第4話 二文字の名前

 私がバカみたいに慌てて準備しているのを、八坂さんは急かすでもなく落ち着かせるでもなく、黙ってバッグをゆらゆら揺らしながら待っていた。


 やっと詰め終えて、八坂さんに言う。


「あの、ユカとナオに声だけかけてっていい? いつも二人の部活ないときは一緒に帰ってるから……」       


 コクリと八坂さんが頷く。  


 私は小走りでユカとナオのところへ行って報告した。


「ごめん、今日八坂さんと帰るね」 


「おっけ……ん? 珍しいね。二人そんな仲良かったっけ? 」


「きっと明日は黒魔術で世界が支配されるんでごわす」


「そんなことないから! えっと、じゃね! 」

 

「おー」

 

「また明日でごわす〜」


 のんびりと手を振る二人にひっそりと元気づけられながら、私は真っ直ぐ伸びる廊下を八坂さんと並んで歩き出した。


 会話の糸口を探すため、とりあえずお礼を言うこととした。


「えっと、八坂さん。今日は誘ってくれてありがとう」


 真顔のまま八坂さんは首をグリッと回して、コクリと頷く。黒く、今にも羽ばたきだしそうな目が、深く射抜くように私を捉えた。


羽瑠うる、でいいよ」


 それが八坂さんの下の名前だと理解するのにほんの三秒かかった。今まで全然関わりもなかったから、彼女の下の名前は、入学したての頃頑張って覚えた記憶の奥の方にあった。


「……羽瑠」


 舌の上で言葉を転がすと、変な感じがする。忘れないように飲み込んだ言葉は、喉の奥を滑っていった。


 最初は慣れなくて違和感を覚えそうだけど、次から頑張ってそう呼ぼうと思う。


「えっと、私のことも好きに呼んじゃっていいよ」


 すると、八坂……羽瑠さ、んは考え込むように顎に指を当てた。あまりに長く考え込むので、もしかしたらフルネーム覚えられていないのかもと心配になってきたとき、やっと口が開かれた。


「マカ、とかどう? 」


「……ん? 」 


 聞き慣れない二文字を、一瞬なんのことやらと思った。

  

「友達から二文字で呼ばれてるじゃん? だからアマカワの真ん中とってマカ」


「……あ、なるほど。ほえー」


 今まで呼ばれたことなどない、奇妙な二文字が耳慣れなくて、変な声が出た。


 にしても、変わったところから変わった響きのは二文字を取り出すなと思う。


 妙な感心を覚えていると、30㎝くらい離れて歩いていた羽瑠が、突然体を近づけてきた。私の腕と、彼女の肩が触れ合うくらい。


 私を下から覗き込んで、羽瑠はちょっかいをかける子供のように笑った。


「いま、変な呼び方だなって思ったでしょ」


 妙に弾んだ声が、私の耳を踊らせる。


「他の人と被らないのが良かったんだ。私だけが呼べる名前」


 ちょうどそのとき、窓から差し込んだ西日が彼女の顔を半分だけ照らした。輪郭かが太陽の光に呑み込まれて消えてしまいそうなくらい、白い肌が、溶けてなくなってしまいそうなくらい、幽霊みたいに透けた。


 細められた目が、私が知るよりもっと眩しく光って、うなじを隠すような黒髪は一つ一つが一級品の絹糸のように、私を誘うように踊った。


 一瞬のことだった。  


 すぐに沈みかけの太陽は柱の影に隠れた。


 羽瑠も、笑う理由が薄れたら真顔に戻った。それでも、口元に薄い笑みを残したまま。


 私は、彼女がはたぶん何も話す気がないのを察して、空白を埋めるように話を振った。羽瑠は沈黙が全然気まずくないというタイプかもしれないが、私はそうではない。


「今日の数学難しかったよねー」


 羽瑠はコテンと首を傾げた。その姿を小動物みたいだと思う。  


「そう? そこまで難しくはなかったよ」


「え、ちょっと待って 羽瑠さんって数学得意なの……? 」


「呼び捨てで良いって」


 なに、羽瑠さんて、と言って、ククッと彼女は堪えるような笑い方をした。 


「まあ、苦手ではないかな、勉強全般。あでも、国語はちょっと苦手かも」


「ひょえ~」


 数学がめちゃくちゃ苦手なド文系の私は、数学ができる人を別次元の方だとすら思っている。どういう頭の構造をしていたらあんなに難しい数式を解けるのかと。


「あの、羽瑠様とお呼びしてもいいですか……? 」


「え? 」

 

 羽瑠は眉をちょっとだけ上げる。  


「だーめ」

 

「そう言わずにー」


「数学なんて慣れだよ、慣れ」


「ドウイウコト……? 」


「壊れたロボット! 」

   

 その日、私たちは駅に着くまで数学の話で盛り上がっていた。


 ずっと同じ教室にいたのに今まで話すことはなかったけど、今日、羽瑠と少し距離が縮まったようで嬉しかった。


 家に帰ってからも特に面白かった会話の一部を思い出しては、枕を抱きかかえて一人で笑っていた。


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