スタートラインのこちら側

和泉茉樹

スタートラインのこちら側

      ◆


 うーん、と目の前で唸っている男性の視線は薄い色のレンズの奥で曖昧だった。佐竹雪を見ているのか、見ていないのか。

 壁の一面が鏡張りで男性は鏡を背にパイプ椅子に座っている。立ってる雪の姿と一緒に同じアイドルグループのメンバーである三人の女性の姿が鏡に映っている。事務所の幹部と、マネージャーもだ。

 視線を動かしたい衝動こらえて雪は椅子の男性、アイドルグループ「QUEEN B」の音楽プロデューサーであるカンモトをじっと見た。作詞、作曲、編曲を一人で行い、QUEEN Bの最初のオリジナル曲のデモ版を完成させていた。

 しかし、歌う側はといえば。

「佐竹さんはボイトレには通っているわけだよね?」

 静かな問いかけに、雪の萎縮していた喉が「はい」と答えるものの声の張りはなかった。その事実に雪自身がショックを受けた。

 ボイトレに通っているのは事実なのだから堂々と答えられるはずなのに、カンモトの態度を前にすると自信なんて粉々に砕けていた。その事が返事一つに如実に表れていることに、雪は逃げ出したくなる。

 でも逃げる場所なんてなかった。

 それにここでやっていくと決めているのだ。

 決意と覚悟だけは、投げ出したくなかった。

「正直、もうちょっと努力しないと音源を作っても微妙かもしれません」

 淡々とカンモトが喋るのを雪は真剣に聞いた。

 いつからか、歌やダンスの指導の場で強い調子や強い態度をとる人はほとんどいなくなった。でも評価が甘くなったり妥協があるということではない。

 実際、カンモトは静かな口調ながら、はっきりと雪に対する不満を示していたし、選んでいる言葉が違うだけで「お前の歌は聴くに堪えない」と言っているのだ。

「ライブイベントに出るのはまだまだ早いとしか言えません。ライブは生ものなんて言いますけど、今の実力でライブに出たら、お客さんに悪い印象を持たれるかもしれませんね」

 室内の空気が少しだけ変わったのは、カンモトの指摘の対象が雪だけではなく他のメンバーにも向けられたからだ。張り詰めてピリピリした雰囲気の中でも、カンモトに変化はない。

「とりあえず、動画投稿サイトに音源をアップするのを目標とするのは変えないで、スケジュールも今のままにしましょう。二ヶ月後にレコーディング、ということです。それでいいですよね? 南波さん?」

 カンモトの視線が同席している事務所I.M.Pの幹部である南波に向けられた。

 言葉を向けられた南波は笑顔で応じる。ただ、どこか軽薄で、ヘラヘラした笑い方だった。

「それでお願いします、カンモトさん。曲も歌詞もアレンジも最高なんですから、しっかりとこちらも努力しますんで。もっとビシバシ四人を指導してあげてください。みんな素人なんですよ。あ、それは僕もか。ハハハ!」

 誰も一緒に笑わないし、カンモトもため息をついていた。

 カンモトが退室して身内だけになると、よーし! 南波が声を出して大きく一度、手を叩いた。

「今日のところはオーケーが出なかったけど、みんなもまだ結成から二ヶ月だし、これからだよ、これから! しんどいかもしれないけど頑張っていこう! 明るく楽しく元気よくだ!」

 はい、と雪たち四人が返事をするが、あまりにも弱々しかったせいだろう、南波のそばに控えていたマネージャーの桐山まりあが「返事ははっきりと!」と大きめの声を出す。

 今度は四人が「はい!」と声を揃えたものの、南波は不安そうに桐山の方を伺っていた。

 また見に来るよ、と言って南波が退室していくと、桐山が来週のスケジュールを確認した。事務所が手配してくれたレッスンや様々な打ち合わせの予定はかなり前から告知されているので、このスケジュール確認は念のために行われいるようなものだった。

 桐山が以前、「スケジュール管理の基礎を学んでください」と口にしたのを雪は覚えていた。スマートフォンなどの端末は全員が持っているし、ネット上での情報共有も簡単になったのでスケジュール調整も円滑に行われるのだが、それでも桐山はそれぞれが自分のスケジュールを自分で管理することを求めている。

 無駄なことだとは雪は思わない。

 自分のスケジュールを把握するのはもちろん、スケジュールをこなすことで自分が前進していると思えることもあるし、先のスケジュールが決まっていることで自分にはまだ未来があるとも思えた。

 桐山が一通りのことを話し終わると「今日は解散です。このレッスン場はあと三十分は確保されているので、有効活用してください」と言った。

 このレッスン場はもちろん事務所の持ち物ではなく、週に一度だけ借りているレンタルスペースだった。I.M.Pという事務所はまだ何も所有していないようなものだった。事務所と呼ばれるのは雑居ビルの中の狭いスペースで、もちろん賃貸である。

