牢屋に入っている間に、妻を寝取られました
眠そうな目をしていた虎潟が、ふいに表情を改めた。
「決心はついた、という事かな」
勝高も神妙な顔で頷いた。
「雅」勝高は雅の方に向き直った。「君は実の父を裏切る事になる。それでもやるか?」
「父は才能に溢れたあなたを自分の懐に収めておく為に私と結婚させた。でもあなたと共に暮らすうち、徐々に心惹かれていく自分に気づきました。だから父を裏切る事になろうとも、あなたが思いを遂げる手助けをしたいと思います」
「ありがとう、雅。俺にとっても、君と過ごした時間は決して嘘ばかりではなかったと、躊躇いなく言える」
雅は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑みながら頷いた。
「そして虎潟さん。あなたも、次期首相に最も近いと言われる男の側近という立場を失う事になる。それでも雅と咲奈を守ってくれますか」
「もちろんだ。任せてくれ」
「咲奈は愛奈の大切な妹です。愛奈と菜奈の命を奪われてなお、俺は政治家になるという選択をした。それなのにその夢は潰えた。だから、せめて咲奈にだけは幸せになって欲しい。それが今の俺にできる、本気で愛した女に対する唯一の
虎潟は力強く頷いて、脇に抱えていたノートパソコンを開いた。少し操作したあと、顔を上げて勝高の方を向いた。
勝高は十二桁の文字列を一つずつ区切って明瞭に発音した。それを入力し終わった虎潟は緊張の面持ちで画面を見つめた。その顔が、さっと明るくなった。
「これですべてうまくいく。すべてだ」虎潟は満面の笑みを浮かべて拳を突き上げた。「戎谷くん、君がパスワードと時限式ロックを併用していると知った時は気が遠くなったよ。でも、四年待った甲斐がある。もう2016年になってしまったけど、ようやく、この時が来た」
「予想より刑期が長かったせいで俺はまだ出られない。自由の身になるまでの間、雅と咲奈の事をよろしくお願いします、虎潟さん」
「ん? なんの事かな」
勝高は腹の底に冷たいものが重く落ちていくのを感じて眉を寄せた。
「俺が掴んでいる限りの、権堂先生の周辺にある不正の証拠をたった今、渡したでしょう? それを武器に、二人を守る約束ですよ」
やれやれ、という顔をして、虎潟は吐き捨てるように言った。
「超強力な兵器を手中に収めた今となっては、君に義理立てする理由は一ミリもないんだよ。親友の孫だからって権堂先生にえこひいきされた、クソ生意気な若造め」
「必ず二人を守ると約束してくれたじゃないか!」
パイプ椅子から立ち上がりかけた勝高の肩を看守が押さえつけた。
「だからさあ」うんざりしたように息をついて、虎潟は首を振った。「僕にとって、その約束を守る事には何の意味も無いんだってば。既に握ってる情報と合わせれば、確実に権堂を落とせる。下賎な女の妹がどうなろうと知った事か」
「あなたが何をしようとしているのかはどうでもいい。頼む、頼みますよ、虎潟さん」唇を震わせながら、勝高は深く頭を下げた。「咲奈に何かあったら、愛奈に顔向けができない」
「情けない。かつては権堂ファミリーの若きエースと呼ばれた君が、義理の、いや、義理ですらない愛人の妹の為に、ガミガミうるさく言った先輩に頭を下げるのか」
「あなたには本当にお世話になったと感謝しています。キツい言葉の裏側に優しさを感じた。俺を厳しく、だけど温かく見守って育ててくれた」
虎潟は動揺したように勝高から目を逸らした。
「……見たくなかった。見たくなかったよ、戎谷くん、君のそんな姿は。がっかりだ。僕を追い越そうとしてギラギラしていたあの目は、何だったんだ」
頼みます、頼みます、雅と咲奈を……。
勝高は、うわごとのように呟き続けている。
「しょうがない。それじゃあ、半分だけ望みを叶えてあげるよ」
「半分?」
虎潟は勝高の目の前で、隣に座っている雅を抱き寄せて口づけた。雅はまったく抵抗しない。それどころか熱い息を漏らして虎潟にもたれかかった。勝高はそれをぼんやりと見つめた。
「なにしてるんだ? 雅」
「あなたって本当に鈍いのね、勝高さん。……涙が出そうよ」
「お乗り換えはこちらです」
陽気に鉄道アナウンスのまねをして、虎潟はもう一度、雅に口づけた。
「雅、さっきの言葉は嘘だったのか」
「パスワードを聞き出す為の演技に決まってるでしょ」雅は唇をキツく結んで床を見つめた。その視線は、何かに
「女神? なんの話だ」
「なあ雅。ついでだからあれも教えてやれよ」
「そうね、
もはや一言も発する事ができずに勝高はうなだれた。
「政治家という未来を選んだのは失敗だったねえ。君みたいな甘い男が勝ち抜ける世界じゃないんだよ。女神さまの選択肢から、僕はどうやら正解を引いたようだけど」
「ちょっと待て。虎潟さんまで女神って、いったい……」
「さようなら、私の……
虎潟と雅は身を寄せ合うようにして静かに去っていった。その後ろ姿はヒロシと肩を並べて遠ざかっていく愛奈と重なって見えた。
数日後。政界の巨人と怖れられ、あるいは慕われていた権堂正宗の突然の引退が報じられた。権堂が守り続けてきた萌浦市の政治的地盤は政策秘書だった虎潟剣司が引き継いだ。
だが、勝高がその知らせを聞く事はなかった。
看守が耳にした戎谷勝高の最後の呟きは、なぜだ、なぜ勝てない、だったという。
その時、悲しげな女の笑い声が、暗く冷たい牢獄内に響いたと噂されている。
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