憧れと現実と、そして猫
RIKO
憧れと現実と、そして猫
憧れのタワーマンションを手に入れた。お台場の一等地、その最上階だ。
広い窓から見下ろす夜景は宝石のように輝き、俺の今の実力を光のスクリーンに浮き上がらせているようだった。ゆったりとソファに身を沈め、ワインを傾ける。最近手に入れた中古のLPレコードの中から、ジルベール・ベコーのシャンソンを選んでプレイヤーにかける。
薔薇は憧れ、薔薇は憧れ 薔薇は僕たちの夢♪
なんてゴージャスな夜だろう。静かに、自分の努力に満足し、悦に浸る。この若さでここまで来た自分を誇らしく思う。昔住んでいた古びたアパートとはまるで別世界だ。
しかし、1カ月もしないうちに、美しい景色にも飽きてしまった。友人も会社関係以外とは疎遠になり、タワマンに招いた同僚たちとの会話も商談の延長のようで、退屈だった。煌びやかな夜景も、どこか人工的で、初めて見たときの感動はすっかり薄れてしまった。
恋人もいない。タワマン目当てに近づいてくる女性には嫌悪感すら覚えた。孤独を感じる。誰かに傍にいてほしい。
そこで、猫を飼うことにした。アメリカンショートヘア。くりっとした瞳が愛らしい。膝に乗ったり、甘えてきたりする。
窓の外の景色を見せてやるが、興味なさそうだ。
「仕方ないか。お前、猫だもんな」
ふと、人間だけがこの夜景を美しいと感じることに気づき、それが一種の傲慢にも思えた。同時に、少し気が抜けたような感覚を覚えた。
猫は可愛かったが、飼い始めると想像以上に世話が大変だった。帰宅すると、部屋には散乱したトイレットペーパー。家具で爪を研がれ、粗相もされた。
何よりも、出社前の猫の寂しげな瞳が胸に刺さった。俺も一人で寂しかったが、こいつもまた、俺のいない間、ひとりぼっちだ。
「猫だから、寝ていれば平気なのか?」
そう思おうとしたが、鳥かごに閉じ込めるような気がして、どうにも割り切れなかった。
* *
ある日、ふと思い立って、昔住んでいたアパートを訪ねてみた。あの頃の大家のおばあさんは、何かとお惣菜を持ってきたり、お土産をくれたりと、世話好きで優しい人だった。でも、当時の俺は、それをうっとうしく感じていた。しかし今になって思えば、あの気遣いが懐かしく、温かいものだったと気づく。
「え、亡くなったんですか……?」
アパートの隣にある大家の家を訪ねると、家族が対応してくれた。高齢だったこともあり、俺が引っ越して間もなく亡くなったという。心にぽっかりと穴が空いた。
タワーマンションに帰ると、猫がこちらを見て寄ってきた。キャットフードをあげると嬉しそうに食べ、ソファに座ると膝に乗ってきた。今夜も彼女と夜景を見る……いや、猫はそんなものには興味がない。ただ撫でてほしいのだ。「寂しかったんだから」とでも言いたげに。
LPレコードも、一度聴いたきりで放置している。もう売ってしまおうか。
猫は実家で飼ってもらうことにした。実家なら誰かがいつも家にいるので、こいつも寂しくないだろう。久しぶりに様子を見に行くと、妹と楽しそうに遊んでいた。良かったな、と思う。実家でのびのびと過ごしているようで、タワマンにいた頃よりも生き生きしている。俺が呼んでも寄ってこない。どうやら、よく遊んでくれる妹のほうが好きになったらしい。
父が「おい、一局打つか」と碁盤を出してきた。小学生の頃、よく碁会所に連れて行ってもらい、囲碁教室にも通っていた。最近はネットでたまに打つくらいで、すっかりご無沙汰だ。
パチン、パチン──碁石を打つ音が心地よく響く。アナログの音が妙に新鮮だった。
*
結局、俺はタワマンを出て、実家の近くに引っ越した。今度の住まいは使い勝手のいい2LDKのマンションの3階。朝、エレベーターを待つ必要もなく、駅の大混雑とも無縁だ。商店街が近く、買い物も便利になった。会社からは遠くなったが、リモートワークを増やして対応できる。
週末、実家へ向かう。
「よう、タマ、元気だったか?」
玄関の扉を開けると、猫のタマが嬉しそうに尻尾を振って迎えてくれた。
「兄さん、何でタマなのよ。アメリカンショートヘアなんだから、もっとかっこいい名前にしなよ」
妹が口をとがらせて、そう言ったが、
「その名前がいいんだ。猫らしいじゃないか」
俺はそう言って、父のいる和室に向かった。
父の横には碁盤が置かれている。
「まあ、一局打っていくか」
そうしていると、妹が菓子とお茶を持って部屋に入って来た。
「兄さん、彼女作りなよ」
「余計なお世話だよ」と苦笑いする。
憧れよりも、現実のほうが俺には合っているのかもしれない。
そう思いながら、俺はタマの頭を撫でた。
~ 了 ~
憧れと現実と、そして猫 RIKO @kazanasi-rin
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