重豪千差万別

木園 碧雄

重豪千差万別

 死後、評価が二分する偉人は非常に多い。


 歴史に沿って対象者全員の名前を上げていては、きりがない。


 征夷大将軍や大名といった為政者や権力者も、その例に漏れず、賢哲と呼ばれながらも功名に瑕疵かしのある人物や、反対に愚行や暴虐者と呼ばれながらも、近年の研究により評価が見直された人物もいる。


 例えば、織田信長がそうだ。


 卓越した戦術と戦略で、戦国の乱世を終結へと向かわせる嚆矢こうしとなった反面、比叡山焼き討ちなどを断行した冷酷無比の魔王としても知られている。


 越後の不識庵ふしきあんこと上杉謙信も、その一人であると言えよう。


 戦においては神憑かみがかり的な強さを発揮した謙信ではあるが、領内の政まつりごとに関しては特に革新的な事業は行わず、むしろ突然の出家宣言などで領内を混乱に陥れたことすらある。


 天下を統一した豊臣秀吉は、時代により評価が逆転した。


 江戸幕府開闢かいびゃく以降の徳川政権下では悪逆非道。明治維新後は才能と英断により日本史上最大の出世を果たした英傑となった。


 江戸幕府を開闢した徳川家康も、また評価が分かれる人物である。


 忍従の幼少期を過ごし、徳川家の当主となってからは堅実に勢力を増し天下を平定に導いた成功者であるが、晩年の陰湿さが現在に至るまで尾を引いている。


 逆に再評価された人物と言えば、生類憐みの令で有名な徳川綱吉が挙げられる。


 近年の研究によれば、それまで血気盛んで暴力的だった武士階級を、徳と礼儀を重視する文治政治により知識階級へと導いた一傑であり、また彼による悪政の根幹ともいうべき生類憐みの令には、捨て子や間引きの抑制も含まれていたそうである。


 第十一代将軍の徳川家斉とくがわいえなりも、評価が二分する人物である。


 老中らにまつりごとを任せたまま子作りと奢侈しゃしを続けていたが、就任直後は質素倹約を旨とする松平定信を老中首座に任命するなど、政治改革には積極的だった。


 そして日本史上最後の征夷大将軍である徳川慶喜の評価も、二分されていると言えよう。


 新政府が用意した「錦の御旗」を見て大阪城から逃げ出した醜聞と、大政奉還後も国政の基盤を失わぬよう画策していた策士とで、評価は大幅に変わる。


 評価が分かれる理由の一つとして、当人の行動が極端だったり、ある程度の権力を持つようになってから、急に人格や政策が豹変したりしたからであろう。


 人格や政策の豹変は、防御的な意味合いを含むこともある。


 例えば、最初は地方豪族との融和を目的としていながら、対象である地方豪族が従属も同調もせず、反抗を続けるような場合である。


 また、その政策により生じる利権も、当事者への評価に影響する。


 明治政府の場合、維新の戦いで兵卒として最前線に立ち、常に血路を切り開いてきたはずの下級武士たちから禄も刀も取り上げてしまった為、士族からの評価は急落した。


 同時に、明治政府は確かに国力を飛躍的に向上させたが、黎明期には急激な苛政と制度変更に耐えきれなくなった民衆による叛乱や一揆が頻発している。


 優れた逸話があるにもかかわらず、好評価を得られぬ人物もいれば、凡俗でありながらさほど悪評が立たぬ人物もいる。


 彼らがそう評される理由の一つに


「時代が合わなかった」


「この時代だったから許された」


といった表現が用いられることもある。


 さて。






(暗殺ならば、もっと良い手立てがあっただろうに)


 江戸は高輪に建てられた、薩摩藩下屋敷。


 その高い塀をよじ登りながら、一ツ沢平内ひとつざわへいないは誰にともなく呟いた。


 例えば、女と銃だ。


 女を使い、標的となる人物との房事を済ませてから、寝室から表へと続く経路の襖を全て開けさせ、塀の上からでも目視出来るようになった標的を狙い撃てば良いのだ。


 狙うは、将軍の首。


 ただし、時の征夷大将軍である徳川家斉のことではなく、その岳父にして島津家前当主、島津上総介重豪しまづかずさのすけしげひでの首である。


 家督を長男の斉宣なりのぶに譲り、隠居の身として下屋敷に移ったものの、その権勢から「高輪の下馬将軍」とまで称されている。


 異名の「下馬将軍」とは、第四代征夷大将軍である徳川家綱公を補佐した大老――酒井雅楽頭さかいうたのかみの屋敷が、江戸城大手門にある下馬札前に建てられていたことが由来である。


 つまり重豪は、外様大名の隠居というしがない身でありながら、大老並みの権勢を誇っている――と評されているのだ。


 それを証明するかのように、他の大名ならば本屋敷よりも遥かにみすぼらしい筈の下屋敷が、島津家に限っては本屋敷に劣らぬ絢爛けんらんさである。


 付いた渾名あだなが「島津御殿」。


 地方の有力大名というだけではなく、娘を嫁がせていた男――婿の家斉が征夷大将軍となった重豪は、今や天下屈指の権力者である。


 その重豪を、たった一人で暗殺しなければならぬというのだから、これは大仕事だ。


 当然、そこらの追い剥ぎや破落戸ごろつき共に任せられる筈も無いが、さりとて有名な剣士に頼むわけにもいかない。相手が有名であればあるほど、断られるのは目に見えているし、恐らくは反逆者として通報されるであろう。


 そこで、甲賀流の傍系でありながら全く無名の一ツ沢平内に、白羽の矢が立ったのである。


 屋敷内の見取り図は既に依頼人から受け取っており、寝室の位置もそこまでの経路も把握している。


 ただ、屋敷の屋根裏には堅牢な罠が仕掛けられており、縁の下には人が入れないよう、所々に格子が設置されているという。


 ひょっとしたら、防犯設備に限っては本屋敷よりも優れているのではないか――と平内が舌を巻いた程である。


 上も下も駄目となると、正面ないし側面から挑むしか道はないのだが、外から寝室へ侵入するには、どうしても途中で大広間を通らなければならない。


 大体、なんの対策も講じていなければ、此処ここ――塀の上に立っているだけでも至難の業なのだ。本来ならば、庭先で放し飼いにされている筈の、獰猛さで知られた薩摩犬の一群が吠えていただろう。


 そうならないのは、平内が己の全身に振りかけておいた香水のお陰である。


 御家おいえの伝承として調合法が残されていた香水は、人より遥かに鋭い嗅覚を持つ犬にとって、その場から逃げ出さざるを得ない程の強烈な悪臭となるのだ――という。


 無論、人間にはその匂いの断片すら嗅ぎ分けられない。


 平内の恰好は、しのびと名乗るにふさわしい――実際に名乗る忍はいないだろうが――黒装束である。


 先祖伝来の衣装であり、遂にこれを使う時が来たのだと息巻く反面、こんなご時世に黒装束や忍び道具など役立つものだろうか、という一抹の不安もある。


 一ツ沢家は、甲賀の流れを汲む武家である。


 しかし、数代前の先祖が御家騒動に巻き込まれ、改易の憂き目に遭っていた。


 住み慣れた尾張を離れ、落魄した武家の子孫として細々と江戸でと長屋暮らしを続けていた平内の元に、何処から聞きつけたのか甲賀忍者の傍系への依頼として、高輪の下馬将軍こと島津重豪暗殺の話が舞い込んできたのである。


「おい、どうした。何故怯える」


 悪臭から逃れられず、きゅーんきゅーんと情けない声を上げながら庭の片隅で縮こまる薩摩犬を不審に思ったのか、捩り鉢巻きにたすき掛けの見張り番が、六尺棒を片手に庭へ乗り込んできた。


