稲田志木
ムラサキハルカ
手紙
顔がいいというのが第一印象でした。
キリッとした目に高い鼻、かたちのいい唇に細さを感じさせる
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初対面、というのはやや不適切だったかもしれませんね。おそらく、志木さんは私のことを認識していなかったので、正しくは私が自分の家の近くの公園で志木さんを見て顔がいいと思っただけです。
それからすぐに後を着けました。個人的な予定もあったのですが大事の前の小事でしかないため、些細なことです。
彼女は背筋をピンと伸ばしたまま早足で進んでいきました。時折、曲がり角などで見られる横顔は常に不機嫌そうで、なにか嫌なことでもあったのかなと思ったものです。
程なくして、私は彼女が少し古びたマンションに飲みこまれていくのを目撃したあと、なるべく目立たないようにと近場の茂みに身を隠しました。その場に暗くなるまで留まったあと、彼女が出てこないことを確認してから、おそらく住んでいるないしは同居人かなにかがいて泊まりに来ているのだろうと当たりをつけました。とはいえ、この時点ではあくまでも推測の一つでしかありません。なので、より彼女に対する情報の確度をあげなければなりませんでした。
とにかく、彼女のことを知らなければという衝動に突き動かされていたのです。
◆
幾度かの現地調査を重ねて彼女が件のマンションに住んでいることを確定させました。稲田という苗字と部屋番号が503であるのを知ったのもその時です。
ここでようやく一息、というわけにはいきません。まだ、住所をたしかめただけに過ぎません。もっともっと知るべき事柄は山ほどあります。
年齢、職業、趣味、交友関係。私はまだまだなにも知りません。
とは言え、私には私の生活があったため、全てを費やすというわけにもいきませんでした。だからといって、妥協する気は一切ありません。
休みの日は望遠鏡を片手に、彼女の後を着けることにほとんどを費やしました。そこで彼女が大学生であり、さして人付き合いをせず、ただただストイックに講義を受けているのを知りました。少なくとも私が多くの学生に紛れて受けられる大教室においては、この態度が変わることはありませんでした。
余談ではありますが、大教室というのは人数にも寄りますが、多くの学生がいい隠れ蓑になってくれるため、彼女にもとても近付きやすく、私は二つ後ろの席からノートをとるふりをしながら、その綺麗な項を覗きこんでいました。芸術品のごときそれは未来に残すべきだと思いつつも、盗み見ることが人生の楽しみの一つになりつつありました。
◆
それから半年ほどの間、依然として学生のふりをして大学に通う傍ら、彼女のマンションの部屋の合鍵を作り忍びこんで(生活サイクルを知っていれば容易いことでした)盗聴器や隠しカメラを仕掛けたり、金を握らせた何人かを経由したうえで大学関係者からより身近なことを聞きだしたりして、より多岐に亘る情報を得ることに成功しました。
稲田志木。大学二年生(当時)。大学では東洋哲学を学んでいる。数少ない知人に話したところに寄ればゆくゆくは教授になるのを夢見ているとのこと。県を跨いだところに住む家族は父の
まだまだ語りたい情報は山ほどありますが、概要はこんなところでしょうか。この時点で未知の領域はたくさんありましたが、私は志木さんの形をなんとなく掴めたと自らを納得させました。そうなれば、次のステップに進む必要がありました。
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尾行と監視は継続。その上で、私は彼女の一挙一動を頭に叩き込んでいきました。仕草や表情、声の出し方……そうした一つ一つをよく観察し続けたあと、今度は体に馴染ませていきます。自らの体をあらゆる角度からカメラで確認し、志木さんの動きと寸分違わなくなるまで繰り返していきました。更に並行して彼女の頭の中にある情報も極力再現しようと試みました。具体的には学んでいる東洋哲学をはじめとし、家のテレビから仕入れる情報、実家との交流の際に話している事柄などから、頭の中にあることを予想していきます。まるきり同じ思考をするなど不可能だろうという固定観念を押しのけつつ、稲田志木という個人が持つ考えを完璧になぞろうと考えました。そうこうしている間も、新たな彼女の情報は積み上がっていき、昨日とは違う側面が見えてはまたリテイクをする。賽の河原で石を積み上げるような気の遠さを感じつつも、止める気には一切なりませんでした。どうしても、成し遂げたかったからです。