 もっとも、事務所といってもスタッフは共同設立者の幹部の男性三人と桐山しかいないし、所属するアイドルも雪たち四人だけだった。

 正確には雪たちはまだアイドルではない。世間にお披露目される前だった。

 この日はカンモトの前で歌声を確認してもらう前にメンバー四人で二時間ほど、ひたすらダンスのレッスンをしていた。ダンスの講師はまだ見つかっておらず、事務所の幹部三人の意見で既存のアイドルグループのパフォーマンスを再現しようとするのが、ここのところのレッスンだった。

 メンバー四人の中ではプライベート時に、レッスンのことを「踊ってみた」と呼ぶこともある。歌のレッスンも「歌ってみた」と呼んだりする。その辺りに四人が自分たちの曲が欲しい、自分たちだけの振り付けが欲しい、と強く思っていることが伺えた。

 桐山に対して四人で「お疲れ様でした!」と声を揃えて一礼し、桐山が部屋を出て行ってからまとめ役の大石さくらが「いっちょやるかぁ!」と大きめの声を出した。

 これはレッスン用にと桐山がくれた古いタイプの、しかし画面は比較的大きいタブレットで、最大音量で音楽を流す。この日はK-POPだった。日本とアイドル文化を二分していることもあってか、日本のアイドルのダンスとは一味も二味も違うのを雪はここのところ如実に感じていた。

 通信制の高校に通いながらアルバイトをして、同時にダンスや歌のレッスンを自費で受け、アイドル事務所のオーディションを受ける日々は、想像よりも難しく、しかし思ったより早く変化は訪れた。

 一年半ほどで、I.M.Pが佐竹雪を拾ってくれたのだ。

 実際には、雪はこの事務所の実態について知った時、かなり迷った。実績がないどころか、設立されたばかりだった。それもアイドル業界で長く活動した人物が独立したということですらない。

 なんと、大学のサークル活動の延長線上で作られた事務所だった。

 そんな事務所が長続きするとは思えなかった。最近では詐欺じみたことを行う事務所もあると聞くことがあるし、望まない仕事をやらされる可能性もあった。さすがに違法な仕事を強制されることはないと思うが、かといって希望の持てる事務所ではない。

 それでも雪が所属を決めたのは、アイドルとは何か、ということを、アイドル業界の外からではなく、アイドル業界の内側から見てみたかったからだ。

 自分が憧れた世界がどういうものなのか、雪は知らなかった。

 どれだけ調べても、それは輪の外側を丹念に調べているだけのことで、輪の内側に何があるかは、踏み込まなくてはわからない。

 事務所に所属すると決めて、実際に一緒に活動するメンバーと顔を合わせて、それからの二ヶ月はあっという間だった。

 雪のダンスは、ダンスのプロではないどころか経験があるかも不明な桐山に「なってない」と切り捨てられ、歌はカンモトに丁寧に否定されているのが現実だった。

 生活は学校、アルバイト、レッスンその他でぎちぎちに埋められて、寝る時間も短い。もちろん懐事情も余裕がなかった。その上で、ダンスも歌もダメ出しされては精神的にもきつい。

 それなのに予定だけは決まっていて、あと二ヶ月で初めてのオリジナル楽曲の音源を収録するという。その後は小さなイベントを開いてカバー曲を歌うことにしたい、と幹部の三人は考えているようだし、もちろん、更に先にはちゃんとしたライブイベントのステージに立って、オリジナル楽曲に振付をつけて、生で、お客さんの前でパフォーマンすることが目標として設定されているようだ。

 サークル活動の延長線上のアイドル事務所だとしても、活動しているのは本当の社会の中、アイドル業界の中の一角だった。

 歌えません、では済まない。

 踊れません、では済まない。

 そして、売れませんでした、誰にも気づかれませんでした、では済まないのだ。

 雪と同様に、他の三人もそれぞれに感じていることはあるだろうが、誰も逃げ出そうとはしない。それもやはり雪同様、アイドルというものに強い思いがあるからだと雪は解釈していた。

 K-POPアイドルの激しい踊りを一通り見て、二人ずつでペアになって踊る。鏡に映る自分と、タブレットで見たばかりの映像の動きをなんとかすり合わせようとする。

 どれだけ映像を見ても、それを再現するのはとにかく難しい。動きがぎこちなくなり、修正しようとして、それができずに今度は音から動きが置き去りにされて、途中からは踊れなくなる。

 動きを止めた雪の隣で、大石さくらはまだ余裕のある動きで踊り続けている。

 いたたまれない気持ちで俯きそうになるのをこらえて、少しだけ雪は離れてさくらのために空間を作った。そして曲が終わるのを待った。

 音楽が止まるのに合わせてピタリと動きを止めたさくらが数秒の沈黙の後、ゆっくりと体から力を抜いた。雪の方に手を伸ばすとポンと肩を叩くと「復習しよう」と笑顔を見せる。雪は頷き、控えている他の二人、雲野あかり、山内かえでとすれ違って鏡の前を譲る。あかりは雪を励ますためか、親指を立てて見せてくれたけれど、かえでは無反応だった。

