【KAC20252】失われた憧れ
阿々 亜
失われた憧れ
渋谷のハチ公口を出ると、必ず目に飛び込んでくる4基の大型ビジョン。
いつも何かしらの広告が流れていて、目には映っているものの、普段中身はあまり意識していない。
だが、その日だけは違った。
もうすでに何十回も聞いているリズミカルな楽曲とともに、見目麗しい少女たちが歌い、踊る。
そのセンターでメインボーカルを務める人物に目を奪われる。
動画配信サイトですでに何十回も見ているMVだが、それでもやはり見てしまう。
「あ、
近くからそんな声が聞こえてくる。
通行中の女性たちが大型ビジョンに映し出されたMVについて話している。
「何気にセンター初めてじゃない?」
「あー、そういえばそうだねー」
「初センター取ったタイミングで、アレはねー」
「いやー、きっと前から掴んでて、一番バズるタイミング狙ってたんでしょ」
その内容を聞いて、俺は胸が苦しくなった。
星藤愛凛。
俺が長年あこがれていたアイドルだ。
所属するグループでは、中の上くらいの人気でこの度やっとセンターを掴んだ。
だが、このタイミングを狙ったかのようにスキャンダルが報じられた。
週刊誌が、彼女と一般男性との逢瀬の決定的瞬間をカメラに収め、大々的に掲載してしまったのだ。
全国のファンたちは阿鼻叫喚の地獄に叩き落とされた。
ある者は嘆き悲しみ、ある者は怒り狂った。
当然だ。
彼らにとって、アイドルとはこの世で最も尊い聖女のような存在なのだ。
故に、純潔でなくてはならないのだ。
こう言うと、外野たちは「アイドルだって生きた人間なんだから、彼氏彼女の一人や二人くらいいるだろう」とか、「現実を見ろ。非モテ」と、心無い言葉を浴びせてくる。
もちろん、俺たちだってそんなことはわかっている。
だが、わかった上で現実を見ないようにしているのだ。
わかった上で夢を見ているのだ。
それは彼女たちだって同じだ。
彼女たちの現実をヴェールに包み、俺たちに夢を見せてくれる。
だが、星藤愛凛の現実は世間に晒されてしまった。
星藤愛凛が純潔ではないことを世間は知ってしまった。
彼らはもう夢を見ることができない。
俺は星藤愛凛に長年あこがれていた。
そう、もう過去形なのだ。
その想いはもう失われてしまった。
俺はもちろん今でも愛凛のことが好きだ。
だが、それは以前の“好き”とは全く違うものなのだ。
星藤愛凛はもう俺のアイドルじゃない。
いや、彼女を追いかけてきた全ての者たちにとっても、もうアイドルではなくなってしまった。
純潔を失い、夢を見せられなくなったアイドルなど存在してはならない。
だから、俺は決心した。
星藤愛凛というアイドルを抹殺すると……
俺はそのために“あるもの”を手に入れた。
そして、周囲の目に怯えながら、逃げるように自宅のマンションに帰った。
部屋にはすでに電気がついていた。
合鍵をもった俺のパートナーが先に入って待っていたのだ。
「おかえりー、遅かったねー」
リヴィングのテーブルに座った彼女が、緊張感のない声でそう言った。
俺はため息をついて、彼女を嗜める。
「しばらく来るなって言っただろ。愛凛」
彼女と向かい合う形でテーブルにつく。
「ここの前にも週刊誌の連中が張り付てるんだから」
「もう今更だよー。私に彼氏がいるのは日本中にバレちゃったんだし。もう何も隠す必要ないじゃーん」
愛凛は無神経にけらけらと笑う。
彼女のファンたちにはとても見せられないし、聞かせられない。
と言っても、俺もほんの1年前まで彼女にあこがれる無垢なファンの一人だったわけだが……
1年前、俺は最愛の恋人を手にするのと引き換えに、あこがれのアイドルを失った。
アイドルとは文字通り
対象に神聖さが失われれば、信仰は消滅する。
そして、今、俺以外のファンたちの信仰も失われつつあるのだ。
俺はもう一度自分に言い聞かせる。
純潔を失い、夢を見せられなくなったアイドルなど存在してはならない。
だから、俺の手で星藤愛凛というアイドルを抹殺する。
俺は、昼間手に入れてきた“モノ”をテーブルに広げる。
それは、A3サイズの横長の行政書類だった。
それを見て愛凛は、驚くというよりは、期待が現実になったという様子で目を輝かせている。
俺は、偶像を破壊するその一言を口にした。
「結婚しよう」
1か月後、愛凛はライブのトークパートで、結婚を発表し、卒業を宣言した。
かくして、星藤愛凛という
失われた憧れ 完
【KAC20252】失われた憧れ 阿々 亜 @self-actualization
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