そして彼女の動きを再現しようと模索して半年ほど。私は稲田志木という人間の要点を掴みつつありました。講義中に見せるノートを見据える目、入浴の際の弛んだ頬、普段歩いている際の背筋の伸び方。何度も確認し、彼女と同じようになったと確信を深めました。動きの再現ができると、彼女の動きの起こりからこれからどのようにふるまうかもかなりの精度で予測・実行が可能になります。それは喋りに関しても同様で、尾行や盗聴の時に何をどのように話すのかも九割方当てられるようになりました。あと一息。あと一息で望みが叶うのだと自らに言い聞かせながら、より一層の精進に励みました。
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それから一年以上が経った後。志木さんが今通っている大学の院に上がるのを決めた頃、彼女をなぞる作業もほぼほぼ完璧なものになった……そう受けとめたあと、私は望みを実行に移しました。
彼女をなぞる作業以外の時間、働きに働いて貯めこんだ金と両親の遺産――これらを体を望む形にするために費やしました。短かった手足を長くし、身長を底上げし、股の間にあるものを取り外したうえでまた別のものを股の間に埋めこみ、ホルモン注射を行い……そしてもちろん、顔かたちを変えました。
手術明けに鏡を見て、キリッとした目に高い鼻、かたちのいい唇に細さを感じさせる面、を確認し、満足を深めました。
あこがれにあこがれた、稲田志木がそこにいました。
◆
以上が私が志木さんになるにいたった過程です。ですが、まだ一つ、やらなくてはならないことがありました。私が志木さんになった以上、この世に稲田志木は二人いることになります。そんなことは到底、許されません。本物は一人なのだから。この矛盾を解消するのはあまりにも容易いことでした。
稲田志木としての全てが完璧であると確認した翌日、私は大学から帰ってきた志木さんをマンションで待ち構え、近所で拾った大きな石で彼女の後頭部を打ち抜きました。誰よりも稲田志木の体を理解している以上、無力化するための術も手にとるようにわかります。その後は動かなくなった彼女の顔をぐちゃぐちゃにし、両手両足の指紋を潰したあと、体をいくつかに切り分けました。
そして、稲田志木だったものを袋詰めにして山の中に運んだあと、あらかじめ掘っておいた穴の中に放りこんだあとに埋めました。こうして、本物の稲田志木はこの世でただ一人になったのです。あこがれあこがれた夢は実現されました。
◆
ですが、夢が実現したあとも世界は続きます。たしかに私は稲田志木になりました。知り合いや両親の前でも何の違和感もなく振舞えますし、考え方もほぼほぼ一緒です。けれど、そうして暮らしているうちに段々と倦んでいく自らを認めました。
あこがれた稲田志木というのはこんなものか。かけた手間に反してあまりにも凡庸な日常は、次第に自らの存在に罅を入れていきました。その罅は長らく忘れかけていた稲田志木になる前の私を思い出させ、実現させた夢そのものがの揺らぎを感じざるをえません。
なのでまあ、ここらが潮時なのかなと。
ほら、よく言うでしょ。自分のドッペルゲンガーを見ると死ぬって。少々、遅かったですがつまりはそういうことです。あこがれたものになるためにあこがれたものを殺した時点で私の運命は決まっていました。どうせなら私が稲田志木であるということが揺るがないうちに終わらせることにしたのです。
お父さんお母さん。先立つ娘をお許しください。厳密に言えば、私はあなたたちと血は繋がっていませんし、娘と言えるかどうかも怪しいですが、私自身は本物であると思っています。長生きしてくださいね。
志摩もごめんね。でも、短い間ではあってもあなたの姉でいれて嬉しかったです。どうか健やかに楽しく過ごしてね。
では。お元気で。
志木
稲田志木 ムラサキハルカ @harukamurasaki
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