月光セブンスター
rainscompany
第1話
1
秋山さんは、不思議な人だった。
僕が彼に初めて出会ったのは、夏休みが始まったときのことだ。気まぐれに訪れた深夜の海辺で、一人で煙草を吹かす彼に話を掛けられた。
……その日は、遅い時間まで友達と遊んで、家に帰った。すぐにシャワーを浴びて、部屋のベッドに寝転んで――何となく、眠れそうにない気分になった。
それから家を出たことに、特に意味は無かったと思う。
夏休みを明日に控えた街の空気は、どこか浮かれていた。
終電は間近だけれど、ざわめく街の喧騒は静まる気配を見せない。煩くエンジン音を掻き鳴らしたバイク。喚き散らす酔っぱらいの声。どれもこれも浮きだっていて、心はどうも落ち着かない。
それに少しうんざりしてしまった。
求めていたのは、夜の静寂と生ぬるい夏の空気感。
そして、気の抜けた甘ったるいサイダーみたいな、拍子抜けもいいところな――つまりは何の感傷もない、夏休みの始まりを期待していた。
希望だとか、どうしようもない切なさを抱くことのない、そういう夏を夢に見ていたのかもしれない。
そうして僕は夜の街を彷徨った。
騒々しい海岸沿いの国道を歩いていると、やがて海岸の入り口に行き着いた。人気はまるで無い、物静かな海岸。丁度良い。ここでしばらくゆっくり過ごそう。そう思った。
薄暗いトンネルを潜り砂浜へ出ると、左奥のテトラポッドが目に入った。
高速道路から漏れたナトリウム灯の光が、ぼんやりと夕陽色にテトラポッドを照らしている。
腰掛けるには絶好の場所だ。
この時の僕はきっと、テトラポッドに腰掛けて、そのまま午前0時を迎えるものだと信じて疑わなかったのだと思う。
つまらない夏の始まりを見届けて、それから――
「……」
テトラポッドに登ると、隣に人影があることに気付いた。
それは、想定外の事態だった。こんな深夜でテトラポッドに腰掛ける人がいるだなんて、想定出来るわけがない。
「こんな時間に、何をしているんだい?」
咄嗟に状況を理解できなかった。
「……それは」何とか口を開く。そこでようやく、僕は隣の人に話し掛けられているのだと気付く。「海が……何となく、見たくて」
「そうか。こんな夜更けに」
海が見たくなったのかい?
その声音はどんな感情にも属してなかった。隣の人が抱いている感情を、今一つ読み取れない。
もしかして――僕は説教されているのだろうか。
怒られるのはちょっと苦手だ。
「……うん、いいね」
しかし、身構えた僕に掛けられたのは、思いも寄らない言葉だった。
「なんなら少し、俺の話し相手になってくれよ」
だなんて。
彼――のちに秋山と名乗った男の人は、僕にそんな突拍子もないことを言った。
それが彼と僕の出会いだ。
そんな夏の始まりに僕は何を抱いたのか、今でも解らないままでいる。
※
「吸う?」
佇む僕の横でテトラポッドに腰掛ける秋山さんが、ひょいと一本、煙草を差し出してきた。
「遠慮します。まだ、未成年なんで」
「マジメなもんだ」
「それに、身体に良くないですから」
そう付け加えると、つれないな、とでも言う風に秋山さんは肩を竦めた。
大の大人が、高校生の非行を助長するのはどうかと思う。「大人は正しさを説くべきですよ。道徳的に」
「……じゃあ、説いてみようか?」
うん、そうだねぇ。
秋山さんは少し唸ってから、
「正しさを知ってるだけじゃ道徳とは言えないよ」
煙草の煙と一緒にそんな言葉を吐いた。
「正しさがあるから道徳なんじゃないですか」
「そうだよ。正しいから道徳なんだよ。でも、その正しさってなんだろうね」
「それは……ルールを守ることじゃないんですか?」
「そんなこと言ってたら、この時間に君がここに居るのも十分ルール違反だろうに」
確かにその通りだった。
僕の言葉を待つ間、秋山さんは短くなった煙草をそっと砂に落として、靴で踏みつぶした。
不意に吹き抜けた潮風が、漂っていた煙草の煙を掻っ攫っていく。
「そうです。僕は今でも十分、正しくないんです」
きっと今この瞬間、眠りに就いている同級生たちが正しいのだと思う。高校生が深夜二時の海辺で佇んでいいだなんていう正しさは、僕の道徳にはない。
