藍色の天井

桜川 渚月

第1話

 死のうと思っていた。昨日、母が商店街の福引で当たったと言って香水セットをくれた。金木犀であった。丸い容器に、分離した黄色と透明の液滴。君は秋じゃない季節に金木犀を纏っている人が嫌いだと言っていた。秋まで生きていようと思った。

 今年で二十五になる。職もない、貯金もない、学もない。実家でただぼんやりと生かされていた。父も母も兄も俺を腫れ物のように扱う。そんなとき、好きでしょ、と言ってこの香水を渡された。香水を握りしめて部屋に戻ると、すっかり片付いた部屋に心が深く沈んでいった。

 左手の壁に貼られたカレンダーは二月のままだった。二月十九日。彼女の命日だった。縊死だった。それからというもの、俺は毎日大学にも会社にも行かず駅前の居酒屋でたった独り酒を飲み、独りで酔い、独りで吐いた。ドブの臭いがする居酒屋の裏口。食欲がないからとナッツだけを食べて、それもまたドブへ吐き散らす。惨めだった。深夜になって店が閉まる頃になって家に帰る。混濁した意識の中、ベッドへ倒れ込みむようにして寝転がり、電気もつけずそのままずるずると眠る。もう以前のような夢も見ない。何もない朝がただ虚しかった。胃液でただれた喉の痛みが、ただ自分が生きていることの証明だった。

 二人で同棲を始めようと物件を探していたのが一月、君はそれからひと月もしないうちに命を絶った。遺書にはただ一言、自棄になった、とだけ書かれていた。当時はわけがわからなかった。しかし今ならわかる。このままこの生活を続けていくくらいなら死んだほうがマシだということを。

 起きて、着替えて、誰もいなくなった家の中を二日酔いの足取りで徘徊する。リビングに散らばった本や新聞を蹴散らして、ダイニングに座り込む。目についたペットボトルのお茶を開けて飲む。味なんてしなかった。ぼんやりと生かされる。ダイニングから見る窓の向こうではまだ沢山のセミが鳴いている。思い立って窓に近づいてみると、一匹のセミが縁側の縁にしがみついてじっとしていた。じっと見つめても、セミは鳴かない。

「いつまでしょげてんだよ」

 俺はぽつりとセミに向かってそう言う。掠れた声だった。セミはもう鳴く気力もないのか、ただじっと夏の太陽の日差しに焼かれていた。夕方、母がパートから帰ってくる頃になり、セミは縁側から転げ落ちるように死んだ。

「賢二、暑いから窓閉めて」

 母が買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞いながら言う。俺は素直に従った。いつもの整髪剤の臭いが母と一緒に部屋についてくる。自分が座っていた場所は自分の汗でびっしょりと水たまりができていた。いくらかは酒が混じっているのかもしれない、なんて思った。

 流石に汗をかいて気持ちが悪いのでシャワーを浴びて着替える。深い溜め息と絶望感も一緒に流れていってくれないかと馬鹿なことを思いながら頭を洗う。

「出かけてくる」

 ひぐらしが鳴き始める夕暮れに向かってまた酒を飲みに出かける。親の財布から金を抜き取って。気づいていても、誰も何も言わなかった。毎日のこれの繰り返し。ただただ虚しかった。いっそ泣いてしまいたい。彼女を失ってから一度も泣いたことはなかった。そんな人生も昨日終わりにするつもりだった。そこで、金木犀の香水。

 どうせ死ぬのだ。最後に好きな香りに包まれて終わりを迎えたい――。

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