初めてを、あなたに

 金が必要になった。それなりの金額だ。

 大介が釈放されるまでずっと一人で待ち続けていたリサに、部屋に帰るなりそう告げた。リサは大介の目を真っ直ぐに見つめた。大介は目を逸らした。

「稼ぎ方を教えてくれる人がいる。明日、紹介する」

 視界の隅でリサが小さく頷くのが見えた。

「大介さん。最後に一つだけ、お願いがあります」

「何だ」

 リサは覚悟を決めたように顔を上げた。

「初めての相手は、大介さんがいい」

「バカ言うな。俺はお前みたいな小娘は……」

「望みを叶えてくれないなら、逃げます」

 逃げられるわけ、と言いかけて、大介は言葉を飲み込んだ。リサはこれから自分の身に起る事を正確に理解しているようだ。そして大介は、そんなリサが自分に対してどんな感情を抱いているのかに気づいていた。ずっと見ないフリをしてきたけれど。

 いつかは来ると分かっていた別れが迫って来た。どこの誰とも知れない男たちにけがされる前に、リサの想いを受け止めてやるべきではないのか。だが、大介にはそれを躊躇わざるを得ない理由があった。俺にはその資格がない。いや、それどころか、リサにとって俺は……。

「大介さん!」

 ぼんやりと考えを巡らせていた大介に、リサは不意打ちのように抱きついた。肌で感じるリサの温もりが、柔らかな体が、そして、じっと見つめる潤んだ瞳が、熱い吐息が。頑なに凍り付いていた大介の秘めた思いを、ついに溶かした。

 大介の腕の中にいる間、リサは一度も涙を見せなかった。されるままに身を委ねながら、大きな体にしがみついて離れまいとした。そして最後に、ありがとう、と囁いて、眠りについたフリをした。

 翌朝。大介とリサは言葉を交わす事もなく、俯き加減に町を歩いた。

 ふいに足を止めたリサの視線の先、ビルの隙間に、口の開きかけたゴミ袋が投げ捨てられていた。

「私たちが初めて会ったの、ここだったね」

 大介は堪らなくなったようにリサの方を向いた。

「なあリサ、俺と」

「だめ。そんな事できないって分かってるでしょ。私たちなんかが幸せを望んじゃいけないんだよ」

「俺はそうかもしれない。でも……」

「家出娘なんて、どっちみちこうなるしかなかったんだから。少しの間だけでも夢が見られて、私、幸せだったよ」

「俺もだ、リサ。クズのような人生だけど、お前の笑顔を見ている間だけは、生きている喜びに本気で心が震えるんだ」

「大介さん。私が笑えたのは、あなたがいたからよ。だから……笑って送り出してよ。そしていつかまた、会いましょう」

 無理やりにでも親元に帰してやるという選択肢もあったはずだ。そうすれば高校を卒業できただろうし、危険な組織に目をつけられる事もなかったかもしれない。だが、リサが傍にいる生活を手放すという決断ができなかった。その不甲斐なさが招いた結果だ。

 仲介業者、と呼ばれる男がいるのは、なんの変哲もない五階建てのオフィスビルだ。大介はここに何十人もの女を連れてきた。泣きわめこうが無言で抵抗しようが容赦はしなかった。

 受付に座る中年女性は大介とリサを見て、何も言わずに会議室に案内した。

「ほう、噂通りの上玉だ。よくも今まで隠していられたものですね、ヒグマさん」

 仲介業者はリサを一目見て、相好を崩した。「たっぷり稼いでくれそうだ」

「同席してもいいか」

「もちろんですよ。しっかり別れを惜しんで下さい」

 大介とリサは簡素な会議テーブルの前に置かれたパイプ椅子に並んで腰を下ろした。仲介業者と向かい合う。

「リサさん、だったかな」

「はい」

「たった一つの基本さえ忘れなければ、問題なくこなせる仕事だよ」

「それは、何ですか」

「心を込めてお客様に奉仕する。それだけだ」

「あの、具体的にはどうすれば」

 不安を隠せないかすれた声で、リサは尋ねた。

「詳細なやり方は店の者が丁寧に教えてくれるから心配いらない」仲介業者は椅子に背を預けて軽く息をついた。「最初はみんな戸惑う。恥ずかしさに身をすくめもする。そりゃそうさ。でも、そのうち何も感じなくなる。アルバイトの店員がハンバーガーを渡して代金を受け取るのと何も変わりはしない」

 しばらく説明が続いた。リサは黙って頷いていた。

「それじゃあ、商品のチェックをしようか」

 リサは仲介業者の意図するところを理解したようだ。表情を硬くして、部屋の隅の小さなベッドに視線を送った。

「今ここで、ですか」

「そうだよ。相手が誰でも、いつでも、それができないようじゃ務まらないからね」

 リサはゆっくりとその場で立ち上がって、誕生日の記念に大介が買ってやった水色のカットソーの裾に手をかけた。指先が震えている。それを見つめる仲介業者は無表情だ。

『ねえ、大介くん』頭の中に声が響いた。だが姿は見えない。仲介業者の後ろにある棚に飾られた秋影人形の、紅い瞳が大介を見つめていた。『あなたを信じた少女の人生を、こんな形で壊してしまっていいの?』