けれど秋山さんは、
「いや、正しいよ。君は十分正しい」
そう言って、ポケットから再び煙草を取り出した。火を点ける。ぽっと浮き出た赤い光から、白い煙が漂う。
その煙を追うようにして、僕は空を見上げた。
空は、濁った色をしている。黒い絵の具に、いろんな色を押し付けて――結局は黒に染めてしまったような。そんな色だ。
この空を、澄んだ美しい黒だと思えるほど、僕の感情は綺麗じゃない。
秋山さんならこの空を、どんな色と表するだろう。
「正しさはね、経験なんだよ」
「……え?」
「例えば。殺人は悪だと思う?」
そう言って秋山さんは空からそっと、テトラポッドへと視点を下ろす。そんな彼の顔は、テトラポッドの影にまぎれてよく見えなかった。
「悪だと思います。少なくとも、正しくない」
「じゃあ、銀行強盗がいたとして――」
淡々と秋山さんは語る。
――人質は幼い子どもで、首元にはナイフが突き出されていて、ゆっくりそれが引かれて血を流していたとして。
――それを救おうともがいた結果、強盗を死なせてしまったら。
「それは悪だといえるのかな? 正しくないことかな?」
「過程は、きっと正しいと思います。でも結論は……正しくないと、思います」
「じゃあその人は殺人に等しい罪で、裁かれるべきなのかな」
もしかすれば子供が殺されていたかもしれないのに。
「……それでも、殺人には変わりありません」
だってその人だけを許してしまったら、誰も裁けない。悪の中に善を見出してしまったら、誰も守れない。
「悪が善を殺そうとして、善が善を救い、結果それは悪を殺した。この中で誰が一番正しいだろう」
悪は正しくない。けれど善が正しいとも思えなかった。
答えは出せなかった。
「君の正しさは今、少し揺らいだ」
はっきりと指摘される。
「その揺らぎはね、人の正しさなんだ。矛盾とルールの果てに、正しさがある。それが道徳になっていく」
「よくわかりません」
「俺の話は、よくわからないんだ」
こんな大人に道徳を説かれても、意味なんてないよ。間違ってるんだ。
秋山さんは煙草の吸殻を、テトラポッドの隙間に落とした。
――ああ、確かに。秋山さんは間違っている。
秋山さんの顔は最後まで闇に溶けたままだった。
2
深夜、海辺に赴くことが習慣になりつつあった。
その頃は、眠れそうになかったり、家に居るのが息苦しかったりすることがよくあった。それを口実にしては、何度も僕は家を抜けだして、深夜の街を歩き彷徨った。
そして必ず、最後には海辺に辿り着く。
予定調和じみた深夜の徘徊。
細波の音を聴いて。潮風を頬に受けて。それから何もなかったかのように、家に戻って死んだように眠る。
それを求めて、僕はここに訪れる。そう、それに――
「何か、好きなものはある?」
考え事をしていると突然、秋山さんが煙草を吹かしながら訊ねてきた。佇む僕と、テトラポッドに腰掛ける彼。相変わらずの距離感だ。
――僕は、秋山さんとの会話を心の何処かで欲していた。
秋山さんは毎日そこにいて、テトラポッドから果てのない海を眺めている――何本ものセブンスターを吸い、その吸殻を砂の上に落としながら。
「好きなもの、ですか」
そう呟いて、頭の中で思い当たるものを浮かべてみる。
波の音、錆びたベンチ、誰もいない公園、曇り空。
「面白い。でも、その"好き"の幾つかは、君の正しさと少しズレていると思うけれど」
「そうでしょうか。……それは別に、ズレでも何でもない」
僕は反論した。
けれど本当は、気付いてしまっている。
薄汚れた曖昧な概念は、確かに、僕の正しさとはズレている。
「善か悪か。極地でしか正しさを分けない君が、そんなものを好むっていうのは、何だかおかしい」
そうだな――君の正しさはまるで後から付け加えたものみたいだ。
秋山さんは煙草の煙を吐く。それを追うように、彼は空を見上げた。まるでいつかの僕のように。
吹いてきた生温かい潮風が、頬を撫でて、僕の身体に纏わった。ぶるっと背筋が震える。
「君は、正しさの上に立ちたがらない」