 間の悪いことに、平内が塀の上から庭先へと飛び降りたのと、ほぼ同時である。


 たすっ。


 平内の草鞋が、土に触れる音。


 それが聞こえたのであろう。屈んで犬の鼻面に指を当てていた見張り番が、すっくと立ち上がった。


「誰だ」


 平内が隠れる方へと向けられた顔に、見覚えはない。


 月は、見張りの背中側。


 影は正面。


 使うか――使


 覚悟を決めて飛び出した平内は、術の間合いまで踏み込んできた見張りに対し、その眼前を跳躍するかのように身を伏せたまま横切る。


「あっ」


 己の影と交差するかの如く飛び交った影。


 その正体が人であることに気づいた見張りは、驚きの声を上げ六尺棒を構えようとする。


 刹那――


 六尺棒とそれを握る手首、さらには見張りの胴までもが横一文字に両断され、繋がりを失った上半身が地に滑り落ちる。


 これが、一ツ沢平内の忍法「影落とし」である。


 流血止まらぬ見張りの死体を塀の影に隠した平内の眼は、再び薩摩御殿へと向けられる。


 島津重豪殺しを依頼してきたのは、


 理由は、もはや領内のみならず全国屈指の権力者となった重豪の、飽くことを知らぬ豪奢な生活に耐えられなくなったから、という。


 肉体壮健で学問にも精通、他の大名との折り合いも良好で政にも積極的な重豪の唯一ともいえる欠点は、金銭感覚が皆無ということだった。


「もはや、堪忍袋の緒が切れた」


「これ以上は、如何いかに大殿であろうと我慢ならぬ」


「我々に、子を換えて喰えとでも申すおつもりか」


 世間の表では「泰平様」と称され、天下の政より子作り優先。贅沢三昧の日々を送っている俗物将軍と陰口を叩かれている将軍家斉公ですら羨む、重豪の浪費と享楽の日々。


 それは本人の健康と同様、いまだ健在であるという。


 それが、庶民と同じように自分の力のみで稼ぎ出した金であるならば、家臣らも不満には思わなかっただろう。


 しかし、当主が使う金は、領民から徴収した年貢その他の租税がいしずえである。


 そして金が足りなければ、借りるか更なる課税で吸い上げるしかない。


 それでなくとも、島津家は五十年ほど前に幕府より命じられた――後に宝暦治水と呼ばれる――木曾三川の治水工事に数十万両もの金を費やしている。


 今の薩摩に、浪費できる金など有りはしないのだという。


 手元に無いものを入手する最善の方法は、作るか借りるかだ。


 何か作ろうにも資金が要るのだから、島津家としては借りるしかない。


 本来ならば、返す当てもない相手に金を貸す人間はいないだろうが、借りたがっているのは高輪の下馬将軍であり、征夷大将軍の岳父だ。


 相手の望むだけの金子を貸さなければ、難癖をつけられて御取潰おとりつぶし――というになるかもしれないと危惧した大商人たちは、とりあえず利子付きで金子を貸す事にはしたのだが、重豪は元本どころか利子分を返す素振りすら見せない。


 その使い道は重豪の気分次第であるが、少なくとも島津家の家臣たちが報われるような使われ方は一度も無かったらしい。


 元々、島津家は他の大名に比べて家臣の人数が多い。


 その多い家臣たちの生活は、常に困窮しているのだという。


 江戸でも国許でも、彼らは家族を喰わせていくのが精一杯。

 他の大名家ならば小者を雇って行う雑務も、島津家は自ら行わなければならぬ程、金が無い。


 これではいかぬと、重豪の長男であり島津家現当主の斉宣公が政の立て直しと借金返済を図っているのだが、重豪はそれを断固として許すつもりが無いらしい。


 このままでは父子の対立ばかりではなく、借金の積み重ねと重税により、島津家そのものが後戻りできないところまで堕ちてしまうやもしれぬ。


 借りた金も、いずれは返さねばならぬ。只でさえ困窮しているというのに、これ以上どこから金を出せというのか。


 江戸の藩邸にて、暗い未来しか見出せぬまま集った家臣たちの間から、当主の斉宣公か実父の重豪か――いずれを選ぶべきかという討論が湧き上がったのは、ある意味必然とも言えた。


 重豪の浪費が止まり、斉宣公の手による政が行われるのが最善と判断した島津の家臣たちが、平内に暗殺を依頼したのである。


 平内にとって、大名家の御家騒動など、所詮は対岸の火事である。


 ただ――斉宣派を自称する同志たちから掻き集めてきたという報酬と、先祖伝来の忍術を使う機会は魅力的だった。


 将軍の岳父、薩摩島津の前当主の首は、あの世での良い手柄話にもなるだろう。


 月も星も夜空を明るく照らし出しており、夜間の潜入には向かないこの日を選んだのは、理由がある。


 依頼者が、見張りの人数を必要最低限になるまで引っ張り出せる程の騒ぎを起こせるのは、今日に限られていたのである。


「曲者」


 何処からか聞こえてきた声に、足を止め辺りを窺う平内。


 死体は、既に片づけた。


 犬は、いつの間にか逃げ出していた。


 周囲に、動くものは見当たらない。


 再び歩き出そうとした平内の耳に、またしても男の声が飛び込んでくる。


「どこへ行こうというのか、曲者」


 いる。


 誰か、いるのだ。気配がする。


 上空か、塀の上か。


「誰だ」


 奇しくも、己が殺した見張りと同じ誰何すいかをしながら、気配の主を求め庭先をぐるぐると歩き回る平内。


 返答は、声ではなかった。


 かちゃり。


 軽い金属音と、左足首に感じる違和感。


 視線を下げると、平内の左足首には、小さな金輪が嵌められていた。


「あっ」


 金輪には、同じく金属製の鎖が付いていた。


 長さは一尺程度。その先端は土中に埋まっており、平内がいくら力任せに引いたところで、と張った鎖は抜ける気配を見せない。


 罠か。


 しかし、声を発したのは人だった。


 何処に隠れているというのか。


 とにかく金輪と鎖を外さねばならぬと、片膝をつき両手の指を金輪に押し当てた平内の背後で、庭土の一部がぐいと盛り上がった。


「!」


 振り返る暇も与えられず。


 一ツ沢平内は、逆手に握られた二尺の手突き矢で、隙だらけの背中を刺し貫かれた。






 阻止してくれというのは、この男の事だったのか。


 手突き槍を引き抜きながら、自分に刺客殲滅を依頼してきた連中のことを回想する、尾上仁右衛門おがみにうえもん


 依頼人は――当然と言えば当然だが――薩摩藩島津家の家臣を自称する侍だった。


 仁右衛門は、彼らの伝手つてにより中間ちゅうげんとして薩摩御殿に潜り込み、夜間には庭先の土中に潜り込んでいた。


 もちろん、屋敷の警護が目的である。


 依頼してきた侍の話では、薩摩御殿に住む島津家前当主、島津上総介重豪の命を狙う者がいるらしい。


 それも、首謀者は島津家の家臣――つまりは身内である。


 島津家の厳しい台所事情を全く顧みず贅沢三昧の浪費生活を続けており、質素倹約を重視する現当主の斉宣公とは折り合いが悪いそうである。


 重豪暗殺を企んでいるのは、斉宣派である。


 斉宣公と重豪との間で勃発しかねない御家騒動を未然に回避すると共に、重豪の浪費による島津家家臣一同の窮乏を救う唯一の手立て、とまで考えているらしい。


 それに反対する依頼人たちの言い分は、こうだ。


「確かに大殿の浪費癖は、諸国の大名に比べても桁外れである。しかし、大殿のお使いなさる金はご自身の贅沢ばかりに限らず、薩摩と神州しんしゅう日本の発展に注がれているものもある」


「特に、薩摩の力だ。我々島津家の悲願は九州統一である。それを間近にしながら豊臣、さらに徳川の介入により骨抜きにされ、南方薩摩に封じられてしまった島津家の復興には、国許薩摩の地力を高めることが必要不可欠。その為には、大殿の強さが求められるのでごわす」


 地力向上と重豪の放蕩に、如何なる関係があるというのか。


 興味半分で尋ねた仁右衛門に、依頼人は己が胸をどんと叩いた。


「まず、造士館ぞうしかんでござる。いわゆる藩校でござって、かなり昔から作ろう作らねば……と言われておりながら、金が無いのを理由に先延ばしされておりました。これを断行したのが、当主時代の大殿にござる。我らは造士館にて儒学を学び広め、田舎者と蔑まれる日々から脱却したと言っても過言ではござらん」


「思想だけではござらぬ。さらには明時館めいじかんという建物も建て、天文学や暦学の発展にも貢献してござる。また後には医学院や菜園を建設し、医学や薬草学にも力を入れてござる」


「文治のみに限らず、大殿は薩摩の武にも力を入れてござる。御自身の技量もさることながら、造士館の隣に演武館えんぶかんという道場を建ててくださり、示現流や太刀流の達人を師範に迎えてくださってござる。これにより薩摩の武芸が統制され、東国にありがちな眉唾ものの武芸が入り込むのを防がれたのでごわす」


