仮面舞踏会の終わりに

 クラシック音楽と出会えた事に予感のようなときめきを感じながら優翔は帰路についた。僕は見つけたのかもしれない。自分がやるべき事を。

 ただ、莉子がいなくなった事が気になった。いつ、どこへ行ったんだろう。すっきりしない気分で莉子の事を考えながら歩いていた優翔の前に、人影が立った。

「莉子ちゃん?」

 三時間ほど前にスイカを切ると言って優翔の前から立ち去った時のままの姿で、莉子はそこにいた。

「クラシック音楽の面白さを知ってもらえたようで、よかった」

 莉子は温かな笑みを見せた。

「……嘘だ」

「何が?」

「お前は誰だ」

 優翔は身構えた。

「莉子だよ?」

「違う」

「どうしてそう思うの?」

「分からない。でも、お前は莉子ちゃんじゃない」

「何言ってるの、私は……あっ」

 黒かったはずの莉子の髪が一瞬で水色に変わり、秋影あきかげ連邦共和国の夏に特有とも言える湿った生温かい風に揺れた。すっかり暮れた薄闇の中に浮かんだ紅い瞳が真っ直ぐに優翔を見つめている。

「七年ぶりね。ますますかっこいい男の子になってきたじゃない。私と永久とわの……」

「断る」

「最後まで言わせてさえくれないんだ」

 アトリプスは拗ねたように頬を膨らませた。

「さっきの姿は何だ。莉子ちゃんにそっくりだったけど」

「莉子にマスカラーデしていたの」

「何だよそれ」

「女神の能力の一つ。本来は仮面劇とか仮面舞踏会、っていう意味なんだけどね。この場合は、誰かに変装して何かする、って感じかな。要するに、他人になりすます事ができる」

「たしかに、見た目は間違いなく莉子ちゃんだった。でも、そうじゃないと分かった」

「心に秘めた莉子への想いが、それだけ強いという事なのかもしれないね」

「何言ってるんだ。莉子ちゃんは従姉だ。そういう感情は……」

「無い、と言えるの?」

 優翔はしばし口を閉ざした。

「……分からない」

「君自身でさえはっきりと認識できない程に、淡い恋なのかな」

「何だか知らないけど、もうちょっと頑張れよ。バレたとたんに、マスカラーデだっけ? を解いてしまうなんて、お前らしくない気がする」

「……解いたんじゃない。解けてしまった」

 アトリプスの顔から笑みが消えた。俯いている。

「なんだよ、それ。よく分からないな」

「それに関して今、言える事は一つだけ。私は存在する人物にしかマスカラーデできない。もし……」

 暗い予感が優翔の腹の底に重く落ちた。急に喉が渇くのを感じて唾を飲み込もうとしたが、うまくいかなかった。

「……莉子ちゃんに何が起こった?」

 低く抑えた声は、かすれていた。

「もし、マスカラーデしている人物の存在が消えたら、その時は」

「莉子ちゃんに何が起こったのかと訊いてるんだ!」

 夏の夜の住宅街に優翔の声が空しく響いた。月は出ていないが、ブリキの傘を被った電灯が所々に立っていて、ひび割れたアスファルトの道を暗く照らしている。

「死んだ。間違いない。だから私は莉子のマスカラーデを維持できなくなった」

 莉子ちゃんが、死んだ?

 足が震えて体が崩れ落ちそうになるのを、優翔は辛うじて堪えた。

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