太陽に焦がれる

紫月音湖*コミカライズ・電子書籍配信中

囚われの蝶

 記憶のはじまりから、少女はずっと暗い部屋にいた。

 いや。暗い、というには語弊がある。明かりはちゃんとあった。部屋の四隅に設置された透明な柱の中、そこに満たされた青白い水が仄明るく室内を照らしている。

 生活するぶんには支障のない明かりだ。けれど少女はこの無機質な明かりよりも、もっと激しい光に焦がれていた。

 それは「太陽」と名のつく、強烈な光なのだという。「空」の高いところにあって「世界」のすべてを照らせるらしい。もっとも「空」も「世界」も知らない少女にとっては、その規模がどれくらいのものかも想像がつかない。けれど少女が住むこの青白い部屋よりは大きいはずだ。


「またその本を読んでいたのかい?」


 少女の体に管を繋ぎながら、白衣の青年が困ったように笑った。青年の細い指が少女の腕をなぞり、白い肌に浮き出た血管を探り当てる。つぷ、と注射の針が刺されても、少女の表情は変わらなかった。


「先生がくれたんじゃない。世界を冒険するお話、とても楽しいわ。私の宝物よ」


 少女の枕元にあるのは、一冊の絵本。一日の大半をこの部屋で過ごす少女のために、暇潰しにでもなればと、青年が贈ったものだ。あれからもう二ヶ月は経っている。


「まぶしい太陽に、青い空。どこまでも続く広い海。風に揺れる色とりどりの花は、どんな香りがするのかしら」


 腕の血管から血を抜き取られながら、少女はうっとりとした表情を浮かべて歌うように呟く。天井を見上げる灰青の瞳は、少女がから比べると、もうずいぶんと色褪せていた。


「これで今日の仕事は終わりだ。よく頑張ったね。ゆっくり休むといい」


 そう言って、青年が少女の体に繋がれた管から特別な薬を流し込んだ。この薬を体に入れられると、少女は毎回急激な眠気に襲われる。眠ることで体力を回復させる効果もあるのだろう。目を覚ませば、生まれ変わったかのように体が軽くなっているのだ。

 そしてまた、同じことの繰り返しがはじまる。

 栄養のとれた食事を出され、それを食べ、適度に身体を動かし、決まった時間に管を繋がれて、仕事が終われば深い眠りに落ちる。青白く狭い部屋で、少女の人生は代わり映えなく続いてゆく。


 それをつらいとも、不幸だとも思わなかった。

 少女の世界は、青白いこの部屋だけだったから。


 けれどいつからか――それはおそらく青年が絵本を渡した時から、少女の世界には薄く儚い罅が入っていたのだろう。

 少女は絵本の中に描かれた、見たこともない世界に憧れを抱くようになった。叶わない願いだとわかっていても、だからこそ強く求める心がとめられない。

 けれど少女の細い手足では頑丈な部屋の扉を開けることはおろか、部屋の外に続く迷路みたいな廊下を迷わず進むことだって難しい。そうしている間に見つかって、この部屋に連れ戻されるのが目に見えている。

 だから今日も、少女は青年にもらった絵本を眺めているしかないのだ。


 憧れが諦めに変わり、諦めが空虚感に変わる頃、少女の体にも目に見えて変化が現れはじめた。灰青の瞳は虚ろに揺れ、栄養剤の入った薬も効きが悪い。そうなれば仕事にも支障が出始め、ついには青年に少女の破棄命令が下された。


『エデル3号の破棄処分を命ずる。体内のコアは回収し、培養液にて保存中のエデル4号へ速やかに移植すること』


 青年が握り潰して放り投げた紙切れには、そう記されていた。それが自分のことであると理解しても、少女の胸には何の感情も湧かなかった。それほどまでに、少女の心には希望のひとかけらすら残っていない。


「君はまだ……外の世界を見てみたいと思うかい?」


 そう問うた青年の瞳が、眼鏡の奥で悲しげに揺れている。


「君の体はこの施設外の空気に1分も耐えられない。けれどこのままここにいても、破棄命令が出ている君はコアを取り出されて終わりだ」


 目の前に差し出された青年の手を、少女はじっと見つめる。少女の記憶のはじまりから、ずっとそばにいて支えてくれた優しい手だ。

 気を失うほどに血を抜かれた時も、検査のために肉を削ぎ落とされた時も、いつも痛みや心が落ち着くまで頭を撫でてくれていた。

 少女が心を許す、唯一の人間。少女が知る人間の中で、唯一の優しいひと。


「未知のウイルスに対抗するワクチンを作るためとはいえ、何も知らない君たちを犠牲にするなんて、僕はもう耐えられない。君がまだ外の世界に憧れを抱いているのなら……おいで。僕が外へ連れていってあげる」


