狂信の月下美人
楠富 つかさ
第1話
土曜の昼下がり、ファミレスの窓際の席。少し遅めのランチを取る人々の声が、程よいBGMのように店内に満ちていた。
私、寺山千春はハンバーグプレートを前に、ふと手を止める。ソースのついたナイフとフォークを握りしめたまま、テーブルに置かれたスマホの画面を眺めていた。SNSのタイムラインには、元同僚の結婚報告や、学生時代の友人が子どもと映る写真が流れてくる。
「……十年、か」
気づけば三十二歳。新卒からがむしゃらに働き、昇進もした。だけど、その代償として、休日に食事をする相手も、連絡を取り合う友人も、ほとんどいなくなっていた。
ため息をつき、スマホを伏せる。食事に集中しようとしたそのとき、不意に真後ろの席から声がかかった。
「あの……すみません」
振り向くと、そこには見知らぬ若い女性がいた。近くにある大学にでも通っているのか、二十歳そこそこといった雰囲気。長い黒髪に、柔らかな笑顔。私は戸惑いながらも、曖昧に微笑み返した。
「はい?」
「あの……お一人ですか?」
「ええ……まあ」
そう答えると、彼女は嬉しそうに目を輝かせた。
「よかったら、ご一緒しませんか?」
奇妙な申し出だった。普通、初対面の相手にそんなことを言うだろうか? けれど、私の胸にはほんの少しの温かさが広がる。休日の食事を、誰かと共有する機会なんて、もう何年もなかった。
「……いいんですか?」
「もちろんです!」
彼女は無邪気な笑顔で、向かいにお盆を持ってきて腰を下ろした。真っ直ぐに私を見つめるその瞳は人懐っこいもので、つい無条件に心を開きそうなところを、怪しい勧誘やお金の無心かもしれないと理性で抑え込む。
「私、三沢彩花って言います。彩花って呼んでください。星花女子大学の二年生で、フランス文学を勉強しています」
彼女は予想通り大学生だった。私も通った星花女子大学の二年生。そうか、二十歳の女の子って私から見たら一回りも年下なんだ。そう実感すると、軽いめまいを覚えそうだった。
「寺山千春よ。三十過ぎたおばさんに何の用かしら?」
「そんな、おばさんだなんて。千春さんお綺麗ですし、大人って感じでまだまだお姉さんですよ。でも……」
「でも、なに?」
おだてられた後に否定の言葉が続くと、ちょっと身構えてしまう。だが、彩花が続けた言葉は私にとって、芯をくったものであった。
「寂しそうだったので、声をかけさせてもらいました」
傍から見た初対面の相手にすら寂しさが伝わるほどなのかと、思わず愕然とした。だからこそだろうか、彩花の言葉が水のように浸み込んでくるのは。
「もしお困りでしたら、話してくださりませんか?」
「え?」
「初対面の方が、かえって話しやすいかもしれませんよ」
その言葉に、私は不思議と頷いていた。確かに、どれだけ愚痴を吐いたところで彩花から誰か自分の知り合いに繋がるとは思えない。だったら、別に話したところで問題ないのではないか、そんな思いから私はこれまでのことを大まかにではあるが話した。
自分の食事はとっくに終わり、彩花も料理を食べ終えるまで、ずっと親身に聞き続けた。そして、コーヒーを一口飲むとそっと話を切り出した。
「私、実はちょっと特別な集まりに参加してるんです」
「特別な?」
「はい。自己啓発というか、精神の成長を目指す活動をしてて……千春さんにも、ぜひ知ってほしいなって思ったんです」
自分の中で少しざわめきが立った。自己啓発。精神の成長。どこかで聞いたことのある怪しい響き。けれど、彩花の瞳は真っ直ぐで、純粋な光を宿していた。
「今度、サークルの集まりがあるんです。よかったら、来てみませんか?」
断るべきだった。けれど、私の口から出たのは、まるで他人の声のような、意外な言葉だった。
「……考えてみてもいいかも」
彩花は、嬉しそうに笑った。
「じゃあこれ、私の連絡先です」
ファミレスのBGMは変わらず流れ、窓の外ではいつもと変わらぬ週末の景色が広がっていた。なのに私の世界だけが、ほんの少しだけ、違うものになったような気がした。
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