 語尾が訛った侍は、はっと片手で己の口を塞ぎ、仲間がその醜態を睨みつける。


「日頃、我ら島津家に対して平身低頭していながら、陰では芋よ田舎者よと嘲笑っていた連中も、今では我らの学識に対し自分の無知を恥じる有り様。大殿は、我らとて学べば芋以上、いや東国の山猿以上になれることを証明してくださったも同然の、大恩人にござる」


 そうだろうかと疑問を抱いてしまうのは、仁右衛門もやはり江戸住まいの山猿だからなのだろうか。


「それほどの大恩人、しかも名君であらせられる大殿に対し、たかが貧困如きで音を上げて大殿暗殺を企てるとは言語道断。武士としてあるべき忠義の心を失った、恥ずべき者の成す行為にござる」


 それならば、重豪暗殺を企てたであろう人間を一人残らず捕え、まとめて処分すればよろしいのでは。


 仁右衛門の提案を、しかし依頼人たちはふん、と鼻で笑い飛ばした。


 このあたりは、まだ芋が抜けないらしい。


「出来るようならやっておる。しかし大殿の御命を狙う輩は、斉宣様の政を支持する者。下手に事を荒立てようものなら、それこそ徳川の思う壷。島津に御家騒動ありと指弾され、処分という名目で領地を奪われる恐れがござる」


 現将軍の岳父相手に、そこまで強気に出られるものであろうか。


 仁右衛門としては、やはり疑問を抱かずにはいられない。


「我らに出来る事といえば、大殿の身辺をお護りすることぐらいでござる。それ故、お主のような身にも頭を下げて依頼しているのでござる」


 態度はともかく、主旨は理解した。


 尾上仁右衛門からすれば、依頼人の主張や信条など、実はどうでも良いのである。


 彼らが同朋間で掻き集めたという金子が目的で、引き受けたのである。


 また、先祖伝来の土行術どこうじゅつが実践に耐えうるものなのか、試したかったというのもある。


 この土行術――正しくは土中潜行の術――により、尾上仁右衛門の先祖は血煙漂う数多の戦場を、文字通り潜り抜けてきたのだという。


 に言えば、負け戦と気づいたらすぐ土中へと逃れ、戦場から脱出していたのだろう。


 潜行の手順は、単純だ。


 まずは土が柔らかい場所を探し、爪先に竹べらの付いた藁沓わらぐつ――今履いている――を使い、足だけで広く浅い穴を掘る。足首まで入る深さまで掘ったら、次は両手と苦無くないも使って、さらに掘り進む。この際に身を屈めることで、敵に見つかりにくくする。


 屈んだ身体が埋まる深さまで掘ってから、穴の中に身を沈め、足で横穴を掘りつつ両手で土を被せて、穴掘りの跡を消す。この姿勢は、うつ伏せになって手で掘り進む姿勢に比べ、地上への脱出が容易であり、また己が掘り進んだ穴を埋めながら前進できるという利点がある。


 問題は土を掘る際の足首の動きであり、そこだけは長年の鍛錬が必要とされる。


 ここまでが先祖伝来の土行術であるが、仁右衛門はさらにもうひと工夫加えた。


 それが、先程侵入者の足首に嵌めた金輪と鎖である。


 土中に隠れた仁右衛門に近づいてきた敵の足首に、用意しておいた金輪を素早く嵌める。


 金輪についた鎖の先は、大木の根に繋げたり岩の隙間に挟んだりしているので、そう簡単には外れない。


 仕方なしにと金輪を外そうとする敵の背には、必ず隙が生じるから、そこを手持ちの武器で刺す。


 仁右衛門の想定通りに事は運び、目の前には侵入者の死体がひとつ。


 薩摩御殿の見張りを殺しているのだ、邸内に乗り込ませるわけにはいかない。


 殺された見張りの組田新三郎くみたしんざぶろうとは顔見知りであったが、哀傷も悲嘆も生じない。所詮は仕事上の付き合いである。


 薩摩御殿の見張り番には、依頼人たちの伝手により事情が知れ渡っており、また重豪不在時には中間として屋敷の雑務を手伝っていたことから、仁右衛門の存在はそれなりに認められていた。