「うるさい!」

 突然、大介が大声を出したので、それまで余裕を見せていた仲介業者の男が、ビクリ、と体を震わせて椅子から落ちそうになった。

「な、なんですか、ヒグマさん」

 アトリプスの声は、大介以外には聞こえていないようだ。

「悪い。ちょっと居眠りをしかけたようだ。寝言だから気にしないでくれ」

「勘弁して下さいな。それでなくてもあんたは怖いんだから」

 仲介業者の男は、胸を押さえて荒い呼吸を繰り返した。

『その子、君が組織から残酷な扱いを受けるのを防ぐ為に自分が犠牲になろうとしている』

『分かってる。でも、どうしろと言うんだ』

 大介は心の中でアトリプスに語りかけた。

『それは君が決める事よ。どうしたいの?』

 ――ヴェーレ・ダイネ・ツークンフト――

 リサのカットソーは胸の辺りまで捲り上げられた。白く滑らかな若い素肌が眩しい。仲介業者は顔を近づけて、品定めするように凝視している。

「待て」

 がらんとした殺風景な会議室に、大介の重い声が響いた。低く抑えられているが、何者にも逆らう事を許さない意思の強さを感じさせた。

「行くぞ」

「大介さん?」

 リサは、何が起こったのが分からない、という顔をして大介を見た。

 大介はいきなり立ち上がった。その勢いでパイプ椅子が後ろに飛んでいって、安っぽいパーテーションが派手な音を立てた。

「来い」

 リサの手を掴んで走りだす。

「え、何?」

 戸惑いながらも、リサは大介に従った。

「おいおい、逃げ切れるとでも思ってるのか、ヒグマさん。あんた、死ぬぞ」

 半分笑ったような男の声が背中に聞こえた。

 階段を駆け下りて外に出た。そこへ、二人乗りのバイクが走ってきて停まった。

「あ、ヒグマ兄さん。お疲れさ……」

 最後まで言わせずに大介はヘルメットを奪い、リサに被せた。自分も後ろに乗っていた男が震えながら差し出したものを装着した。

「乗れ」

 リサがタンデムシートにしっかり跨がったのを確認するやいなや、エンジンの甲高い唸りと魂を削るようなスキール音と共に、大介はバイクを急発進させた。

「どこへ行くの!」

 リサがヘルメットを接触させて叫んだ。

「お前の実家だ。母親がいるだろ!」

 大介も叫び返す。

「なんで私の家を知ってるの!」

 大介は答えない。ミラーを気にしている。

「組織はどこまでも追って来る。でも、普通に生活している市民には手を出しにくい。捜査をする大義名分を警察に与えてしまうからだ。家出娘が狙われるのはそういう理由もある。既に消息を絶っているから、何があっても足がつきにくい」

「理屈は分かるけど」

「お前は元の生活に戻れ。俺はなんとしても逃げ延びて、時期を見て迎えに行く」

「本当に? 本当に来てくれるの?」

「もちろんだ」大介はヘルメットの中に表情を隠して頷いた。「やつらの手の内は分かっているからな」

 本当は、実家に逃げ帰ったリサに組織が手を出さないという確信はなかった。メンツを何より気にする業界だからだ。舐められたら負け。そして大介が逃げ切れる確率はもっと低い。だが今は可能性にかけるしかなかった。

「帰るんだ、あの町に」

 帰るんだ。俺は、帰るんだ。

「大介さん、車が何台も凄い勢いで迫って来るよ!」

 250ccクラスのバイクは一人で気ままに転がすにはちょうどいいかもしれない。だが、タンデムで逃走するのには向いていないようだ。パワーが足りない。あっという間に追いつかれた。

 前に出た車が進路を塞ごうとする。だが、機動力ではバイクに分がある。かわして横をすり抜けた。しかし、そんな小手先のテクニックがいつまでも通用する相手ではない。やがて左右を挟まれた。ゆっくり幅寄せして来る。前も押さえられた。そしてもちろん、後ろからも迫って来る。ぶつけられて横転炎上。あるいは捕らえられて……いずれにせよ、命はない。

 ここまでか。悔しさが腹の底から込み上げた。俺は、女一人守る事もできないのか。

 その時、バタバタという風切り音が頭上に降りて来た。遠く響くサイレンも聞える。上空のヘリに誘導されているのだろう、迷いのない勢いで何台ものパトカーが突進して来た。偶然にしてはタイミングが良過ぎる。まるで、ずっと見張られていたかのようだ。

 追跡者たちは微塵も迷う事なく、さっと脇道へ散っていった。見事な手際だ。たぶん、あいつらだな。元仲間の顔を思い浮かべながら、大介はバイクを停めてヘルメットを脱いだ。

 大介はその場で逮捕された。リサは女性警察官によって少し離れた所に連れて行かれて何か訊かれている。予想とは違う形になったが、とりあえず、リサの安全は確保された。

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