第4話 「誰から?」

 月曜日は礼拝から始まる。


 今日のお説教は契約の血についての話だった。

 かつて生きた人、いま生きている人、これから生まれくる人、すべての人の罪のために、主イエスは契約の血を流されたのです。云々。


 あまり耳に新しい話ではなかったし、先の内容も簡単に予測できてしまうけれど、そうなると、その言葉が人から聞いたものなのか、自分の思っていることなのか、よくわからなくなってくる。信仰はこうして人の心に根づくのかもしれない。そんなことを漠然と考えた。


 昼休みになると、近くの席の子たちが、机を寄せるように催促した。例によって、私は曖昧に笑いながら、弁当箱の金具をいじっていた。前に机をつけたときは、あとからやってきた流愛に蹴り飛ばされたのだ。あれは誤魔化すのが大変だった。ちょっと不安定な子で……みたいなことを話したけれど、次に見たときもきっと同じことをするだろう。そういう意味では、流愛は全然不安定なんかじゃなかった。


 こういう時間が、一番つらい。クラスメイトたちが私を求める言葉を聞くたびに、心臓の音が大きくなり、頭の中がだんだん白くなってくる。


 早く。早く来て。


 流愛が来てくれれば、それだけでいい。流愛の言うことを聞いて、流愛の望むことをして、流愛の喜ぶこと言う。ほかに、私にできることなんてない。

 だから早く。早く私を――


「とこ、おまたせ!」


 お弁当の入ったつつみを下げて、流愛が教室に入ってきた。私は安堵して、微笑みかける。


「ううん、いま来たとこ」

「いや、ずっといたでしょ。大遅刻じゃん」


 流愛は笑いながら、近くの椅子を私の向かいに引いていき、お弁当を広げた。人気のある子の周りには生徒が殺到して、椅子を入れる隙間がないことがあるので、何脚か余っているのだ。大変だな、と少しだけ思う。


 私を仲間に加えようとしていた子たちは、流愛が入ってくるのを見るなり、ぱっと離れて自分たちのグループに戻っていった。くすくすと笑い声が漏れ聞こえてくるのは、多分私の気のせいばかりではないだろう。


「今日はね、お母さんが卵焼き作ってくれたんだ。甘いやつ」


 流愛は弁当の蓋を開けながら、嬉しそうに言った。私も自分の弁当箱を開け、適当に箸をつける。食欲はあまりなかった。


「いいなぁ。甘い卵焼き、私も好きだよ」

「じゃあ、一個あげる」


 流愛は迷いなく、自分の弁当から卵焼きを箸でつまみ、私の弁当箱の隙間に乗せた。


「……ありがとう」

「ううん。そうだ、とこのも、なにかもらっていい?」

「うん。いいよ。なにがいい?」

「そ、れ、じゃ、あ~……」


 流愛は机の上で、黒い瞳を目移りさせた。

 ごく普通の、楽しいお昼だ。

 頭の中でそう言葉にして、私は満足する。


 そのとき、ふいにスマホが震えた。私は何の気なしにポケットに手を伸ばそうとしたけれど、瞬間、流愛の目が私の動きを止める。


「誰から?」


 弁当をつつきながら、流愛は目を細める。声のトーンは変わらない。何気ないおしゃべりの、そのままだ。


「えっと……なにが?」

「いま、スマホ取ろうとしたよね。通知じゃないの」

「ああ……うん。まあ、」

「なんでごまかすの? 私に言えないようなこと話してるの?」


 表情はそのままに、だんだんとひりつくような声音に変わっていく。そのざらついた感触に、私の頭はまた白くなっていく。


「別に、そんなんじゃないよ。ほら、部活の連絡。大したことじゃ……」

「末結ちゃん? 有朱ちゃん?」


 息が詰まった。


「ねえ、とこ。部活って言えばなんでも許されるわけじゃないんだよ。ただでさえ私、寂しいのに。一緒にいられない分、私のこと、忘れないでほしいな」


 えへ、と流愛は笑う。口角を上げて、穏やかに。不安になる。また間違えたのか。昨日、流愛はどれほど傷ついたのだろう。どうしたら取り戻せるのだろうか。真っ白な頭の隅で、かろうじてそんな思考が働いた。