 将軍家の底辺御家人と、誰が思うたであろうか。


 術と策の成功を胸中密かに誇りながら、再び土中へと身を隠し終えた仁右衛門の頭上で、何者かが低く唸る。


「見たぞ」


 誰だ。


 指先で土を掘り作り上げた覗き穴から、地上を窺う仁右衛門。


「見たぞ」


 繰り返された声の主は、塀の上に立っていた。


 背丈は高くないが、厳つい顔と体格の雲水うんすい


「次は、儂を殺してもらおうか」


 何を言っているのか、この坊主は。


「客人か」


 穴から這い出つつ、仁右衛門は尋ねた。


 怪僧であろうと、重豪が呼びつけた客ならは応対しなければならない。

 島津御殿には、これまでにも風変わりな客が度々訪れている。


「大殿の客人であらせられるか。正門にて門番に伝えるが宜しい。おっつけ、担当の者が参上するでござろう」


「正面からでは、討ち入りになってしまうであろう。何しろ、吉良上野介きらこうずのすけならぬ島津上総介の首を戴きに参上したのだからな」


「なにっ!」


 刺客が、まだいたのか。


「拙僧の名は金惨坊きんざんぼう。手始めに、ここを通らせてもらうぞ」


 言い終わると同時に坊主――金惨坊は塀の上で跳躍し、手にした錫杖を仁右衛門の脳天めがけて振り下ろす。


「ぬぅ」


 予想外の手応えに、呻く金惨坊。


 鈍い音を立て地面に叩きつけられた錫杖の先に、仁右衛門の姿は見当たらない。


「潜ったか」


 その通りである。


 穴をすぐに埋めなかったのは僥倖ぎょうこうだった。


 咄嗟とっさに穴の中へと身を躍らせた仁右衛門は、爪先で素早く横穴を掘り、辛くも錫杖の間合いから逃れていた。


 金輪の罠を仕掛けるのは、金惨坊がもう少し焦れてからである。


「不意討ちだけの土竜と思っておったが、なかなかどうして……逃げ足も速いのう」


 褒めているのか貶しているのか。


 不敵な笑みを浮かべた金惨坊の身体が再び宙を舞い、元居た塀の上へと降り立つ。


「ならば、こうするだけよ」


 錫杖を左手に構え、右手を懐に入れながら呟く金惨坊。


 次の瞬間、ぱっと突き出した右手の指先から白い物体が飛び出した。


 糸。


 それは金惨坊の指先から手首を通じ、肘から懐へと続いていた。


 どうやら、やたらと膨張している腹の中身は全てその糸らしい。


 風に漂うかのように揺らめく糸の先端が、庭木の枝に触れた途端、金惨坊は右手の親指で糸を断ち切り、その端を塀の瓦に押しつけた。


 その糸に、躊躇いも見せず足を乗せる金惨坊。


 土中でなければ、仁右衛門は「あっ」と声を上げていただろう。


 さながら竹竿に止まる蜻蛉とんぼの如く、金惨坊の身体は細い白糸に支えられ浮いているではないか。


 切れるどころかたわむ素振りすら見せぬ白糸の上を、悠々と二本の足で伝い歩く金惨坊。


「これは、まだ序の口よ」


 白糸の先、庭木の枝に足を掛けた金惨坊は、再び右手を懐に入れるや否や、目にも止まらぬ速さで白糸を四方八方に撒き散らす。


 石灯籠いしどうろう


 屋根瓦。


 松の大木。


 竹垣。


 縁側の柱。


 薩摩御殿の絢爛な庭が、たちまち井戸端に掛けられた蜘蛛の巣と化した。


 白糸の一つ――松の木へと続く糸にふわりと飛び乗った金惨坊は、つつつっと器用に糸の上を伝い歩き、仁右衛門の頭上で罵声を飛ばす。


「どうした、土中の庭番。貴公は儂の侵入を、指を咥えて眺めているだけか」


 それまで呆然と白糸の舞う様を眺めていた仁右衛門は、はたと己の任務を思い出した。


 この坊主を、屋敷に入れてはならない。


 逃してもならない。ここで逃せば、次は仁右衛門の目が届かぬ場所で重豪の命を狙ってくるやもしれぬ。


 絶対に、ここで仕留めなければならない。


 だが。


「そうか、その位置では拙僧に届かぬか」


 見抜かれた。


 仁右衛門が土中から襲い掛かったところで、手突き槍の穂先は金惨坊の足にすら届かないだろう。


 届くよう屈ませる為の金輪も、空中に浮かぶ相手には意味が無い。


「ははあ、図星だな」


 松の木から石灯籠へと白糸を伝いつつ、罵倒を続ける金惨坊。


「どうした、土竜もぐら野郎。いや、土竜というよりは螻蛄けらか。地面を掘って鳴き喚くしか芸が無さそうだしなぁ」


 石灯籠の上では、まだ高い。手突き槍が届くには、あともう少し低ければならぬ。


 頭上からの罵倒に耐えながら、仁右衛門はひたすら横穴を掘り続ける。


「どれ、そろそろ屋敷に入るとするか。貴様如きでは止めようがあるまい。精々、そこで螻蛄のように鳴き続けておれ」


 金惨坊の足が、石灯籠から屋敷の縁側へと続く白糸に乗る。


 来た。狙うとすれば、ここしかない。


 石灯籠と縁側の間、ちょうど真ん中辺りまで横穴を掘り進め待ち伏せていた仁右衛門は、頭上の土を跳ね除け地上へと躍り出た。


「おいでなすった!」


 仁右衛門が投げつけた金輪を錫杖で叩き落とし、間髪入れず突き出してきた槍の穂先をもかわした金惨坊は、手立てを失った仁右衛門の頭蓋を錫杖で打ち砕いた。






 地面から半身を出したまま頭蓋を打ち割られ、上半身を折り曲げ絶命した男の死体に合掌してから、金惨坊は薩摩屋敷の縁側に着地した。


 すぐさま周囲に「糸」を張り巡らせ、その一本に飛び乗る。


 土行術。意外な術を使う者も、いたものである。


 この先も油断はできない。床下どころか天井から襲い掛かってくるかもしれぬ。


 先に侵入した男には悪いが、彼が殺される場面に出くわしたのは、運が良かったと言わざるを得ない。


 もし土中の男が彼を相手に術を披露していなければ、こちらが返り討ちに遭っていたかもしれない。


 それにしても、ひと晩に二人も刺客が訪れるとは、珍しい夜もあるものだ。


 それとも島津御殿では、これが日常茶飯事なのであろうか。


 確かに、島津重豪は毎日刺客を差し向けられてもおかしくない男ではあるのだが――と、金惨坊は長嘆した。


 彼の限度を知らぬ放蕩のつけは、領民を苦しめる結果となった。


 年貢は、玄米一石げんまいいっこくにつき六斗六升ろくとろくしょう


 一石が十斗、一斗が十升だから、三分の二を税として吸い取られている事になる。


 将軍家の直轄地ですら、年貢の割合を五公五民にすべきか四公六民すべきかで揉めていたことを考えれば、重豪の借金と同様に桁外れと言える。


 当然、取り分が少ない領民は飢える。


 また重税以外にも、何かにつけて領民は苦役を強いられていた。

 建造物の資材搬送や建築の手伝いにより、島津家の領民は塗炭の苦しみを味わっているのだが、逃げ出そうにも場所は薩摩だ。

 逃げ道は北にしかないから、見張りも当然北に集中して配置される。


 島津家にとって、全ての領民は牛馬並みの価値すら無いとでもいうのか。


 このまま重豪の放蕩を見過ごしていたのでは、遠からず薩摩は餓死者で溢れかえってしまう。


 悟りの道を開かんと全国行脚の最中、薩摩を訪れその惨状を目の当たりにした金惨坊は、自ら殺戒を破り重豪暗殺に乗り出したのである。


「おや」


 白糸が貼り付いた先――縁側の柱に出来上がったこぶを見つけた金惨坊は、血漿けっしょう飛び散る場にそぐわぬ頓狂とんきょうな声を上げた。


 近づいてよく見れば、木の瘤ではない。


 背が縦一文字に割れた、蝉の抜け殻。


 夏も終わりに近づいているというのに、朝寝坊の蝉もいたものである。


 それにしても、島津は人手不足で掃除の手が行き届いていないのだろうか。


 せっかくの御殿が、なんとも勿体ない話である。


 それとも、風情がある――と重豪が放置させているのであろうか。


 気を取り直し、白糸を伝い歩きながら屋敷内の障子に近づく金惨坊。


 重豪暗殺は彼の独断である。協力者など一人も居ない。


 当然、屋敷の内部について何ひとつ把握していないのだが、奥へ奥へと進めばいつかは重豪を見つけるだろうと、発想も楽観的であった。


 そもそも、今夜は乗り込むつもりすらなかった。とりあえず屋敷の周辺を探っていたところへ、偶々黒装束の曲者が塀を乗り越え侵入していたので、なんとなく後を追ってみたに過ぎない。


 相手の姿が視認できるほど明るい月夜は、暗殺にも侵入にも向かないのである。


 縁側の柱から障子へと視線を移した金惨坊は、顔を顰しかめた。


 障子の上桟かみざんにも、蝉の抜け殻が二つ貼り付いていた。


 今年は蝉が多いのか。


 首を傾げ、ふっと息を吐いた視線の先には、またしても蝉の抜け殻。


 おかしい。異様だ。


 ぱっと頭を巡らせ辺りを伺ってみれば、柱に天井、床の影と、あらゆる場所に転がっている蝉の抜け殻。


 その数たるや、手足の指の合計を上回る。


 それだけではない。


 抜け殻と思っていたものの中には、背が割れていないものもあった。


 それらの抜け殻は、驚くべきことに少しずつ金惨坊の方へと近づいて来るではないか。


(しまった!)


 白糸の上で、金惨坊は動揺した。


 近づいて来る蝉は、どれも背が割れていない。


 抜け殻に紛れて、未だ羽化には至らぬ幼虫までいるではないか!


 しかも、それらの幼虫たちは、まるで蜜に吸い寄せられる虫のように、金惨坊が張り巡らせた白糸の付着点へと近づいて来る。


 辺りに転がっている蝉の抜け殻は、自然に地中から這い出してその場で羽化したのではない。しかも何者かによってばら撒かれたというだけではなく、命令通りに動くのであろう幼虫を、何匹も紛れ込ませていたのだ。


 不覚を覚った金惨坊の目の前で、彼が乗る白糸の付着点に辿り着いた蝉の幼虫は、鎌にも似た前足で白糸を断ち切った。


「ぬっ」


 支えを失い振り落とされる金惨坊だが、その頭には一つの疑問が浮かんでいた。


 これは、薩摩の御庭番の術か。


 だとすれば、庭で潜っていた男は何者なのか。


 その疑問が、金惨坊の反応を鈍らせた。


 空中で身を翻し着地した金惨坊の顔面に、巨大な金属片が叩き込まれた。






 白糸の綱渡りという、大道芸さながらの術を使う奇妙な雲水が動かなくなったのを確かめてから、玉坂心錫軒たまさかしんしゃくけんは身を潜めていた室内――障子の陰から身を乗り出した。


 何者であるかは知らないが、島津上総介の命を奪いに来たという以上、素通りさせるわけにもいかない。


 庭にいた中間が時間を稼いでくれたのが、吉と出た。


 もぬけの術は、脱け殻と幼虫をばら蒔くのに時間が掛かる。


 それにしても。


 立ち上がりながら、心錫軒は己の奇妙な運命に苦笑せざるを得なかった。


 どうしてまた「一日だけ」と約束した晩に限って、こんなにも死者が出てしまうのか。


 否。


 何より、どうして領民を酷使する暴君を警護しなければならなくなってしまったのか。


 玉坂心錫軒は儒者である――少なくとも、そう自称している。


 その研究基盤は、「経世救民けいせきゅうみん」を骨子とした経世論である。


 学問の一環として世間を見て回り、世の中の矛盾や民衆の窮乏を己が目で確認し、その解決を如何なる形で行うべきかを論ずるのが第一――と考えている。


 心錫軒に重豪護衛を依頼してきたのは、苛政に苦しめられている筈の、薩摩の領民――村人たちだった。


「確かに年貢の取り立てや賦役はつろうございます……しかし、それは我々が我慢すれば済むことにございます」


 修学中の儒者として単身九州に乗り込み、地元の訛りを都の言葉遣いに読解出来るようになった心錫軒の解釈では、確かに彼らはそう語っていた。


「取り立てられることばかり気にしている連中の中には、逃げ出す者もおりましょう。それはそれで、仕方のないことにございます。しかし我らには、いやこの村の人間には、薩摩島津の領民であるという誇りがございます」


