蝉の踊り子

宇津見 那瑠

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 私が四歳か五歳のときには、何かと言えば泣いてしまう子だったために、苦労したと父は言う。

 そういう場合、大抵父はどうにか泣き止ませようとするが、結局嫌気が差してしまい、自室に行くことが多かった。しかし、母はそんな私を諦めようとはしなかった。

 母は「優子、少しここで待ってね」と、私を居間にある少し大きな椅子に座らせ、父と同じように何処かへ行ってしまった。そしてしばらくすると、華やかな衣装と派手な化粧、花柄の傘を持った母が部屋の襖から現れる。そして、少し私と目が合ったかと思えば目の前で傘を開き、くるくると回りながら踊って見せた。私は、何故自分が泣いていたのかすら忘れてしまうほどに、すっかり魅入ってしまった。そして、その踊りが終わる頃には、父は自室から戻ってきていたらしく、気づけば母に拍手をしていた。

 そして頷きながら、

 「いやぁ、やっぱりいつ見ても綺麗だよ」と言うのだ。

 その度に母は、

 「あら、お世辞でも嬉しいわ」と嫌味を込めたような言い方をするが、その表情は何処か満更でもない様子だった。

 その後に父が恥ずかしそうに、

 「理恵、もう少し続けてはくれないか」と言うと、母は少し頷き、その踊りを続けた。

 「優子、これはね、『まい』って言うんだ」

 そのときは、『舞』と呼ばれるものすら知らないどころか、友達の名前か何かだと思っていた。しかし、今思えばそのときの私にとって、特別なものであり、時間であり、幸せそのものだった。母が『舞』を始めた途端、私の視界には、満開の桜の木の下にいるような情景が映り、まるで昔の時代にタイムスリップをしているかのような気分にさせられたのだ。それは、どのような学者でも説明しきれない、魔法のような魅力を感じていたんだと思う。

 

 父は、本当は政略結婚だったと言った。

 私が高校に進学した頃、それについて詳しく教えて欲しいと頼むと、少し悩みながらも口を開いた。

 株式会社から独立した父は、当時新しく会社を設立し、経営状態を安定させるために必死だった。だからこそ、あまり結婚には興味がなく、寧ろ独り身の方が身軽だと考えていた。

 しかし、当時の新会社に対する風当たりは強く、銀行側は融資をするにあたり、非常に慎重だった。

 そのような中で、サラリーマン時代に良好な関係を築いていた地方銀行の経営者が、父のために融資をしたいとの連絡があった。その代わりとして提示したものが、娘との政略結婚であった。

 「私は今年で六十になるが、うちの娘は今年で三十になってしまう。このままでは、孫の顔を見ずにこの世を去ってしまう気がしてね。やれ、死んでも死に切れないのだよ。どうか、受け入れてはくれないかね」

 こうして、父と母は結婚した。

 そのために、最初はこれほどまでに仲良くはなく、ビジネスライクのような関係だったと、父は語る。

 「思っていたより身軽だったよ。でも、気になることはそれなりにあった」

 それは、母が父の数時間後に帰宅することだった。母方の父からは、仕事はスーパーのフルタイムで働いていると聞いていた。父は定時上がりで、遅くとも七時には帰宅していたため、尚更不思議に思っていた。しかし、その数ヶ月後にそれは明らかになった。

 会社の部下から、隣町の駅前で母を見かけたと聞いたからだ。父は気になりつつも、あまり詮索するのはどうかと思った。しかし、結婚しているにも関わらず、隠し事は如何なものかと思い、意を決して、母に問いだたしたのだ。

 初めは渋っていたものの、父が少し固い表情で、

 「私たちは結婚をしているというのに、それほどまでに隠すのは、浮気をしているからかい?」と言うと、母は首を激しく横に振り、自室に戻っていった。なんとも言えない感情だった。父は浮気の一つや二つ、気にするつもりはなかった。しかし、そうではないという母の素振りに

、尚更疑問に思った。

 そうして考えていたとき、向かい側にある母の自室が開いた。

 そこには、絢爛な和服に身を包み、顔には厚化粧を施した、和傘を持つ母がいたという。

 「申し訳ございません。隠すつもりはありませんでした。ただ・・・・・・この姿を見せるのに、少し躊躇いがあったんです」

 父は空いた口が塞がらなかった。まさか自分の妻がこれほどまでに、美しい格好をして現れるとは思わなかったからだ。

 「理恵さん・・・・・・その格好で、何を?」と恐る恐る父は聞いた。

 そう聞かれると母は和傘を開き、『舞』を見せる。

 ひらり、ひらりと袖が揺らめき、流すような目は真剣そのものであり、意志の強さを感じる。

 そうして舞うと、母はゆっくりと口を開いた。

 「実は・・・・・・父に隠れて、日本舞踊を習っていまして・・・・・・ただ人に見せるほどではないのですけれど、舞を踊る度、自分が生き生きしているような気がするのです」と父に言った。