「いいんだけどね。とこが誰と仲よくしてても」

「うん……ありがとう」

「……でも、とこは私の友だちだよね?」


 流愛の箸が止まる。私は小さく頷いた。


「うん。もちろん」


 それを聞いて、流愛は満足そうに微笑んだ。


「よかった。それならいいの」


――――――


 放課後のチャイムが鳴る。


 私は部室へと向かった。楽器ケースを抱え、いつもの席に腰を下ろす。流愛との会話を思い返しながら、なんとなく本体だけを膝に乗せてぼんやりしていると、幼い声に呼びかけられた。


「ゆい先輩、今日もよろしくお願いします!」


 有朱が笑顔で駆け寄ってきた。その元気な声を聞くと、夢から覚めたような、不思議な気持ちになる。


「うん、よろしく」


 私は息を吐いた。部活の間は、流愛を待っているときの宙ぶらりんな感覚を忘れられる気がする。丁寧に楽譜を読んで、その指示に従うこと。そういう作業が私は純粋に好きなのかもしれない。

 間を置かずに、末結も顔を出した。挨拶もそこそこに、私のほうに歩み寄る。


「許子、今日からパート練のメニューが変わるの、知ってた?」

「うん。私にも連絡来てた」

「そっか。それで、ちょっと話したいんだけどさ。いい?」


 口実だ。そんな印象があった。たぶん、本題は別にある。私は末結と連れ立って、部室前の廊下に出た。壁にもたれて、末結は気安そうに口を利いた。


「昨日のことなんだけどさ……あれから、どうだった?」

「ああ、そうだ。ごめんね。気を遣わせちゃって」

「ううん、それはいいんだけど……」


 末結は言葉尻を濁して、少し視線を逸らした。アーモンド型の目が廊下の先まで泳ぎ、やがて戻ってくる。


「あの、義河さんって、いつも……あんな感じなの?」


 歯切れの悪い口調。いぶかるようなことを言うのが後ろめたくて、なるだけ伝わりにくい話しかたをしているような、そんな口ぶり。


 私は、慎重に言葉を選ぶ。


「うん。別に普通だけど……」


 当を得ない私の答えに、末結の表情は少し曇ったままだった。


「許子さ、ちょっと、気をつけたほうがいいかも」


 末結は静かに言う。直接的な言葉ではない。けれど、意味するところは十二分に伝わる。


「気をつけるって、何を?」

「うーん……なんて言うか、説明が難しいんだけどさ。義河さん、なんか、許子にすごくこだわってる感じがするっていうか……」


 末結の言葉は慎重だ。誰も傷つけない表現を、丁寧に選び取っていく。その気遣いも、その奥の本音も、私にはよくわかった。


 そう、わかってるんだよ。私が、一番。


「でも、ただの友だちだよ?」

「うん、そうかもしれない。でも……昨日のコンビニでのあれ、ちょっと、怖かったんだよね。私たちのこと、完全に無視してたし……」


 心臓が鈍く刺激される。やはり、末結は大人だ。それだけで、流愛と私の関係がどういうものなのか、はっきりと予感してしまっている。

 それでも、末結はなんでもないかのように笑って、軽い口調で言う。


「私の考えすぎならいいんだけどね。でも、何かあったらちゃんと言ってね?」

「うん、そうする。ありがとう、心配してくれて」


 私はつとめてにこやかにお礼を言った。胸の中がざわざわと騒がしい。なにか、なにかがまずい。このままだと、取り返しのつかないことになる。そんな、確信にも近い、直感。

 けれど、なにが悪いのかがわからなかった。誰も悪意なんて持っていない。それなのに、どうしてこんなにざらついた気持ちになるのだろう。


 私は頭を振って、ぼんやりした不安を追い払った。いまは、練習だ。

 茫洋と開けた廊下から、逃げ込むように部室にもどった。

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