第17話 駆け出す心 2/2

その日の午後、葵は予定通り病院に来ていた。最寄り駅から三十分電車に乗り、そこからさらに徒歩で十分という距離に、改めて遠いなと葵は感じる。

 タクシーを呼べばもっと楽ではあるが、運転手との会話は弾みそうにないし、一人で通うには電車の方がまだ楽しみがある。

 受付を済ませ、待合室の椅子に座ると程なくして呼び出しが掛かった。いつも予約しているから混雑時でも何十分も待つということはないが、今日はかなり早い。それもそのはずで、待合室は普段よりずっと空いていた。


「月曜の午後がオススメとは聞いてたけど」


これまで葵は水曜か金曜に通院していたが、母が来る関係で今回は曜日をずらしている。当初は土曜に予約を取ろうと考えていたが、狐に勧められたのが今日の時間帯だった。

 結局土曜日は一日中倒れていたので月曜にして正解だったのだが、それを見越していたのか或いはこの時間帯が空いていることを狐は把握しているからだったのかは知る由もない。


「失礼します」


軽く三回ノックをして診察室の扉を開け、一礼する。一人で来るのは初めてだが、意外と緊張はしないものだな、と葵は思う。いつも狐がそうしていたように、中に入るとなるべく静かに扉を閉めた。


「こんにちは、大体一週間ぶりでしたね。調子は変わりありませんか?」

「はい、まあ」


前回の通院は先週の火曜日だった。いつもは週に二回来ているので今までで一番間隔が空いたことになる。医師は変わらず柔和な様子であり、最初に調子を訊かれるのも毎度のことなので、ついいつものように返事をしてしまった。


「あー・・・いや、そうでもないかも」

「ふむ」

「えーと・・・」


つい先程まで錯乱していたのに不調がないと言ってはいけないだろう。嘘だけダメだとアイツも言っていた。

 とはいえ、何を話したら良いのか迷ってしまう。三日も取り乱したのは異常な気もするし、失恋したら誰でもそうなるものなのかもしれないとも思う。どちらも初めてなので判断がつかない。分からないことは相談するべきではあるのだが。


「説明が難しいですか?」

「はい、すみません」


葵が言い淀んでいると医師の方から質問が来た。思わず謝罪の言葉が口を突く。上手く話そうとしなくて良いことは分かっているが、中々そうもいかないものだ。医師はこんな自分の態度に困っているだろうかと思ったが、変わらず落ち着いた様子で続けた。


「大丈夫ですよ、よくあることです。まとまらないようでしたら、こちらから質問してもよろしいでしょうか?」

「あ、はい。その方が話しやすいと思います」


医師の提案は魅力的だ。自分で話すことを考えるよりも、相手が知りたいことを答える方が簡単だろう。向こうは専門家なのだから、ここは甘えるのが正解だと葵は判断した。


「それでは、お聞きしますね。身体の不調はありましたか?」

「身体・・・はい。眠れないのと、食欲不振と、あとはなんて言ったら良いかな。ちょっと、倒れてて」

「なるほど。薬は毎日服用していましたか?」

「はい」

「不調はいつからですか?」

「金曜日の夜・・・いや、お昼前かな。どっちだろ。あの日の晩ごはんまではちゃんと食べたから、体調が悪かったのは夜か」


医師は短い質問に葵は少し考えながらもありのままを答える。淡々としたやりとりだが、やはり自力で考えるよりもずっと話しやすい。


「今日も体調不良は続いていますか?」

「えーと、そうだな・・・。今は大丈夫なんですけど、今朝九時ぐらいかな、朝食の前まではだいぶ悪かったと思います」

「倒れていた、と言いましたが具体的に説明はできますか?」

「えーと、ちょっと待ってください」


ここで少し難しい質問が来て葵は考える時間を要求する。確かに曖昧な言い方だった。どう説明したものかと悩むが、先程から方法は提示されている。ひとつずつゆっくり言えば良い。葵は心を落ち着けて、話しを再開した。