 父は安堵と共に、初めて母に好意を抱いた。そうして少しずつ仲良くなり、二年後に私が生まれた。父母共に三十二の年だった。

 

 私を楽しませるため、少しでも悲しい表情ではなく、私の幸せそうな表情を見るため、母は様々な舞を見せてくれた。時には扇子を持ち、時には鼓を叩いた。一人の女性として、桜の木の根元で踊っているように見せる時もあれば、自分の旧友を弔っているように思わせる時もあったが、私にとって母の舞の全てが美しく、綺麗なものとして映った。

 時折、母は困った事態に陥った。舞に神経を注ぎすぎたのか、或いは元から体調が優れなかったのかもしれない。ある日、いつものように舞を見せていると、突然張り詰めた糸がぷつんと切れるように倒れた。父は大慌てで病院へ連れていった。原因は過労によるストレスだった。

 思えば、母はスーパーで働き、日本舞踊の教室にも欠かさず通い、限られた時間の中で、私を楽しませるために舞を踊っていた。母にとっては充実した日々であったが、身体は少しずつ、痛みとストレスで蝕まれていたのだ。

 こうして、母の入院生活が幕を開けてしまったのだ。

 化粧が無くとも、小綺麗だった母の顔は少しずつ窶れていき、目に見えて衰弱しているようだった。医師には、心原性によるものと言われていたが、私や父はそれ以外の要因があるのではないかと言及した。すると、医師が三日後に突きつけたのは、私達の想像していたよりも辛辣な現状であった。

 「理恵さんのお父様にお聞きしましたが、元々心臓が悪く、度々病院に通っていたそうです。その証拠にこの診断結果です。定期検査では、『不整脈』とありますが、おそらく心房と心室間の活動が上手くいっていなかったと思われます。単刀直入に申し上げますと、重度の心筋梗塞である可能性が高いと思われます。長く持って、一年ないかもしれません」

 このとき私が思ったことは、医師が不可解な言葉を話しているということと、母がもう舞を踊ることが出来ない事だった。

 もう、母に何を伝えれば良いのか、分からなくなった。そのうえ、一番悲しいのは父だ。私よりも生活を長く共にしていたにも関わらず、自らの蝕まれる身体に鞭打っていたことに気づくことが出来なかった。このとき、初めて父親が大粒の涙を流し、「悔しい」と嘆いた。

 「大丈夫…………まだ一年あるじゃない。泣いちゃダメよ、優子、貴方」

 母は細くなった手で私の頬を撫で、微笑みかけているが、一日一日過ぎていくにつれ、確実に衰えている気がした。

 学校にいても、母の心配は募るばかりだった。今日はどのくらい衰えるのだろうか。あとどのくらいの命なのだろうか。いっそのこと、短命ならば自宅で最期を迎えさせてあげた方が、賢明ではないだろうかとも考えた。

 自宅に帰ると、その日から父は「今日も、病院へ行こう」と言って、私を病院へ連れて、母のところへ訪れた。母はその度に私や父を励ましてくれた。本当は私や父が必死に元気づけるべきにも関わらず、何もすることができないもどかしさと苦しみに、微笑みかけることしか出来なかった。

 

 学校の授業中、担任に呼び出された。何か悪いことでもしてしまったのかと思ったが、そうではない。悪い予感がした。そして、それは見事に的中した。

 校門前に父の車があり、大至急病院へ向かった。

 

 

 

 

 もう、遅かった。

医師は長く持って一年、と言っていた。

 

 

 それはあくまでも可能性だったのだ。

 

 一週間だった。あっという間だった。病床であんなにも励ましてくれていた母の顔は、白い布で隠れていた。まだ夏が始まったばかりだというのに、母の身体は青ざめ、冷たかった。外では蝉が活発な声で必死に鳴いていた。

 病気が判明し、蝉と同じ日数で死んでしまった。もう少し早く気づいていれば、母は生きていたのかもしれない。しかし、その思いは私をより後悔の闇に沈めるようなものだった。

 

 あれから、二年が経とうとしている。私は今、母の舞を思い出しながらも、母が身命を賭してまで打ち込んだ日本舞踊に興味を持ち、母が教わっていた教室で学んでいる。楽しいことばかりでは無いのは確かだ。しかし、努力が報われたのか、美術大学の推薦入試に受かることが出来た。父は泣く勢いで喜んでくれた。私も久しぶりに泣き叫んだ。

 これから、母が上がることのなかった舞台で、私が踊る日が来るのだ。

 その度に、私はあの時の蝉を思い出す。母と同じように、必死に私を元気づけているような、それだけに命を注いでいるような鳴き声に、私は和傘を閉じ、教室への道を歩き出した。

 

 

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