高速道路を通るトラックが、ナトリウム灯の光を遮り、一瞬だけ夕陽色を掻き消した。
「どうでしょう」
「……まあ、責め立てるのは酷かな」
そう言って、秋山さんはテトラポッドから飛び降りた。
秋山さんと僕の目線が対等になる。
僕より少しだけ背の高い彼と、視線が衝突する。
「――――」
こんなに言葉を交わしていたのに、彼としっかりと顔を合わせるのはこれが初めてのことだった。
「今度、また会う時は楽しい話でもしようか」夕陽色に染まった彼が優しく微笑む。
「……そうですね」
それがきっと、いい。
秋山さんを見つめて、僕は頷く。
「あ、一本あげるよ。セブンスター」
僕の手に、秋山さんは半ば強引に煙草を掴ませた。彼の手はざらついていて、ひんやりと冷たい。
受け取るつもりはなかったけれど、僕は流されるようにその煙草を握ってしまった。「いや、僕は吸わないって何度も」
「それじゃあ」
背を向け、秋山さんが去って行く。
彼を追いかけて、掴まされたセブンスターを返すことはそう難しくなかった。半ば強引に、彼が僕にそれを渡したように。僕は、彼の手にセブンスターを掴み返せただろう。
でも、そんなことをする気にもなれなくて、咄嗟に伸ばした手を僕はだらんと下げた。
「……また、今度」
僕は小さく呟いた。秋山さんの背中が闇に消えるのを見届けながら。
そしてそれから、秋山さんについて考えた。
彼と、いろんな言葉を交わしてきた。あくまで正しくない、間違ったあの人が、僕に何かを語りかけた。
秋山さん。
夏には似合わない、そんな彼の名前。
彼について知っているのはそれだけで、あとは年齢も職業も知らない誰かだ。
「秋山さん」
掴まされた一本のセブンスターをポケットに仕舞う。
――そういえば、訊けなかったことがある。
煙を追って空を見上げていた彼に一つ、訊いておきたかったことが。
空を見上げる。
その果てしない闇の中に――星に紛れてぽつんと光る、ちっぽけな飛行機が見えた。尾を引く飛行機雲は見えない。通り過ぎた足跡に、誰も気付くことができない。
だから今、この場所の空に、飛行機が飛んでいたことを知っているのは僕だけなのだ。
誰も知らない。
真横の高速道路は静かで、車が通る気配はまるでなかった。
その中で、ただただ無機質に。ナトリウム灯の夕陽色が、テトラポッドを照らしている。
この瞬間、あのナトリウム灯は、僕とテトラポッドだけを照らすためだけに光っていた。
でもそんな些細なこと――誰も、知れるはずがない。
もうすぐ夏が終わる。曖昧で、ぼやけていて、よくわからない何かが、もうすぐ消えて無くなる。
――秋山さん。
「あなたには、この空が何色に見えますか」
それが、彼に訊きたかったことだ。彼の目に映る色を知って初めて、彼の何かが見えるのだ。
そう、思った。
3
雨が降っていた。
いつも以上に湿った夏の空気。それを纏わうタオルケットの肌触り。屋根を叩く雨音のリズム。
どれもこれも不快だ。
何をする気にもなれず、僕はただタオルケットに包まって、カーテン越しに見える雨粒を睨みつけた。
窓ガラスに付着した幾つもの雨粒が、ゆっくりと不規則な線を描いて流れていく。
今日は、八月に入って初めての雨だった。
そうなれば今夜、海辺に行くかどうか。僕は迷ってしまう。まともに海岸へ出ることはできないだろう。……けれど、例えこんな雨の日でも、あの人はテトラポットで呑気に煙草を吹かしているように思える。
秋山さんは、いつだってそこにいた。
だからそんな彼が、雨程度で海を眺めることを止めるだろうか。
僕にはそうとは思えない。
「……はぁ」
ベッドから起き上がって、僕は乱雑な机の引出から一本の煙草を取り出した。
それはいつかのセブンスター。それをそっとなぞるように指で撫でてみる。白色に浮かぶ銀の縁取りが、窓から差し込む雨色に溶けて同化している。その鈍重な銀線が、僕の眼を捉える。
――僕は、何を考えているのだろう。
それを突き止めるのをやめて、何も考えずセブンスターを引き出しに戻した。
そしてまた、ベッドに寝転んだ。
視界に広がるのは、木調の天井だった。