 タブレットの元へ戻り、動画を再び再生する。

 近い距離からの爆音の中で、さくらと雪はタブレットを食い入るように見る。

 画面の中の二人組の動きは機敏で、さくらの動きはともかく、雪の動きとはまるで違う。

 ため息が漏れそうになって、なんとか飲み込む。ため息をついている場合ではない。

 鏡の方を見ると、あかりとかえでの踊りは違和感がほとんどないほど完璧だった。

 自分だけが取り残されていることを雪はもう何度目かわからないほど、思い知らされた。

 音楽が停止し、あかりとかえでが停止させた動きをゆっくりと解き、二人で意見を交換し始めた。雪にはよく聞こえないが、ダンスの細かなところをお互いに指摘しているらしい。これまでにもあったことだ。

 雪と一緒に踊るときにも二人は色々と教えてくれるけれど、少しずつかえでは口数が少なくなり、あかりはダンスの動き云々よりも励ましが増えていた。雪のダンスは二人からしても物足りないのだ。

「ゆきちゃん、こっちこっち」

 さくらが促すのにハッとして、雪はタブレットに向き直る。さくらが素早く音量を最小にして動画を再生して、身振りもつけて動きを解説してくれる。

 雪は集中して、動きを頭に入れて、実際に体も動かしていく。あと少しで完全に飲み込めそうな気がするのに、わずかな齟齬が起点になってそれ以降が全体的にわからなくなってしまう。

 その度にさくらが根気強く動きを教えてくれた。

 そんなことを繰り返しているうちに三十分は終わってしまう。結局、雪がこの日の踊りを完璧に再現できることはなかった。

 荷物をまとめて四人で部屋を出て、ビルの一階にある事務室に声をかける。書類にサインを求められたので、さくらが代表してサインした。

 外に出ると既に日は暮れて街灯が灯っている。空気はだいぶ冷え込んでいた。

 もう、十一月なのだ。

「じゃあ、お疲れ様。またね」

 ひらひらっと軽く手を振るとかえでが離れていく。「今度お茶でもしようねぇ!」とあかりが声をかけると、かえではドラマの中の登場人物のように振り向かずに手だけ振って、そのまま去っていった。

「カッケェー! あれは売れるな」

 そんなことをあかりが言うと、かもね、とすぐにさくらが応じる。

「あかりちゃんだって売れるんじゃない?」

「私が売れる? ま、それは売れると思うからここにいるんだけどさ。そう言うさくらちゃんはどうなん?」

「言わぬが花、って言葉もあるよ?」

「言わぬが花? 秘すれば花、じゃなく?」

 知ってるじゃない、とさくらが笑うのに、どういう意味か、あかりが万歳した。

 そんな二人を雪はすぐそばから見ながら、自分とは何かが違うとも思ったし、二人に近づかなくてはいけないとも思った。かえでにもだ。

 そのために何ができるのか、雪にはわからない。

 自分はどこへ向かっているのだろう。

 どこへ向かえるのか。

 何を頼りに?

「それじゃ、私も帰るよ。バイバイ」

 あかりが手を振るのに「お疲れ様」と応じてさくらが手を振る。雪も慌てて「お疲れ様でした」と頭を下げる。その肩にあかりが手を置くと「返事ははっきりと!」と言ってから、にゃははははと作ったような笑い声を漏らして背中を向けた。

「私たちも帰ろうか。駅まで一緒に行こう」

 促されるままに雪はさくらと一緒に最寄りの地下鉄の駅へ向かって歩き出した。

 しばらく二人とも無言だった。

「ゆきちゃんは、なんでアイドルをする気になったの?」

 不意なさくらの問いかけに、今までにそんな話をする機会もなかったな、と雪は気付いた。もちろん、事務所に声をかけられた時に話してはいるけれど、その場にはメンバーはいなかったかもしれない。

 もしくは、さくらは知らないふりをして、雪の気持ちを立て直すために初心を思い出させようとしているのかもしれなかった。

 雪は歩きながら、自分の憧れについて丁寧に言葉にした。それをさくらは小さく相槌を打つだけで、最後までほとんど黙っていた。そして雪が話し終わると、自分の話を始めた。

「私は前にやっていたグループが解散してね、QUEEN Bは二度目の挑戦なんだ。前にやっていたって言っても、地方のアイドルグループで、この通り、歌も踊りも平凡なんだけど」

「平凡って、私は、その……」

 今だけだって、とさくらが笑う。

「努力すればなんとかなる。私はそう思っているから、ゆきちゃんもそう考えて。ね?」

 そうする、と弱々しく答える雪に、さくらは小さく笑う。

「まだ何も始まってないよ。スタートラインに立ってさえいないんだから」

 うまく答えられないまま、雪は歩を進めた。

 憧れた世界は、想像とはあまりにも違うように感じる。

 それでもきっと、この世界を進み続ければ、憧れた場所に立てる。

 そう思えば、思えるうちは、頑張れる。

「来年の冬は」

 さくらが楽しそうに言った。

「きっと違う場所にいるよ」

 そうだね、と雪は応じた。

 一年後に自分が立っている場所が、少しでも夢見た場所に近ければいい。

 なんとかなる。

 きっと、なんとかなる。



(了)

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