第2話「市場での出会い」
朝露が残る石畳を踏みしめながら、一馬は再び市場へと足を向けた。昨日の調査だけでは不十分だった。今日こそ本格的に食材と向き合い、この世界で自分が作れる料理を確立する必要があった。
「料理スキルだけで生き抜くためには、何よりも食材を知り尽くすことだ」
東京の料亭で働いていた頃を思い出す。師匠は常々言っていた。「一流の料理人は市場に立つだけで、その日の最高の料理が浮かぶものだ」と。材料から創造が始まる。それが料理の本質だった。
市場は昨日よりも賑わっていた。土曜日らしく、通常より多くの農家や漁師が郊外から集まっているようだ。一馬は昨日よりも奥へと進んだ。
「おや、君は珍しい顔だね」
声をかけてきたのは、明るい赤色の頭巾をかぶった老婆だった。目の前には見たこともない色鮮やかな野菜が並んでいる。
「はい、つい最近この町に来たばかりです」
「そうかい。どれか買ってくれるかい?特別に安くするよ」老婆は親しげに微笑んだ。
一馬は食材鑑定のスキルを発動させながら、野菜を一つずつ観察した。鮮やかな青紫色の細長い根菜。深い緑色をした丸い葉物。オレンジ色の斑点が浮かぶ赤い果実。
「これは…」一馬が青紫色の根菜に手を伸ばすと、老婆が驚いた顔をした。
「龍の髭(ドラゴンビアード)に興味があるの?珍しいねえ。あれは料理が上手い人しか扱えないよ」
「どういう意味ですか?」
「下手に調理すると猛毒になるからさ。でも正しく調理すれば、この世のものとは思えない甘さと香りが楽しめる。神の食べ物とも言われているんだよ」
老婆の言葉に、一馬の興味は一気に高まった。「神の食べ物」という言葉が、何か特別な意味を持つように感じられた。
「教えていただけますか?正しい調理法を」
老婆は一馬の目をじっと見つめた。「君、料理人かい?」
「はい、一応。前世…いえ、以前は料理人でした」
「ふむ」老婆は考え込むように一馬を見た。「料理には神聖な力があることを知っているかい?」
「神聖な力、ですか?」
老婆は周囲を見回してから、声を潜めた。「この国では、最高の料理には魔力が宿ると言われているんだよ。単なる迷信だと笑う者もいるがね。でも昔、とある料理人が作った一品を食べた王様が、不治の病から回復したという話は本当だ」
一馬の脳裏に、ステータス画面にあった「創造料理」の文字が浮かんだ。ただの料理以上の何かを作れる可能性。それは彼の特殊スキルと関係しているのかもしれない。
「龍の髭の調理法を教えてください。試してみたいんです」
老婆は微笑み、小さな声で説明を始めた。「まず三日間、塩水に漬けて毒を抜く。それから月光の下で一晩干して…」
一馬は真剣に聞き入った。複雑な下処理と調理法だが、きっと並外れた味わいになるのだろう。老婆の説明が終わると、一馬は決意した。
「一本下さい。挑戦してみます」
「いいよ。君なら上手く調理できそうだね」老婆は龍の髭を一本、布で丁寧に包んでくれた。「3銅貨でいいよ」
予想外に安い値段に驚きつつも、一馬はありがたく受け取った。「ありがとうございます。他にも珍しい野菜はありますか?」
「ふふ、目が確かだね」老婆は緑色の丸い葉物を指差した。「これは精霊の涙(スピリットリーフ)。サラダにするととても美味しいよ。そしてこの赤い果実は悪魔のキス。甘いけど、食べ過ぎると夢の中で悪魔に会うと言われているよ」
老婆の説明を聞きながら、一馬は精霊の涙も少し購入した。「この市場には他にも珍しい食材はありますか?」
「西の区画に行けば海の幸があるよ。北には肉屋が並んでるね。でも」老婆は再び声を潜めた。「本当に珍しいものが欲しければ、市場の一番奥にある『影の市』に行くといい。表では売られていない食材が手に入るよ」
「影の市…」一馬は興味をそそられた。しかし、今は基本的な食材の把握が先決だ。「今日は普通の市場を回ります。ありがとうございます」
「また来なさいね。次はもっと面白いものを見せてあげるよ」
老婆に別れを告げ、一馬は市場の西へ向かった。海の幸を見てみたい。この内陸都市にどんな魚が運ばれてくるのか、興味があった。
西区画は予想以上に広く、多様な魚介類が並んでいた。巨大な甲殻類、虹色に輝く魚、半透明の貝類…東京の築地でも見たことがないような生き物ばかりだ。
「お兄さん、見る目あるねぇ。その魚、今日一番の掘り出し物だよ」