この天井の上に、薄黒い雨雲の空が広がっている。悪意そのものみたいな、嫌いな色をした空が。
ああ。
そこで気付く。
今夜は、空を見上げることが叶わない。例え彼に会ったとしても、空の色を訊くことは出来ない。
あれから三日が経っている。
その間隔はいつもと差して変わらない。けれどその長さは、いつも以上に重く伸し掛かって、あの海辺へ足を運ぶことを躊躇させる。
夏の始まりから、何度もテトラポッドで彼と話をしてきた。
逆に言えば、どんな時にも彼はテトラポッドにいた。
その当然さと、交わす言葉と、夏の空気が、僕の心に有りもしない幻想を埋め込んでしまっている。
身勝手な感情を抱いていると、僕はとっくに自覚していた。彼と最後に会ったあの夜から。――本当に、参ってしまう。
窓の外から、雨音が聴こえる。囁き声みたいな小雨の音が、真っ暗な部屋の中を漂っている。
その中で、微かに自分が呼吸していることに気付いた。
枕元の携帯電話に手を掛けて、時刻を確認する。午後九時半すぎ。彼に会うには、まだ早い時間だ。
僕は考える。
始まりに期待して、終わりには何も得ない。そんなことを何度も繰り返してきた。惨めな切なさと、つまらない感傷を胸に、吐き気がするくらいの後悔だけを抱いていた。
夏は嫌いだった。
……違う、夏だけじゃない。この世界が、どうしようもなく嫌いだ。
世界も、自分も。全部が嫌いで仕方がない。
――昔から、錆びれたものが好きだった。
人から見向きもされなくなった物が好きだった。
置き去りの錆びついた自転車、腐食した看板、動かなくなった自動販売機。
そうやって、ただの物に成り果てた存在を愛した。
居ても居なくても影響は無く、未来も過去も無く、思い出よりも遠い。
記憶の枠外に追いやられた物。
そういう存在が、僕の心を満たした。
叶うなら、そういう物になりたかった。
だから今思えば。あの時、僕は自分を肯定したかったのだと思う。嫌いで憎くて仕方ないけれど、劣等感にまみれ、錆付いた廃品みたいな自分を、許してしまいたかった。
つまりは、結論として。
あの時。
僕は。
あの海で、何をしたかったのだろう。
そして最後に、何を抱いたのだろう。
――もう、全て解ってしまった。
4
「今日は、テトラポッドじゃないんですね」
「生憎、雨なもんだから」
海辺へと繋がるトンネルに、湿った声が響いた。切れかかった薄暗い蛍光灯が、煙草を吹かす秋山さんの姿を映し出している。
トンネルの外はまだ、雨が降りしきったままだった。
「今日は来ないと思ってたけど」
そう言って、秋山さんは煙を吐く。セブンスターの白い煙は、トンネルの向こうの闇に、吸い込まれるように消えた。
何か言おうとして、躊躇った。
うまくまとまらない。伝えたいことは幾つだってある。でもそれを一つ一つ、丁寧に整理できない。
「僕も、来るつもりはありませんでした」
「……へえ?」
秋山さんは吸い終わったセブンスターを地面に落とした。相変わらずの光景だ。
「ただ、楽しい話がしたくなって」
――今度、また会う時は楽しい話でもしようか。
三日前の夜の彼の言葉だ。
僕の言葉に少しの間、秋山さんはきょとんとして、
「ああ、そうだった。……俺が言ったことだったね」
「はい。だからしましょう。楽しい話」
「本当に、君は面白いな」
そう笑って、秋山さんは佇む僕の横に腰掛けた。本当に、何もかもが相変わらずだ。
それがおかしくてつい、僕も笑ってしまった。
秋山さんはゆっくりと口を開く。
「自分の好きなものを語るのがきっと、楽しい話だ」
それはつまり――この前の続き。
正直、驚いた。うろたえてしまった。どんな話をしても、やはり彼は僕の内面を抉っていく。
そう考えて、即座に否定した。違う。そう見えてしまうのは、僕が自分の矛盾を見つけたくないからだ。ひたすら避け続けていた見ぬふりをしたモノに、目を向けて、語ることを恐れていたから。
「なら……秋山さんは、何が好きなんですか」
「煙草。特にセブンスターが好きだね」
「そんなの、言われなくても知ってますよ」
知っている。解っている。
だからきっと彼は、そのセブンスターを吸いながら眺めるこの海も好きなのだろうと、僕は思う。
