。あたしたちは身体を制御するのに、特別な努力を必要としない。慣れた体で慣れた動きをする、それだけ。複雑な振り付けやダンスだって、難しい歌だって、繰り返し練習すればただのルーチンへと変わる。最初は苦労した「惜しみなく暴力は奪う」の落ちサビ手前のフォーメーションだって、今じゃ目を瞑っててもこなせる自信がある。

 だが……時として人は、これまでのやり方を捨てなければならない。

 あたしは全てのデジタルデバイスを捨てた。もちろん、アイドルとしての仕事にも、友達関係にも、スマホは必須だ。参考動画や音源の確認をするにはパソコンだって使えた方がいい。毎週続けていた配信も、当然できなくなる。

 皆から言われた。どうするつもりだと。だが押し通した。電話か書面か直接か、そのやりとりだけで、なんとかしてくれと。幸い、あたしが今までに築いてきたバイバイ内での立ち位置は、無視できるほど軽いものではなかったらしい。最終的にはメンバーもスタッフも、文句たらたら受け入れてくれた。

 あたしは、怖かったのだ。

 スマホを開き、パソコンのブラウザを立ち上げれば広がっている、ネットの海。その内部に、あたしたちの知らない生命が、知性が芽生え、あたしたちを見ているのかと思うと。

 だが、もしも。

 あの時現れた冷麺さんのように、すでにネット上の存在に操られた人間が、現実世界にいるんだとしたら。

 本当に、デジタルデバイスを捨てるだけでいいのか?

 あの時、冷麺さんは……いや、「マキノさん」は、こう言わなかったか。

『分割した自分の情報を、言葉や映像の中に紛れ込ませて、感覚器官を通して人の脳に』

 デジタルデバイスを通してそれができるなら、人間の発する言葉や仕草で、彼らが『自分をアップロード』できない理由があるだろうか。

 ひょっとしたらもう、すでに、あたしの中にも……

 頭の中で何かが蠢いたような気がして、あたしは身を震わせた。

 なぜなら。あの時彼は、こう言ったのだ。

『思ったんだよね。見てるだけじゃない、僕は、君たちみたいに輝きたいんだって。僕は、君たちに、なりたい』

 と。

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