声をかけてきたのは、がっしりとした体格の中年の漁師だった。一馬が見ていたのは、青と赤のグラデーションが美しい中型の魚だった。
「これは何という魚ですか?」
「虹風魚(レインボーウィンド)さ。深海に住む珍しい魚だよ。身は透き通るような白さで、口に入れると風のように消えていく。でも、その風味は忘れられないほど豊かだ」
一馬は食材鑑定のスキルを使った。漁師の言葉は誇張ではなく、この魚には確かに特別な特性があるようだ。身は繊細で風味豊か、火を通し過ぎると風味が飛ぶが、わずかに炙るだけで絶品になる。
「いくらですか?」
「通常なら2銀貨だが…」漁師は一馬の目を見て何かを感じ取ったようだ。「君、料理人か?」
「はい。これから露店を開こうと思っています」
「そうか!なら1銀貨でいいよ。この魚を正しく調理できる人に出会えて嬉しいよ」
一馬は迷った。1銀貨は彼の限られた資金の中では大きな出費だ。しかし、この魚で何か特別なものを作れば、注目を集められるかもしれない。
「ありがとうございます。大切に調理します」
銀貨を支払い、魚を受け取った一馬は、次に北区画の肉屋へと向かった。途中、様々な店を覗きながら材料の知識を増やしていく。香辛料、調味料、穀物…東京の知識だけでは判断できないものばかりだが、食材鑑定のスキルが大いに役立った。
北区画に着くと、様々な獣肉が並ぶ光景に圧倒された。牛や豚に似た肉だけでなく、明らかに獣人や魔物の肉と思われるものまである。
「いらっしゃい!」太った肉屋が声をかけてきた。「何をお探しで?」
「一番安くて美味しいものは何ですか?」
「それなら迷わずグリムウルフの肉だね。若いメスの部位で、柔らかくて甘みがある。1銀貨で1kgだよ」
一馬はグリムウルフの肉を観察した。見た目は牛肉と羊肉の中間のような色合いだ。食材鑑定によると、適度な脂肪と柔らかな繊維質、少し甘みのある風味が特徴らしい。様々な調理法に対応できる万能な肉だ。
「200グラムください」
小分けにしてもらい、一馬は市場をさらに回った。基本的な野菜、穀物、香辛料、そして少量の卵と乳製品。限られた予算で最大限の材料を集めつつ、この世界の食材についての知識を増やしていく。
市場の中央に戻ると、人だかりができていた。何かの実演販売のようだ。好奇心に駆られて近づいてみると、一人の男が大きな鍋で料理を振る舞っていた。
「さあさあ、本日特別!王立料理学校直伝の特製スープ!一杯1銅貨ですよ!」
男はこの世界の料理人らしく、金色の刺繍が入った白い制服を着ていた。動きは洗練されているが、どこか型にはまった感じもする。一馬は興味深く観察した。
「ほら、お嬢さん、どうぞ」
男がスープを差し出した先には、一馬の目を引く少女がいた。金色の緩やかなウェーブがかった髪と澄んだ碧眼、上質な服を身につけた少女。一馬は思わず見とれた。
少女はスープを一口すすり、礼儀正しく微笑んだ。しかし、その表情にはどこか物足りなさが浮かんでいる。
「大変美味しいです。ありがとうございます」
「光栄です、お嬢様!」
少女が群衆から離れようとしたとき、偶然一馬と目が合った。一馬はつい見つめてしまい、慌てて視線をそらした。しかし、少女はむしろ興味を持ったように一馬に近づいてきた。
「失礼ですが、あなたは料理人ですか?」
突然の問いかけに、一馬は驚いた。「え、はい。まあ、そうですけど…どうして分かったんですか?」
「食材を見る目が違います」少女は一馬の買い物籠を指差した。「特に、その組み合わせ。普通の人なら買わない組み合わせです」
確かに一馬の籠には、一般的には組み合わせないような食材が入っていた。龍の髭、虹風魚、グリムウルフの肉…そして様々な香辛料。
「実は明日から露店を開こうと思っています」
「本当ですか!」少女の目が輝いた。「どんな料理を?」
「まだ決めていないんですが…」一馬は考えながら答えた。「この世界にない味を提供したいです」
「この世界にない味…」少女は興味深そうに一馬を見つめた。「あなた、他の国から来たのですか?」
その問いに、一馬は少し困った。異世界からの転生者だと言っても信じてもらえるだろうか。かといって嘘をつくのも気が引ける。
「はい、遠い国から来ました。料理の文化がまったく違う国です」
それは嘘ではない。日本とこの異世界では食文化が根本的に異なるのだから。
「興味深いわ」少女は真剣な表情で言った。「あなたの料理、ぜひ食べてみたいです。お店はどこに出すのですか?」