毎日飽きずにこの先の海を眺める彼が、海を好きじゃないなんて、そんなことはちょっと信じられない。
「君が好きなものを、もう一度教えてくれよ」
「……僕は、錆びれたものが好きです」
「それはどうして?」
どうしてだろう。自分が錆びれた存在だから、同じものを愛した。それだけかもしれない。
けれど言葉にするのは、少し違うことだ。
「時間が止まっているからです。過去も未来も無くて、ずっと停止しているから」
後ろにも前にも進みたくない僕にとって、それらは丁度良いものだから。
恐らくこれが本質だ。
「俺はやっと、君のことが解った気がするよ」
それは勘違いかもしれない。
本当は、どこも交わらなくて、理解のピントはぼやけたままなのかもしれない。
それでも僕を理解していると信じて、秋山さんは言う。――僕も、理解されたと信じて、秋山さんの言葉に耳を傾ける。
「君は生きるのも、死ぬのも、嫌なんだ」
「……それは、違いますよ」
ただ、どっちつかずなだけだ。後退も前進も、それをするための気力がないだけの、ただの怠け者。
それが自分の正体だ。
「ねえ、教えてくれよ。どうして君は、あの日海に来た?」
――何の感傷もない、夏休みの始まりを期待していた。
そのために海に訪れたのではなかったか。
僕は口を開く。煙草の煙を吐くように、ゆっくりと呟く。
「……何となくですよ」
でもその言葉に、自分で確信が持てなかった。嘘ではないけれど、本当でもない。事実はもっと違う位置に存在している。
秋山さんは、何も言わなかった。
トンネルの中は、外から響く雨音に支配される。そこで微かに、僕と秋山さんが息をしている。
僕は何をしに海に来たのだろう。
何度目かもわからない問いへの解答。それが何だとしても、全て当て嵌るのだ。
でもそのピースの中央に、かちりと嵌めてしまうのならば。
その解答は、
「秋山さん、僕はもう、死んでしまいたかったんですよ」
それしかなかった。
彼はやはり何も言わない。――何も、言えない。
淡々と僕は語る。
「いつしか気付いてしまったんです。自分が、埃を被った存在だって。錆びれた存在だって。けれど、その時はまだ何も思わなかった」
むしろ、心地よく思ってさえいた。
「でも、時間が流れるたび、そうとは思えなくなった。だって、もうすぐ高校生活が終わっちゃいます」
僕が停止した存在でも、時間は停止してくれない。
当たり前だ。いつまでも、保留を続けて生きては行けない。
そんなことに僕はいつまで経っても気付けなかった。いずれこのコンベアーから降りて、自力で歩かなければならなくなる。その当然の事実を知らなかった。
「僕は自分の意志で、生きなければならなくなる。でも、停止ばかりしていた僕に、そんなことはきっと出来ない」
常に受け身で、構えていた僕に、何かを選ぶだなんて権利は無い。
「生きることも、死ぬことも、やめていました。いや、違うな――思考停止してたんです。それなのに、何かが通り過ぎるたび、何かを通り過ぎるたび、僕は後悔していた」
何もしなかったのは自分なのに、後悔を何度も抱いた。
行動しようと思ったことはそれこそ何度だって、飽きるほどだって、ある。
けれど、結局は僕は何もせず、ただのうのうと呼吸をして――呼吸だけをして生きてきた。
そんな自分が嫌いで嫌いで、仕方ない。
「そんな自分が、僕は大嫌いだ。憎んでさえいる。進もうと思って、進めない。……言い訳ばかりだ」
いつの間にか声に感情がこもり始めたことに気付く。
感情は嫌いだ。いつだって、邪魔をする。
「正しさが極地だと、秋山さんは言いました。本当に、その通りだ。だってその中間を作ったら、僕は自分を許容しかねない」
自分の基盤がそれを許せば、嫌いな自分を受け入れたら、僕は本物の怠け者になる。それだけは嫌だった。
「僕はいつだって、自分の正しさの反対にいた。僕は正しくない。だから嫌っていられる。停止から進むことを選べる」
でもそれは、もう昔の話だ。
「――けれど、それすらできなくなった」
そうだ。
今の僕は、進もうと思うことすら出来ない。