「誇り、とは」


「物品豊かな薩摩に生まれ、暮らしているという誇りにございます。江戸や京、堺の土にどれほどの価値がございましょうや。我々は薩摩の土地を耕し、薩摩の土中埋められることを誇りと思うております。海があり、土があり、作物が育つ。それだけで十分でございます」


 土着愛というものなのだろうか。それにしても並外れている。


斯様かような地を、北の連中や東の島国から来た連中から守護していただいているのでございます。租税や賦役など、ほんの些細な見返りに過ぎないのでございます」


「それは、全国の大名ならばどの家でも行われている事。それでも各地の年貢の割合は、四公六民から五公五民が標準でござる。六公四民は、いくらなんでも」


「ならばそれは、島津という御家おいえの家名による恩恵の、代償にございます」


 村の長は、心錫軒の批判を頑として聞き入れない。


「島津家が大名として強勢であるが故に、ここしばらく九州では大きな戦が起こらず、また他所に比べて賊も出没せず、我らは平穏無事に暮らせているのでございます」


「大きな戦が起こらないのは、将軍家が天下を平定したからでござる」


「それは、ごく最近の事」


 二百年前を、ごく最近と言い張るのか。


「村の言い伝えに依れば、九州は本来、南九州と北九州とに大別されており、ごく最近まで島津、人吉ひとよし、大友、そして竜造寺による奪い合いに明け暮れていたそうにございます」


「昔の話でしょう」


「その昔から、この辺りで大きな戦は起こりませなんだ。ひとえに、島津家がここより北の地で他の豪族らを防ぎ止めてくれていたからに相違ありませぬ。我々は島津の庇護下で、これまで生き永らえて来たも同然にございます」


(庇護、か)


 村の人間からすれば、そう解釈出来なくもないだろう。


 実際は、島津家が自分たちの領地を奪われたくないが故に抗戦していただけなのだが。


「我らにとって、斯様に誇りある薩摩の地を守護していただいた重豪様の御身に剣難の相が現れる事すら、憂いるべき問題にございます。我らとしましては、江戸にて重豪様の身辺警護をお願いしとうございます」


 深々と頭を下げる村長の態度に、心錫軒は困惑した。


 儒者である心錫軒からすれば、領民の苦悶など微塵も気に掛けず奢侈な生活を続ける重豪は「悪人」以外の何ものでもない。


 しかし彼にとって、その悪行を敢えて受け入れ讃える薩摩の風土は、異様を通り越して感動すら覚える「例外中の例外」であった。


 困ったことに、彼はその「例外中の例外」から、一宿一飯の恩義を受けている。


 修学中の儒者として、苛政により薩摩全体が困窮している事実を承知しているだけに、その「恩」は殊更ことさら重い。


 儒者として、断るわけにはいかないのである。


「しかし、某如きに上総介様の身辺警護など荷が重く、長きに渡って果たせるものではございませぬ……まあ三日、いや一日だけなら」


 その条件でなら妥協できるというのは、村長に対してというより、むしろ自身に対しての抗弁に等しかった。


 かくして江戸に舞い戻った玉坂心錫軒は、そのたった一日の警護を今日と決め、薩摩御殿に乗り込んだのである。


 諸国行脚の儒者にござると喧伝を続けているうちに、意外なほどあっさりと重豪から声が掛かった。


 屋敷にて、ぜひ話を聞きたいという。


 その積極性を、どうして薩摩の民に向けてやれないのか。


 もっとも、心錫軒に依頼してきた村長のような領民ばかりであったなら、不満は無いかと問われたところで「何ひとつございませぬ。今まで通りにしてくだされませ」などと本気で言い出しかねない。


 名目上は客ということもあり、屋敷内は比較的自由に歩き回ることが出来た。


 お陰で、庭先での騒乱に気づいてからすぐ最寄りの障子の陰に身を潜め、蛻の術を行使できたのである。


 それにしても、屋敷を警護していたはずの侍共は、一体何処へ消え失せてしまったのであろうか。

 これまで、少なくとも死人が五人も出ているというのに、誰も気づかなかったとでもいうのか。


(おや)


 心錫軒は、いつの間にか己の視界が乳白色に濁りつつあることに気づいた。


 いや、濁っているのではない。


 いつの間にか発生した霧が、徐々に心錫軒の視界を覆いつつあるのだ。


 奇妙な霧だ、と心錫軒は直感した。


 屋敷全体を包み込み、表面に貼り付いたかのような霧は、しかし本来の霧や靄のように水滴へと変わる気配を見せない。


 羽織に付着した霧を指先で拭い取った心錫軒は、それに顔を近づけ凝視する。


(水ではない……粉だ)


 人の手による模造の霧であると看破した心錫軒は、近くに転がっていた蝉の幼虫を掴み取り、眼前に置いてから指先で床板を何度も叩く。


 背後に迫る天敵の足音と勘違いした蝉の幼虫が、たどたどしい足取りで少しずつ前進する。


 まずい事になったと、心錫軒は狼狽した。


 蛻の術は、先手を取って脱け殻と幼虫を配置することで最も効果を発揮する。

 絶対に、後手に回ってはならない術なのだ。


 くしゃり。


 ぶつっ。


 抜け殻と、次いで幼虫が踏み潰される嫌な音。


 何者かが、近づいて来る。


 即座に、心錫軒は大広間へと繋がる襖を開け中に飛び込む。


 すぐさま襖の陰に身を潜め、足音を頼りに侵入者の動向を探る。


 近づいて来る。


 立ち止まった。


 動かない。


 動き出した。また近づいて来る。


 心錫軒は、羽織の隠し袋に忍ばせていた銅製のくさびを取り出した。日常生活でも何かと役に立つ便利な道具だが、その先端は角錐かくすい状になっており、先程の雲水を仕留めたように手裏剣としても使用できる。


「わあっ!」


 楔が届く間合いにまで近づいた侵入者に、一撃浴びせようと飛び出した心錫軒は、悲鳴を上げた。


 雲水だ。間違いなく殺した筈の生臭坊主。


 その顔面には、心錫軒が握っているのと同じ楔が、深々と突き刺さったままである。


 明らかに死んでいるというのに、ゆっくりとこちらへと歩み寄ってくる雲水の足の甲に楔を打ち込み、床板に縫い付ける。


 旅の道中、刀だけでは身辺が覚束ないと身に付けた技である。


 右足、次いで左足と立て続けに楔を打ち込み、動かなくなった雲水にとどめを刺さんと、懐剣を抜いて近づいた心錫軒の耳に届いた、聞き覚えの無い声。


 一拍遅れて、視界の端に唐人姿の男が入り込んでくる。


「そこまでしなくても、とっくに死んでるよ」






 今夜に限って、死体が多すぎる。


 園田鋭角そのだえいかくは、儒者の脇腹に突き刺したままの脇差を前方に押し、それからぐいと引いて、はらわたを滅茶苦茶に引き裂いた。


 やめておけば良かった――と後悔する気持ちも、少しある。


 目の前の儒者を殺した事への後悔ではない。

 元々、儒者は嫌いである。


 手柄を狙った勇み足は、性分に合わない。


 これを主人や同僚に漏らせば、「それでも武士か、侍か」と罵られるのであろうが。


 今は唐人とうじん飴売りの恰好をしているが、本来の鋭角は三十俵取りの歴とした御家人である。その才能を、将軍家に仕える某若年寄に見込まれ、彼の下で働いていた。


 但し、「その才能」とは剣の腕前でも政の才能でもない。


 ましてや、将棋や算術、人たらしの才能でもないし、どちらかといえば才能より技術に近い。


 難事に対応する手段としては、最適なのだろうが。


 現将軍の岳父であり、外様の身でありながら江戸で絶大な権力を振るっている大名、島津重豪の存在を、鋭角の主人は快く思っておらず、はっきり言えば疎ましいとまで感じているらしい。