「東門近くの小広場です。明日の昼頃から開店予定です」
「楽しみにしています」少女は微笑んだ。「私はエリーゼ・フォンブラン。あなたは?」
「佐藤一馬です」
「さとう…かずま」エリーゼは慎重に発音した。「変わった名前ですね。でも素敵です」
突然、離れた場所から声がかかった。「お嬢様!そろそろお戻りの時間です」
「ああ、もう行かなければ」エリーゼは残念そうに言った。「明日、必ず行きますね。楽しみにしています」
エリーゼが立ち去った後、一馬はまだ少し呆然としていた。思いがけない出会いだった。しかも、彼女はフォンブランという名字…一馬の乏しい現地知識でも、それが有力貴族の名前であることは分かった。
「貴族の令嬢か…」
時間が過ぎるのを忘れるほど、一馬は市場を回り続けた。食材についての知識を蓄え、調理法についても商人たちから話を聞いた。日が傾き始める頃、最後に訪れたのは調味料の専門店だった。
「何をお探しで?」年配の女性店主が尋ねた。
「基本的な調味料が必要です。塩、砂糖に相当するもの、それから…」
店主は一馬の言葉に強い関心を示した。「相当するもの?あなた、王国外から来たの?」
「はい」
「面白い」店主は棚から様々な瓶を取り出し始めた。「これが私たちの基本調味料よ。岩塩、蜂蜜シロップ、グリーンペッパーオイル、それから玉虫酢」
一馬は一つ一つを注意深く観察した。蜂蜜シロップは砂糖の代わりになり、玉虫酢は酢に近い酸味を持つ。グリーンペッパーオイルは少し変わった風味だが、料理のアクセントになりそうだ。
「これらを少しずつください。あと、もし可能なら醤油に似たものはありますか?」
「醤油?」店主は首を傾げた。「聞いたことがないわね。でも」彼女は奥から古びた瓶を取り出した。「これは黒魚醸造液。魚を発酵させて作る調味料で、塩辛いけど旨みが強いの」
試しに少し舐めてみると、一馬の顔が明るくなった。完全な醤油ではないが、十分代用になる。むしろ、これを活かした新しい料理が思い浮かんだ。
「これもください!あと、もし辛い調味料があれば…」
店を出る頃には、籠は食材と調味料でいっぱいになっていた。残金は1銀貨と数枚の銅貨。明日の露店開業に向けての準備は整った。
宿に戻った一馬は、購入した食材を並べ、改めて観察した。そして、彼の頭の中で料理のアイデアが形になっていった。
「和食の技術と現地の食材…そこに俺の創造料理のスキルを加えれば」
一馬は小さなノートに明日の献立を書き始めた。
1. 虹風魚の炙り握り - 日本の寿司をベースに、この世界の魚の特性を活かした一品
2. 龍の髭と精霊の涙のサラダ - シンプルながら、特殊食材の風味を最大限に活かす
3. グリムウルフの照り焼き丼 - 照り焼きのタレは黒魚醸造液を使って再現
「よし、これでいこう」
一馬は決意に満ちた表情で立ち上がった。明日は彼の異世界料理人生活の正念場だ。初めての客のために、最高の料理を提供しなければならない。
特に、あの金髪の少女—エリーゼ・フォンブランのために。
「必ず驚かせてみせる」
一馬の目には、新たな挑戦への期待と自信が輝いていた。
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その夜、一馬が眠りについた後、彼の夢の中に一人の銀髪の老人が現れた。
「興味深い」老人は一馬を観察するように言った。「創造料理の素質を持つ者が、異世界から来るとはな」
「あなたは誰ですか?」夢の中の一馬は尋ねた。
「私か?」老人は微笑んだ。「私はマエストロ・シルバーノ。料理の道を極めし者だ」
「料理の道を…極めた?」
「そうだ。そしてお前にも可能性を感じる」シルバーノは一馬に近づいた。「明日、お前は初めて創造料理のスキルを使うだろう。恐れるな。料理に魂を込めれば、神々さえも共鳴する」
「神々が…共鳴?」
「いずれ分かるさ」シルバーノは遠ざかっていった。「料理には単なる食べ物以上の力がある。特に、異世界から来た者の手による料理にはな」
一馬が何か言おうとした瞬間、夢は霧のように消えた。
翌朝、一馬は不思議な夢の記憶を胸に、露店開業の準備へと向かった。今日という日に、彼の異世界での運命が大きく動き始めることを、彼はまだ知らなかった。
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