「ちょっと、色々あるんですけど、何も手につかなかったり、パニックになったり、あと起き上がれなくなったりして・・・」

「起き上がれない、というのは身体が動かないような症状ですか?」

「えーと、はい。力が抜けて倒れ込んじゃう感じです。今朝もなったんですけど」

「今朝もですか。今は治まっているとのことですが、しばらくすると症状が治まるということですか?」

「あー、いえ。昨日とか一昨日とかはそのまま気を失って、目が覚めたら動くようになる感じだったんですけど、今朝は自力で起きました」


葵の返答に医師は一瞬手を止め眉をぴくりと動かした。その反応に何か変なことを言っただろうかと葵も驚く。


「自力で起きられたんですか。それはすごいですね」

「すごい、ですか?」

「心因性で倒れ込んでしまうという症状はままあります。ただ、その状態から自力で起き上がれる方は珍しいので。回復できた理由に心当たりはありますか?」

「えーっと、吹っ切れた・・・わけじゃないんだよな。無理やり起きたって感じだから、なんでだろう?」


考えてみればよく分からない。別に狐に未練がないなんてことはなく、ショックから立ち直ったわけでもなければ、当然吹っ切れてもいない。ただ倒れたままでいたくなかった、というだけなのだが、もしかして医師にも分からないようなおかしなことだろうか。


「なるほど。では、少し違う質問になります。初診からおよそ二ヶ月になりますが、その間では初めての不調でよろしかったですか?」

「はい、今までは特になかったです」


困惑している葵と対照的に医師は穏やかに質問を続ける。話を変えた理由は少し気になるが覚えていたらあとで尋ねれば良いかと思い、今は答えることに集中する。


「では、不調の原因に心当たりはありますか?」


遂に核心に触れる質問が来たと葵は身構えた。もちろん原因ははっきりしている。これをどう話したら良いだろう。失恋したと言うのはやはり恥ずかしい。


「その、ちょっと恥ずかしいんですけど、好きだった人が急に居なくなってしまって、連絡も取れなくて、それが原因だと思います」


だが言葉を選んでいても仕方がない。ここはありのままを話そうと葵は決心した。医師は葵の言葉を小さく頷きながら聞いていた。


「それはショックでしたね」

「はい、とても」


医師の口調は変わらない。同情しているでもなく、かといって突き放しているでもなく、ただ柔和で優しい言葉が胸に染みる。すべて話せて良かったと葵は思った。


「大体のことは分かりました。まだ割り切れていないとのことでしたので、症状が再発する可能性も考えられます。一旦は薬も変わらず続けていただいて、様子を見ながら何かあったらすぐ連絡してください」

「はい、ありがとうございます」


会話が一区切りつき、葵はほっと胸をなでおろした。言いそびれたことも特にはない。具体的に何かが解決したわけでもないが、今の自分はなんとか大丈夫そうだ。これからのことは自分で折り合いをつけていこう。


「ところで、大した話ではないのですが、コーヒーを飲まれているんですか?」

「えっ?」


考えに耽っていると急に思いもよらない質問が振られて葵はびっくりして心臓が飛び出そうになった。確かに今朝も飲んだがまずかっただろうか。


「えっと、デカフェの物を度々。やっぱり良くないですか?」

「ああいえ、確かに薬の飲み合わせ次第でカフェインが悪影響することはありますが、日向さんに処方しているものは摂取しすぎなければ大丈夫です。デカフェなら特に問題はないですよ」


バツが悪そうに答える葵に医師は初めて軽く笑う様子を見せた。問題がないなら良いのだが、一体どういう意図なのだろうか。というか、何故分かったのだろうか。


「驚かせてしまったならすみません、軽い雑談のつもりでして。先に断っておくべきでしたね」

「はあ、雑談ですか。えっと、もしかして臭います?」


ここに来て雑談とは診察は終わりということなのだろうか。とりあえず葵は思い当たることを訊いた。ケアはしているはずだが、足りていなかったのなら恥ずかしいことこの上ない。