「だから、前を見ることを諦めて、後ろを見ることにしました」
停止し続けることだけは嫌だった。
自分の行く末を、コンベアーの中で決意しなければならないと思った。
「僕は、」
不意に、言葉が途切れた。先が言えない。
感情を塗りたくった、薄汚れた、濁った言葉が闇に消えた。
そうして訪れた沈黙の中で、秋山さんが声を上げる。
「雨、止んだね」
「――――」
現実に戻る。
雨はいつの間にか止んでいた。
「これならテトラポッドに行ける」
秋山さんは立ち上がって、僕に背を向け歩き出す。さく、さく、と砂利を踏む音がトンネルの中で奇妙に響いた。
トンネルの向こう。闇に消えた秋山さんから、声を掛けられる。
彼の声だけが、その闇から聞こえてくる。
「続きはそこで、話そう」
5
月は見えない。
テトラポッドを照らしたのは、いつものナトリウム灯の光だった。
夕暮れの茜色を凝縮したみたいなそれは、雨に濡れたテトラポッドを濃い夕陽色に染めている。
少し疲れてしまった。泣き腫らした後のような、そんな気分だ。喉が乾いて、お腹が減っている。
佇む僕と、テトラポッドに腰掛ける秋山さん。変わることのない距離感。安息の立ち位置。セブンスターの香りがした。僕の頭上で海を見つめる彼が、煙草に火を付けたのだろう。
「人間は死ぬまで生きているんだ」
「え?」
「だから、死ぬその瞬間まで、確実に君は生きている。何分何秒たりとも、生きることを辞められない」
雨雲はまだ夜空に停滞している。月をひたすら隠し続けている。
ふと、かくれんぼを思い出した。捜してもらうために隠れる。そんな矛盾したゲーム。
見て欲しい、捕まえて欲しい、そのために隠れる。鬼に見つけてほしくて、必死に隠れ場所を探す。
かくれんぼにおいて、見つけてもらえないなんていうのは、ちょっとした悲劇だろう。
だから――あの月も、そうなのだろうか。
そして、僕も。
生きることも死ぬことも隠して、誰かに見つけて欲しかったのだろうか。
でもこんなこと、詭弁でしかない。
その場で何となく当て嵌めた、パズルのピースだ。
「君は、生きているんだ。俺が証人だよ」
なんて――かくれんぼの鬼みたいに、秋山さんは言う。
そしてそんな鬼に見つかった僕は、口を開いた。
「……そうでしょうか」
「そうだよ。停止なんかしちゃあいない。君はいつだって前に進んでいたんだよ」
だからいい加減、気付け。君は生きてるんだ。前に進んでいる。
大人が子供を叱るみたいに、秋山さんが言った。
ああ。
みたいに、なんかじゃなくて――本当にそのままだ。情けない。
「ほら、いつまでそこに立ってるんだ。ちゃんと目を合わせて、話をしよう。その距離感のままじゃ、君の言葉も、俺の言葉も、まともに届かないぜ」
佇む僕の横で、テトラポッドに腰掛ける秋山さんが言った。
見上げる。
彼の顔はとても穏やかだ。
「そうですね。……ちゃんと、話さないと」
僕は頷く。心の中でちょっとだけ躊躇って、首を振ろうとして――それでもなんとか頷いた。
テトラポッドに登る。
そこはひどく不安定な場所だった。足場は常に斜めっていて、移動するのも一苦労だ。
その雨に濡れたコンクリートのテトラポッドに、僕はゆっくりと慎重に腰掛ける。
隣には秋山さんがいる。
彼とこんな間近で、肩を並べて話す時が来るだなんて。考えてもみなかった。陽炎みたいだった彼の存在が、今ははっきりと感じられる。
セブンスターの香りは、いつもより近かった。
「最初会った時、俺は単に、君が海を眺めに来たのだと思ってた」
その推測は正しい。
確かにあの日、僕は海を眺めにここまで足を運んできた。夏の始まりを見るために。
でも、それは口実でしかない。
本当の理由を、きっと彼は見破っている。
「でも違った。君は恐ろしく無表情だった。見て解ったよ」
君は、あの日。
その続きを言うのを躊躇うように、彼は目を伏せた。
それでも、悲しそうな顔を浮かべて訊く。
「君は、死ぬためにここまでやってきたんだろう?」
「――――」
「なあ、今でも、そう思う?」
「……いえ。今は、そうでもないです」
もう、死のうとは思っていない。