「何か、あの芋爺いもじじいを黙らせる手立てはないものか」


 政に介入してくるわけではない。


 しかし、松平越中守まつだいらえっちゅうのかみが主導した倹約令が腰砕けに終わった事や、近年になって目立ち始めた家斉公の奢侈嗜好は、重豪父娘による影響が半分を占めている――と、言えなくもなかろう。


 もっとも残り半分は、実父の権大納言こと治済はるさだ公の影響で間違いないのだろうが。


 このまま重豪をのさばらせていたのでは、島津家と徳川御三家との間に重大な軋轢が生じるであろう事は、火を見るより明らかだ。


 諌言に耳を貸すような人物でないことは、わかり切っている。


 それだけではない。


 外様大名の娘が将軍家、それも征夷大将軍の正室となったのは、前代未聞である。


 順序としては婚姻が先で、家斉公の将軍就任が後であるのだから、権勢に関する意図は少なかったのであろうが、結果として将軍家の秘密や城内外の配置、さらには他の外様大名らへの評価が、娘を通じて重豪へ漏れてしまう恐れがある。


 最善の解決法は、重豪の急逝だろう。


 しなければ、という手もある。


 園田鋭角もまた、主人と同様に考えており、重豪暗殺を命じられたとしても異議を唱えるつもりは無い。


 しかし鋭角が今この場に居るのは、暗殺指令が下されたからではない。


 命じられたのは、重豪の弱みを見つけ出す為の情報収集である。


 唐人飴売りの恰好をしているのは、薩摩屋敷に出入りしている中間相手に、売れ残った飴をまとめて安く買い取ってくれぬかと持ち掛ける為であった。

 最初から潜入するつもりであれば、わざわざ派手な唐人姿でうろついたりはしない。


 偶々、庭先から漂う血の匂いに異変を感じ取り、意を決して忍び込んだまで。


「それにしても、ここまでやるもんかねぇ」


 雲水らしき男の死体に近づいた鋭角は、その右足を床板に縫いとめている金属片を引き抜いた。


 平鉋ひらがんなの刃に似ているが、先端は角錐かくすいになっている。


 雲水は、明らかに事切れていた。


 そうでなければ、術に使えなかったのだが。


 鋭角が使ったのは「死人還しびとがえし」という術である。


 要は死体を固定しつつ関節を動かし、生き歩いているように見せる術だ。


 竹竿や釣り糸を使い、或いは直接死体に触れ、手足を自在に動かす術であり、正体がばれないよう動かすには、それなりの経験と器用さが必要とされる。


 特に名前が記されていなかったので、鋭角はこれを「死人還し」の術と呼んでいた。


 煙霧えんむを焚いたのは、死体の真偽をわからなくさせる為のものである。


 どちらも、園田家伝来の書物に記されていた。


 誰が書き記したのかまではわからないが、面白がって試しているうちに、仕官の途に使えやしまいかと思いついたところで、運が向いてきた。


 鋭角自身は、それまでこの術は悪戯や悪ふざけにしか使えないとばかり思っていたのだが、彼を召し抱えた若年寄――主人は別の使い道を思いついた。


 時折、夜中の寺社や番小屋の周辺で術を使い、ちょっとした騒動を起こすことで、かわら版屋をはじめとした世間の耳目じもくを「下」へと逸らすのが目的らしい。


 ずるいと言えなくもない使い方だが、これで俸給が貰えるのだから、鋭角にとってはそう悪い話ではない。


 しかも、今宵に限っては絶好の機会が舞い込んできた。


 如何いかなる理由によるものか――そこまではわからないが、普段ならば見張り番がうろつき猛犬が唸り声をあげているはずの庭先に、人の姿も見えなければ犬の唸り声も聞こえず、意を決して潜入してみれば、地獄絵図の如き殺し合いが行われているではないか。


 今ならば、重豪の命を奪えるかもしれぬ。


 薩摩御殿の客らしき儒者は、殺し合いの巻き添えになったと言えよう。


 奇妙な形の手裏剣を飛ばしていたのも、侵入者に対する護身に違いない。


 この儒者の死体を動かして、屋敷内に騒ぎを起こすべきか。それとも雲水の死体とまとめて庭先にぶら下げ、家来一同をその場に引き寄せて重豪を孤立させるか。


(はっ)


 突如湧いた殺気に、鋭角は身をひるがえしてその場から跳び退く。


 次の瞬間、それまで彼が立っていた場所に、鷹の如く舞い降りる影。


 握っていた儒者の手裏剣を投げつける鋭角だが、影はそれを易々と躱す。


 影――襲撃者の正体を確かめようとするも、自らが焚いた煙霧により、ぼんやりとした輪郭までしかつかめない。


 煙霧は、時間の経過とともに薄まっていく。


 作製した鋭角は、もちろんそれを知っていた。


 煙霧が消え失せるまでに逃げ出すのが正しい選択なのだろうが、襲撃者の正体がどうしても気になる。


 何より、今こそ重豪の命脈を断つ絶好の機会ではないか。


 踏み止まり、脇差を構えた鋭角の周囲で、次第に視界が明瞭になる。


「あっ……いや、女か」


 短く叫んでから、訂正する鋭角。


 初めはその美しさから、影の正体を重豪御付きの若衆ではないかと思い込んだ。


 しかし、目の前の敵には喉仏が見当たらず、肩や臀部の曲線は明らかに女のそれである。


近江守おうみのかみか、それとも壱岐守いきのかみの子飼いか」


 どちらも鋭角の主人の同僚――若年寄の事である。


 その甲高い声で、鋭角は相手が女だと確信した。


 行灯あんどん龕灯がんとうがあれば、灯を近づけて顔を確認出来るであろう。

 なんとなくではあるが、美人のような気がする。


いずれにせよ、岳父殿を快く思わぬ輩が黒幕であろう」


「貴様の主人とて、同じであろう」


「一つ違う。俺の主人は老中職よ」


 返答と同時に、女は逆手に握った刃物を頭上に振り上げ、鋭角に襲い掛かって来た。


 その攻撃を左へと躱し、脇差を左から右へと払った鋭角であったが、女は山猫のように俊敏な動きで宙を舞い、白刃は無人の空を薙ぐ。


 女が握る細身の刃は、明らかに通常の刃とは異なる形状である。


 鋭く両刃であり、しかも先端は錐のように細い。


 恐らくは相手を斬る為のものではなく、刺し貫くのが目的で作られた短刀であろう。


 対する鋭角は、闇夜に紛れて死体を動かし、騒ぎを起こしたり不意を突いたりするのを得手としており、剣の腕は凡庸である。


 女相手と軽んじたのが、裏目に出たか。


 せめて手元に刀があれば。


 女の振り回す刃は、脇差しか持たぬ鋭角を徐々に追い詰める。


 逆に鋭角が振り回し突く脇差の切っ先は、女の身体に触れる寸前で、ひらりふわりと全て躱されてしまう。


「あっ!」


 女の白い足が鋭角の胸を突き押し、彼の身体は大広間の奥へと吹っ飛ばされた。






 若年寄の刺客が、毬のように大広間へと転がり込む。


 後を追う女――が、立ち上がろうとする唐人姿の刺客に飛び掛かろうとしたその時、床の間に掛けられていた掛け軸が、ばさりと音を立てて大きく揺れた。


 同時に、掛け軸の奥から飛び出す影ひとつ。


「島津上総介重豪! その命もらい受けた!」


 拳銃片手に飛び出してきたのは、芥子からし色の忍び装束に身を包み、同じく芥子色の覆面を被った男。


 覆面から見えているのは目とその周辺のみであり、年齢までは判別できないものの、やや肥満体ながらその動きは鋭い。


 驚いたのは、おろくだけではなかった。


 唐人姿の刺客も、


 そして、芥子色の男も。


 最初に声を発したのは、芥子色の男だった。


「おい、高輪の下馬将軍はどこ行った」


 島津重豪の異名である。


「さては彼奴きゃつめ、逃げたか! 臆病者めが!」


 尋ねたりいきどおったりと、忙しい男である。


「おい」


 芥子色装束の男は、唐人姿の刺客に銃口を向けた。


「重豪は何処だ」


 今なら、動ける。しかし、重豪は何処へ逃げたのか。


 おろくの逡巡が、行動を鈍らせた。


「おっと」


 刺客を詰問しながら、男は左手を懐に入れる。


 外へと滑り出したその左手には、右手に握るものと全く同じ形の拳銃が握られていた。


「そっちの姉ちゃんも、おとなしくしていなよ。こいつぁ最新型の燧発すいはつ式拳銃だ。火縄の代わりに火打石を付けている奴でな。火縄みたいに短くなったり燃え尽きたりすることがない。いつでも撃てるってわけだ」