 手の中にある絵本と、少女の目の前に差し出された青年の手。

 少女はずっと大事にしてきた絵本を放り投げた。


 そこから先は緊張の連続だった。青年は少女に色褪せたローブを羽織らせると、目深にフードを被らせた。青年に手を引かれるがまま、似たような作りの廊下を先へ先へと走っていく。

 途中、前から来た追っ手をかわすために、とある部屋に忍び込んだ。一瞬だけ、青年の表情が強張る。その理由を少女は部屋の中に並ぶたくさんの筒の中に見た。

 青白い液体で満たされた筒の中に、少女と同じ外見をした人間が保管されている。そのどれもが「エデル」という名で、違うのは4号、5号といった記号だけだ。


『エデル3号の破棄処分を命ずる。体内のコアは回収し、培養液にて保存中のエデル4号へ速やかに移植すること』


 あの手紙の意味を、少女はやっと本当の意味で理解する。

 少女はこの施設で作られた、ホムンクルスだったのだ。


「私が死んだら、次はこの子がエデルになるの?」


 エデル4号の入った筒をそっと撫でた指先を、青年にぎゅっと掴まれる。


「コアを受け継がない限り、エデルは誕生しない」

「あなたはそれでいいの?」

「君のほうこそ、いいのかい? この施設から出れば、君の体は1分と持たず溶けてしまう。君が憧れた太陽は、君を焼き尽くす光なんだよ」

「それでもいいわ。ずっと、外の世界を見てみたいと思っていたの」


 少女と青年は再び互いの手をきつく握り合う。裏切りの共犯者のように、あるいは共に死地へ逝く同士のように。


 逃げる傍ら、武装した者の姿も見た。けれど少女の胸に恐怖はない。あるのは憧れ続けた世界に手を伸ばす高揚感だけだ。その思いだけが少女を突き動かし、とっくに限界を迎えた細い足でも、なお走り続けることができている。


 あと少し。あの扉の外に、少女の憧れた世界が広がっている。

 電子音と共にゆっくりと開かれる扉がもどかしくて、少女は隙間から向こうを覗き込んだ。その背後で、銃声がする。驚いて振り向いた先、白衣を赤く染めた青年がゆっくりと倒れていくのが見えた。


「来るなっ!」


 駆け寄ろうとした少女に、青年が叫ぶ。初めて耳にする怖い声に、少女の足が竦んだ。


「行け! 僕のことは構うなっ」

「でも……」

「どうせ僕も君も助からない。なら、やりたいことをしておいで」


 死に逝く青年の表情はとても穏やかだ。少女を逃がすという目的を果たしたからだろうか。ならば少女も最期まで逃げ切ってみせようと、そう伝えるように青年に背を向けた。


 扉をくぐり抜けた先で、二度目の銃声が響く。

 けれど少女はもう、振り返らなかった。


 はじめての外の世界は、目に映るものすべてが美しかった。

 空の青。空気の匂い。素足に感じる草のやわらかさ。風に揺れる葉擦れの音に胸が躍って、疲れ切ったはずの細い足がステップを踏むように森の奥へ駆けていく。やがて木々の天蓋が途切れ、空から強烈な光が降り注いでいるのが見えた。

 太陽だ。そう弾む心に一歩踏み出した足が、ずるり――と膝下から溶け落ちた。バランスを崩して倒れ込んだ少女は、もう一歩も動けないことを今になって知る。

 いつの間にか、足も手も、爛れたように端からどろりと溶け始めていた。それでも必死に体を仰向けに転がすと、少女は空の上、そこに燦々と輝く太陽の姿を目に映した。

 強烈な光に、目も顔も、体中どこもかしこも痛かった。それでも少女は笑う。この美しい世界に。憧れていた世界に、身を委ねられる喜びに。


「きれい……」


 もう形も崩れて原形を留めない唇が、最期にそう音を漏らして溶け落ちる。


 少女の体を形成するすべてが溶けて崩れ、胸に埋め込まれたコアさえもあっという間に風化し砕けてゆく。きらきらと、陽光を反射させながらコアの破片が空を舞う。それはまるで檻の中に囚われていた蝶が自由を得て飛び立つ様にも似ていた。



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