「君にとっては今が全てで、人生なんだろう。でもいずれ、未来があることに気付くんだ」
「どうでしょう。僕には解りません」
明日が来たって、僕は相変わらず停止したままのように思える。
「今は解らなくてもいいよ。でも、そうなる。気付いてしまう。停止した存在という仮定に身をうずめて、生きていることに」
そうやって進んでいることに。
吸い終わった煙草がスローモーションのように、テトラポッドから落ちていく。「自分を許すのが嫌なんだろう。そして許そうと考えること自体が、君の中ではもう罪になる。……でも、あの日。そう考えることすら君は止めてしまった」
疲れてしまった。
だから、死ぬことに決めた。
「今すぐに、それを捨てろとは言わない。言えないよ。君はゆっくり、自分を許していくべきだ」
「……」
「何なら俺が、君を許すよ。君が正しくないと言うことを、正しいと叫ぼう」
秋山さんは微笑んだ。
そしてそれと同時。
雨雲が退いて、月が顔を見せた。
――見事な満月。
テトラポッドから見える広大な海が、月光に照らされる。水面に映った月光は連なって、やがてそれは道のように地平線まで伸びた。
月光の道が、細波に揺れる。
夏の空。夏の月。夏の海。
「……吸う?」
セブンスターを差し出される。
「いえ」
僕は断って、ポケットから一本の煙草を取り出した。折れて萎れた花のような、一本のセブンスターだ。
「これを吸います」
にかっと僕は秋山さんに笑ってみせる。心は晴れないけれど、曇っているわけでもない。曖昧でどっちつかずな感情だ。
それが正しくてもいいのか、僕にはまだ解らない。でも、悪いことだとも思えなかった。
「まだ持ってたんだ、それ。君のことだから、てっきり砂浜に投げ捨てたかと思ってた」
「そこまで頑固じゃないです。ただ、僕は煙草の煙が苦手なんです。噎せちゃうんで」
「尚更、吸おうとする意味がわからないな」
勧めたのは俺なんだけれど。おかしそうに笑って、秋山さんはライターを取り出した。「咥えて。それからゆっくり吸い込んで。そうじゃないと火が点かない」
最初から煙を吸わなければならないのか。火を点けて、少し躊躇う時間が欲しかったのだけれど、仕様がない。僕は諦めて、シガレットを吸いながら咥える。
カチ、カチ、と秋山さんの握るライターに火が灯る。
そして、ゆっくりと煙草の先にその火が置かれた。ストローを吸うみたいに、僕はふやけたフィルターを軽く噛んで、火が点くのを待った。
不意に、舌にほんのりと苦味が乗った。
煙草に火が点く。
味わうよりも先に、息を吐きだした。吐かれた紫煙がゆったりと、月の浮かぶ夜空へ消えていく。
そしてもう一度。今度ははっきりと煙を吸い込んだ。
「……苦い」
口に含んだたくさんの煙を、一気に肺まで呑み込んだ。ぞわっと、肺を撫でられるような感覚に、思わず噎せてしまう。「こんなもの、よく吸えますね」
「慣れれば美味しいよ」
そう言って、秋山さんもセブンスターを咥えて火を点ける。
僕なんかよりも器用に、煙草の先にはすぐに火が点いて、ゆったりと口からその紫煙が吐き出された。
肩を並べて煙草を吸うだなんて、妙な感覚だ。
細々と吸って、今度はゆっくりと肺まで吸い込んでみる。煙草の苦味はわずかに、ほんのりと甘くなる。吐く。白い息が空気に散った。
――ああ、そういえば、彼に訊きたかったことがある。
「秋山さん」
「……ん? なんだい」
「この空は、何色に見えますか?」
ようやく訊けた一言。紫煙混じりの、一言。
うん、そうだねぇ。
秋山さんはそう唸って、空を見上げた。僕もそれに倣って――夜空を見上げる。
果てしない黒と、退け始めた雲と。
輝く星々と、月光。
僕と彼とで、見える世界はきっと違う。
この空でさえも。違う色彩を持っているのだろう。
こうして僕と空を見上げながら、セブンスターを吸う秋山さんは、呑気に答えた。
「空の色は――――」
月光セブンスター/出山啓世
月光セブンスター rainscompany @rainscompany
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