モブは忙しいんです
重い梅雨が明けきらない六月半ばの日曜日。卓球の春季トーナメントが開催された。
前年度末の時点で一年生として唯一レギュラー入りを果たしていた勝高は、四人の上級生たちと共に出場するはずだった。だが、そのポジションは杉下に奪われた。レギュラーを外された勝高は、サポートという名の雑用及び応援要員として参加した。
会場の通路を歩いていると、こんにちは、と挨拶をされた。自信のなさそうな
彼女のユニフォームには名前が記されていない。つまり試合には出ない。それなのにユニフォームを着ている事が哀れに思えた。だがそれは、勝高も同じだ。レギュラー入りしていたが故に、勝高のユニフォームにはしっかりと名前が入っている。それがなおさら惨めに思えた。
少女の放つ雰囲気に、なんとなく覚えがある気がした勝高は記憶を探った。だが、引っかかる人物はいない。勝高は少女を無視して立ち去ろうとした。
「あの」少女はもう一度声をかけてきた。「挨拶をされたら返すのが礼儀じゃありませんか」
そう言われて、勝高はやむを得ず足を止めた。
「何ですか。忙しいんですけど」
「忙しいですよね」清純さを感じさせる風情でそう言うと、少女は顔を上げた。そして、悪魔のように冷たい声を勝高に投げつけた。「だって補欠だから」
「それがどうした」
思わず叫んだ勝高を怖がりもせず、少女は唇の端を少し持ち上げて薄い笑みを浮かべた。
「いいの?」
「何が」
「このままでいいの? レギュラー、盗られっぱなしになるよ」
さっきまでとは別人のように、少女は明瞭な声でそう言った。
「関係無いだろ。お前誰なんだ? なぜ俺に喧嘩を売って来る」
ふ、と息をついて、少女は横を向いた。
「そっか。気づいてくれないんだ。でも、別に君に構って欲しいわけじゃないんだからね」
ちょっと拗ねたようなその表情を見た時、勝高の胸にチリチリと焦げるような感覚が走った。
「お前、もしかして……」
少女の目が紅く輝いた。黒かったはずの髪が水色に染まり、艶やかなロングヘアーとなってさらりと揺れた。イタズラっぽい光を宿した瞳が勝高を見つめている。女らしい豊満なダイナミクスを纏った胸は、ユニフォームに締め付けられて苦しそうだ。
「お久しぶり。女神さまだよ」
アトリプスは笑顔を浮かべて、右目の前で横向きのピースサインをして見せた。
別人に化けたアトリプスが現われた、と大介と優翔から聞いてはいたが、実際に目の当たりにすると、驚きと共に懐かしさを覚えた。
「何やってるんだ、こんな所で」
「何、って。モブだよ?」アトリプスは肩に掛けた大きなバッグを見せた。勝高のものと同じく、楽指第七中学校の校章がプリントされている。「君と同じ」
「お偉い女神さまが、なんでモブってるんだよ」
「分かってないなあ。神ってね、古今東西、とんでもない数が存在するの。特に最近は、一般人の中からお手軽に神が湧いたりもするようだしね。だから当然、ザコ
「自分でザコって言うの、何だか痛々しいぞ」
「それじゃあ、君はどうなの」
「俺?」
「優れた才能がありながら、ちょっとした不運で雑用係に甘んじてる」
「しょうがないじゃないか。俺より強い奴がいるんだから」
「つまりは、その子がいなくなればいいわけでしょ?」
意味深な笑みを浮かべたアトリプスの言葉に、勝高は一瞬、言葉を失った。
「……何言ってるんだ。杉下はレギュラーだぞ? 退部なんかするわけがない」
「しないなら、させてしまえ、ホトトギス」
歌うようにそう言って、アトリプスはウィンクをした。
「はあ? 歴史の授業で習ったような言葉だな」
「勝ちたいんでしょ」アトリプスは、ふいに表情を引き締めた。「いいえ、あなたは勝つ事を運命として選択した」
「そうさ、勝ちたいに決まってるじゃないか。でも、試合に出る事すらできない」
「負けっぱなしの自分を受け入れる、と?」
「でも、他に何ができるんだよ」
「でも、でも、でも。デモは管轄する警察署長の道路使用許可を取らないと捕まるよ。あと、ヘイトスピーチはダメ、ゼッタイ」
「からかうのはやめろ。消えてくれ」
「ええ、消えますとも。でもその前に。おっと、私も、でも、って言っちゃった。あはは!」
脳天気に笑うアトリプスを、勝高は、ぐらぐらと湧き上がる殺意を込めて睨みつけた。
「用があるなら、さっさと……」
「はい、どうぞ」
アトリプスは何かを差し出した。勝高は反射的に受け取った。
「何だ、これ?」
「用法用量をお確かめの上、正しくお使い下さい。ちなみに、即効型です」
手の中の物を見た勝高の頬が引きつった。
「おい、まさか……」
「さすがね、勝高くん。もう私の意図を読み取ったわけだ」
「自分が勝つ為に他人を
「勝つとはつまり、敵を打ち負かすという事。戦いよ。きれい事じゃない」
「だからといって」
「ねえ勝高くん」アトリプスは誘惑するかのように優しく語りかけた。「自分が勝者にならなくていいの? 敗者のままでいるつもり? 大切なものを守れない弱い男で君は満足?」
大切なものを守れない弱い男……。
ゆっくりと背を向けて去かけたアトリプスに、勝高は慌てて声をかけた。
「待て。こんなものを使ったら……」
「もう一度言う。勝ちたいなら、それなりの選択をする事ね。勝つ男になるか、負け犬のままでいるか」
――ヴェーレ・ダイネ・ツークンフト――
呪文のような言葉を深く残響させて、アトリプスは陽炎のように揺れながら消えた。
「あなたの未来を選びなさい、か」
一人取り残された勝高は手の中の物をじっと見つめた。
勝て、勝ちつづけろ勝高。勝たないと負けるぞ。負けたら負けだ。
たまに家に来ると、父はそう言って勝高の両肩を掴み、真っ直ぐに目を見つめた。
勝たない人生に意味は無いのだ、お前を信じてくれる大切な人たちを守れる男になれ。
今の自分は杉下にレギュラーを取られた負け組だ。だが、もしもまだ逆転のチャンスがあるのなら。
勝高は肩に掛けていたバッグを下ろしてファスナーを開いた。中を覗き込む。一本のボトルを選んで引っ張り出した。
俺は勝ちたい。いやそうじゃない、勝たなきゃ。俺は勝たなきゃ。カタナキャ……。
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