 そんな代物を二丁も所持している、こいつは一体何者だ。


 重豪は、将軍の岳父は、それ程の大物にも命を狙われているという事なのか。


「国内に出回っている短筒に比べりゃ、軽くて扱い易いうえに命中精度も段違いよ。海の向こうにゃ女が帝やっている国があるそうだが、そういうお偉い方々の護身用なんだとさ」


 膂力りょりょくが並外れているのだろう。舶来の品とはいえ、本来ならば両手で支えねばならぬ短筒を、片手で一丁ずつ軽々と持ち上げ、脇差と変わらないかのように振り回している。


「で、お前らはなんなんだ。どうして此処ここにいる」


「私は」


「いや」


 口を開きかけたおろくを、唐人姿の刺客が声で制する。


「俺から先に名乗ろう。俺の名は園田鋭角。さる御方からの命を受け、島津上総介の命を奪いに来たのよ」


 どことなく嘘が含まれてるように感じたのは、おろくの気のせいであろうか。


「ふぅん、さる御方ねぇ」


 しかし芥子装束の男は刺客――園田鋭角の独白にも、さして興味が無いかのような素振りである。


「で……お前は何者だい、女」


「俺の名は、おろく。将軍家御老中の命により、御君の岳父であらせられる上総介の御身を警護するよう、仰せつかっているのだ」


「殺しに来た者と、護りに来た者ってわけかい」


 その二人が揃って同じ場所で尋問されるのも妙な話だな――と益体もない事を思う、おろく。


「あんた、何処に隠れていたんだ」


 男の目的が自分と同じらしいと気付いて、気が緩んだのか、鋭角が表情を和らげながら尋ねる。


「掛け軸の中に掘られている、隠し通路からだよ。屋敷の外堀まで続いているんだが、出口を見つけて、そこから逆に辿ってきたんだよ。勿論、上総介はいなかった」


「あ、あんた……一体、何者だ」


「奥羽の又次郎またじろう。今は奥州伊達家に仕えている、元盗賊よ」


 おろくは、あっと胸中で叫び声を上げた。


 奥州伊達家といえば、北の雄として島津と肩を並べる外様。所領六十二万石の大物である。


「まあ、仕えているというのもごく最近の話だ。俺の主人は伊達家当主の親類……一門とかいう奴でな。当主の某は、島津が将軍様の親戚として偉そうにしているのが気にくわない、と仰っているんだそうだ。それで、島津家現当主より力のある上総介が急逝すれば、少しはおとなしくなるだろうってぇんで、この又次郎様が派遣されたわけだ」


 説明を終えたらしい又次郎は、左右に握る拳銃の銃口を軽く揺らした。


「報酬は、この拳銃二丁よ。どうだい。海の向こうじゃ、こんなもんが流行っているんだぜ。見なよ、火縄銃なら火縄が付いているべき箇所に、鉄の突起が付いているだろう。こいつの先に火打ち石を嵌めて引き金を引けば、火皿に叩きつけられて火花が発生。火薬に引火して弾丸がずどん……ってぇ仕組みさね」


 便利なのか不便なのか、おろくには今ひとつ理解できない。


「抜け穴なんて、同じ部屋に二つも三つも作るもんじゃねぇや。上総介がこの部屋に居るんなら、背後から襲ってやろうと思っていたんだが、当てが外れたらしい」


「時間が時間だ、今頃は寝室であろう」


「成程、そいつぁ道理だ」


 場違いにも聞こえる鋭角の指摘に肯首してから、又次郎は顔を上げた。


「さて、俺としちゃあ助っ人よりも手柄が欲しい。二人とも、揃ってこの場でご退場願いたいところではあるんだが」


「退場するのは貴様の方だ、又次郎」


 声と共に再び床の間の掛け軸が舞い上がり、またしても中から影が飛び出してくる。


 影はそのまま、拳銃の的になるのを避けるかのように大広間の中を飛び回り、四方の襖を軒並み薙ぎ倒す。


 月光に晒された影の正体は、一個の黒装束。


 庭先でうつ伏せに倒れていた男にそっくりだが、向こうは既に冷たい骸と化している。


「半介か!」


「そうだ。伊達の黒脛巾くろはばき組、竹宮半介たけみやはんすけ。お前のような半端者ではない、正真正銘の隠密よ」


 伊達の黒脛巾組といえば、伊達家直属の隠密部隊。


 仙台藩の初代藩主、伊達陸奥守政宗だてむつのかみまさむね公が創設したと言われている、忍びの精鋭である。


 確かに、竹宮半介なる男の脛には、黒の巾木が当てられていた。


「おのれっ! 奥羽だけでは飽き足らず、江戸においてまで、しかも同僚となったこの俺の邪魔をするつもりかっ!」


「何が同僚だ。俺は宗家直属、貴様は一門の人間に召し抱えられただけではないか。格が違うのだ、格が」


「何をぬかすかっ!」


 いまだ。


 又次郎の意識が半介へと逸れた一瞬の隙を見逃さず、おろくは右へと跳躍し、拳銃の照準から逃れる。


「あっ」


 どうやら、考えていることは同じだったらしい。


 同時に鋭角も左へと跳び退った。


「又次郎とやら、上総介の命を狙うのならば、目的は俺と同じだ。この場は協力しよう」


 負けじと、おろくも言い放つ。


「伊達の隠密! 俺は将軍家御老中より、上総介様の身辺警護を任された者だ。共に刺客を討ち取ろうではないか」


 これで二対二になるというおろくの目論見は、脆くも崩れ去った。


「ならば、お主らが殺し合っている間に、俺が重豪を殺してしんぜよう」


 庭先から、ひょいと屋敷に躍り込んできた侍が、二尺余の刀を抜きながら声高に叫ぶ。


「我こそは、戸次川の戦にて島津に敗れ討ち死にした十河存之そごうぞまさゆきこと三好隼人佐みよしはやとがさが末裔、三好兵馬みよしひょうまよ! 今や島津の長たる重豪の首を取り、我が祖先の墓前に捧げて一族の怨みをすすがんと推参致した。いざ、覚悟せよ!」


「ならぬ!」


 今度は、無数の罠が仕掛けられている筈の天井板を突き破り、一人の男が落下してくる。


 園田鋭角とは色違いの唐人姿で現れたその男は、半介に斬りかかった兵馬の刀を、被っていた唐人笠で真っ向から防ぎ止めた。


「我は公儀御庭番、藤巻左太夫ふじまきさだゆう。遥か昔の遺恨により、貴様が上総介様に危害を加えるつもりならば、それは公儀と島津との間に新たな亀裂を生み出すことになりかねぬ。控えい!」


「笑止! 豊臣の恩義を忘れ滅ぼした徳川の犬めが!」


「斯様な昔の恩讐で、今の日本に戦の火種をばら蒔かれたのでは、民がたまらぬ。おとなしゅう引き下がられいっ!」


 内側に鉄板でも仕込まれているのか、兵馬の斬撃を唐人笠で容易く受け止めた左太夫が、そのままどんと突き押す。


 ばたんと仰向けに倒れた兵馬の身体を跳び越え、修羅場に躍り込む新たな刺客。


「ならば、俺はどうなる……かつて島津に滅ぼされた、肥後阿蘇ひごあそ氏の忘れ形見……阿蘇天膳あそてんぜん。一族の恨み、晴らしに参った……」


「これを待っていたっ!」


 伊達の黒脛巾組――竹宮半介により開け放たれた、寝室へと続くであろう部屋の奥から、さらに中間姿の男が仕込み刀を引き抜きながら躍りこんできた。


「我こそは人吉相良ひとよしさがらの臣、犬童頼安いんどうよりやすが末裔、犬童内記いんどうないき! 戦乱の時代、豊臣の介入によるものとはいえ相良との和睦に応じてくださった島津への恩。この場にて返さん! いざ!」