「匂いといえば匂いなんですが、想像しているものとは違うと思います。日向さんが部屋に入られたときに軽く香ったもので、服に移ってるのかもしれません」

「服に? ・・・ホントだ」


そんなバカな、と思いコートを顔に押し付けると確かにほんのり嗅ぎ慣れた香りがする。冬服は一度出すとしまうのが億劫で、今日着てきたコートは部屋の壁に掛けっぱなしなのだが、まさかコーヒーの匂いが染み付いてるとは思いもしなかった。


「実は私もコーヒーが好きなんですよ。だから敏感なんです。それに」


診察の途中でちょっとした雑談が交じることは度々あったが、恐らくは緊張を和らげるためのものだと思っていた。しかし今日はなんだか様子が違って見える。ここまで饒舌な医師は珍しい。


「それに?」

「私のお気に入りと、同じ香りな気がしましてね」


医師は意味ありげに視線を葵の隣にやったような気がした。



―――――――

診察を終えて家に帰り着くと、体力の限界を感じて葵は床に座り込んだ。三日も寝不足だった上に遠くの病院へ往復するのはさすがに堪える。とはいえ嫌な疲れ方ではない。ひとつやり終えたような達成感はあった。


「今寝ちゃうのはちょっとまずいか」


心が晴れやかというほどでもないが、気分は落ち着いている。恐らく一度寝てしまうと朝まで起きないだろう。薬は毎食後に飲まなければいけないので、さすがにそれは済ませなければならない。


「何かないかな・・・あっ」


疲れ切っていて料理をする体力はないので、軽く摘めるものを探しているとコーヒーの箱が目に入る。デカフェとオリジナルが並んで二つ、そういえば狐は私物を置きっぱなしにしたままだ。せめて跡を濁さず去ってほしいものだと葵は苦笑する。


「そういや、どこで買ったか聞いてなかったなあ」


箱の中身は残り少ない。オリジナルの方も残っているが、カフェインに気をつけている以上こちらに手を出すのは気が引ける。すごく気に入っていたので切らしたくはない。取り寄せできる物だといいのだが。


「アイツが居ればすぐ解決するのにね」


葵は我ながら未練がましいと思った。なんとかマトモなフリをしては居るが、すぐに狐の面影を探してしまっている。狐のコーヒーも手を付けないなら捨ててしまえば良いのに、そういう気にはなれなかった。


「まんざらでもなかったのになあ・・・」


母に彼氏だと言われたときに、否定こそしたが嫌な気はしなかった。今思えば軽く舞い上がってすらいたかもしれない。

 満更でもなかった、どころかそうなって欲しかった。今では叶わない願いだ。この気持ちもいずれは過去になって忘れていくのだろう。


――本当にそうだろうか?


「負けず嫌いなんだよね、あたし」


どうして待ってばかりいたのだろう。諦めるにはまだ早い。連絡先を知らないからなんだというのか、手掛かりは残っているかもしれない。二ヶ月近くも一緒に過ごしたのだから、何か思い当たることはあるはずだ。出会ったときから全部、思い出せ・・・!


「・・・もしかして」


考えてみれば最初から違和感があった。何故あの狐はあんなに詳しいのだろう。見聞きした程度の知識とは思えない。経験と実感が伴っていた。あのとき、話題を逸らしたのは何を隠していたから?

 身体の疲れは葵の仮説に説得力を与える。どうしてこんなに歩く所を選んだ? 有名だからというにはニッチな選択だ。あの場所を深く知っていなければありえない。それから―


「お気に入りの、香り」


葵はすぐにスマホに手を伸ばし、時刻を確認する。まだ間に合う。


「もしもし・・・」


そして、一本の電話を掛けるのだった。

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