 襖の無い壁に背を付けながら呆然としているおろくの前に、次々と名乗りを上げながら参上する男たち。


「我こそは、臣下の身でありながら理不尽な粛清を受けた伊集院忠真いじゅういんただざねの末裔――!」


「させぬ! 我は――」


「俺は平田増宗ひらたますむねが遺族! 家来であった我が祖先を射殺した理由、閻魔の前で島津の祖先に問いただしてもらおうか!」


「待て、そのような理不尽を許すわけにはいかぬ! 我は――」


 次々と現れては、直前に名乗りを上げた輩に襲い掛かる、刺客と護衛たち。


 おろくが、その人数を数えるのを諦めた頃には、薩摩御殿の大広間は、無数の白刃煌めき血漿飛び散る阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。


「ぐあっ!」


「ぎゃっ!」


 阿蘇の天膳は、唐人笠で斬撃を防ぎ止める藤巻左太夫の正面に立っていたが、全く同じ姿が左太夫の背後にも立っていた。


 そして背後に立っていた天膳が、左太夫の無防備な背中を袈裟斬りにすると同時に、正面に立っていた彼の姿が幻の如く消え失せる。


 僅かに遅れ、その天膳の脇腹を竹宮半介の小太刀が刺し貫いた。


 自分が倒した藤巻左太夫の背に、圧し掛かるように倒れ絶命する阿蘇の天膳。


 三好兵馬と犬童内記は正面から切り結び、相討ちで果てた。


 もはや誰が敵で誰が味方かもわからなくなった頃――


「あうっ!」


 伊集院忠真の末裔を名乗る男――名は忘れた――が四方に放った手裏剣の一枚が、おろくのももをかすめる。


 傷は浅いとはいえ、痛みと溢れ出る血が、斬るべき敵を捜し求め跳び回っていたおろくの動きを鈍らせる。


 このままでは、跳ぶのはおろか歩き回ることすらままならない。


 踏み止まるか、逃げるか。


 自分が始め狙っていた男――園田鋭角は、この中の誰かが倒してくれるだろう。


 だが、重豪の命を狙う者が生き残ってしまったならば、そのまま寝室に居るであろう重豪の命を奪いに向かったならば。


 使命と己が命を天秤に掛け逡巡していたおろくの耳に、一発の銃声が轟く。


 畳に斃れたのは、園田鋭角。


 撃ったのは、奥羽の又次郎か。


 馬鹿な、そんな筈がない。


 鋭角と又次郎の目的は同じであり、撃つ理由は何処にもないのだ。


 何故。


 唖然とするおろくと同様、それまで血みどろの戦いを繰り広げていた刺客と護衛たちも、一斉に動きを止めて又次郎を凝視する。


 それを察したのか、撃ったのは俺だと誇示したいのか、又次郎はさらにもう一発、天井に向けて発砲する。


「やめだ! やめ!」


 呆然とする一同の前で、又次郎は芥子色の覆面から大音響を発する。


「こんなにも狙われ護られている島津重豪ってなぁ、一体何者なんだよっ! こんな奴、俺がわざわざ手を下さなくとも、そのうち誰かが殺してくれらぁ! 俺は降りるぞ、馬鹿馬鹿しい!」


 確かに彼の言う通りではある。たった一晩で、十を超える刺客と護衛が現れるような男だ。このような日々が続いたのでは、並の男であれば半年と持たないであろう。


「それに、これだけの騒ぎを起こしているってぇのに、誰も出てきやがらねぇ。奴ぁ、とっくに屋敷を脱け出して、てめぇの婿か孫の所にでも転がり込んでいやがるんだろうぜ!」


 生き残った者たちの間から、驚愕の声が次々と漏れる。


「しまった!」


「一大事!」


「待て、待たぬか!」


「おのれ卑怯者、戻って勝負せよ!」


 叫ぶや否や、次々と大広間から外へと飛び出す刺客たちと、それを追う護衛者たち。


 おろくは、後を追えなかった。


 腿の傷が疼き、走るのも跳ぶのもままならない。


 大広間に取り残されたのは、おろくだけではなかった。


 奥羽の又次郎と、竹宮半介。


 又次郎は、まだわかる。やめた降りたと、大勢の前で宣言した。


 竹宮半介は、如何なる理由でこの場に留まったのか。


 よもや、又次郎が同じ伊達家に仕えていることに我慢がならず、この場で決着をつけようとでもいうのか。


 しかし、又次郎の方へと顔を向けた半介の声は、いたって穏やかなものだった。


「危ないところでございましたなぁ」


「うむ」


 答えた又次郎の声も、別人のように落ち着きのある、穏やかな声。


「こんなこともあろうかと、隠し通路に忍び装束を用意しておいて正解だったわい」


 つぶやきながら、又次郎は芥子色の覆面をむしり取る。


 中から現れたのは、四十絡みの中年男だった。


 おろくは、その顔を見知っていた。


 知っていなければならぬ顔である。


 そうでなければ、


 刺客の標的となっていた男――島津家前当主にして現将軍の岳父、


 若い、とおろくは改めて思った。


 主君の話では、齢は既に六十を超えているというが、以前から何度も見かけては、同じ感想を抱いていた。


 どう見ても四十代だ。元服した孫が居るとは、とても思えない。


「おう、娘さんは残ったか。騙してすまんかったのぅ」


 又次郎――重豪は、おろくの前で柔和にゅうわな笑みを浮かべた。


「儂がこの館の主、島津重豪じゃ。こやつは側用人の武井半次郎たけいはんじろう。勿論、儂らは奥羽の盗人でもなければ、伊達の黒脛巾組でもありゃせんわい」


 滑舌も、六十過ぎの老人とは思うないほどしっかりしているし、薩摩独特の訛りもない。蘭語に堪能というのも、あながちご機嫌取りに依るものではないらしい。


 このような殿様なら、抱かれるのも悪くない。


 一瞬とはいえそう思ってしまったおろくは、即座に我が身を恥じた。


 何を考えているのだ、自分は。


「外の騒動に気づいて大広間の抜け穴に逃げ込んだは良いが、このままでは逃げきれぬと思ったのでな。一か八か、儂自身が殺す側に紛れ込んでみたわけだが、どうやら吉と出たようじゃな」


「まったく、後から出たこちらは冷や汗ものでございましたぞ」


 そうか、とおろくは合点した。


 又次郎が抜け穴の隠し場所を知っていたのは、当然なのだ。


 


 竹宮半介が、又次郎に対して大見得を切りながら手を出さなかったのは、当然なのだ。


 


「万事上手く運びましたが、唯一の心残りが」


「なんじゃ、言うてみよ」


「我らが伊達の名を騙った事で、彼奴等きゃつらに一つ借りを作ってしまったのがしゃくでございます」


「なんだ、そんなことか。なぁに、こちらから言い出さん限りは、ばれようが無いわい。それに、ばれたところで騒ぎ立てる理由にもならん。むしろ、騒げば向こうの器が知れるというやつじゃ。儂が伊達なら、構わんもっとやれと言っておるわい」


「そうもいきますまい。島津の為にも、もう少し自重なされては」


 臣下の諌言に、重豪は渋面を作って反論する。


「貴様までそれを言うのか、半次郎。儂を貧乏神、疫病神と呼ぶなら呼べ。民が飢え苦しもうとも、儂の知った事ではないわい。儂が使っている金は、島津の未来に必要とされる金ばかりじゃ……島津の為に建物を建て、島津の為に威厳を見せつける。金とは、所詮は事を過不足なく進める為の道具に過ぎぬ。未来の為に使う金ならば、惜しむ理由などあろうものか」


 誰にともなく宣言し、高らかに笑う重豪。


 血風吹き荒ぶ修羅地獄を体験したというのに、まるで動じない。


 この豪放磊落ぶりが、島津を勢いづかせ、また桁外れの借金を拵えてしまった所以なのかもしれない。


「おっと」


 ひとしきり笑ってから、重豪はちらりとおろくに視線を飛ばした。


「おろくとやら、大儀であった……ところで、儂の護衛という事であれば、もっと安全な場所で任務を全うしたいとは思わぬか。有り体に言えば、儂の寝室はどうじゃ」





 この重豪に溺愛され、後に島津の当主となったのが、島津斉彬しまづなりあきらである。


 祖父に負けず劣らずの才能を発揮し浪費もしたが、時代の後押しもあり、維新の担い手として幕末にその名を残した、名君である。


 ただ、惜しくも志半ばで早世した。


 悪い噂が出ない奴ほど、若死にするのである。






                             (了)

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重豪千差万別 木園 碧雄 @h-kisono

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