第2話 『どこいってるの?』

「いいなあ、チーズケーキ。私も食べてみたいです」

「おいしかったよ。おすすめ」


 楽器にグリスをさしながら、昨日、流愛とケーキを食べにいったときの話をする。斜め前に据えられた椅子から、有朱ありすがまっさきに反応した。


 スライドの先を床につけ、持ち手の上で組んだ指にあごを乗せる格好で、楽しそうに私を見ている。トロンボーンパートは、先輩が二人に、同輩と後輩が一人ずつ、私を入れて五人。練習用にあてがわれた教室には、会議中の三年の先輩を除いた三人がそろっていた。


「それなら、今度みんなで行かない? 先輩たちが来れるかはわからないけど、トロンボーンでさ」


 末結みゆがそう提案すると、有朱は黄色い歓声をあげた。


「絶対行きましょう! ゆい先輩も、いいですよね?」

「うん……でも、あのお店、休日は混むかも」

「それなら、別のところにしましょう。先輩、どこがいいですか?」

「え、どこでもいいけど……。ケーキが食べたいんじゃなかったの?」


 私が言うと、末結がくつくつと笑った。


「あのね許子、有朱ちゃんは許子と一緒に行きたいって意味で言ってるんだよ」


 鈍いなあ、と含み笑いで言われて、私はようやく理解する。


「そっか。じゃあ、有朱が行きたいところにしようよ。ああ、あんまりお金がかからないところだとありがたいけど……」

「やっ、違いますよお」


 有朱はあわてたように、ぶんぶんと首をふった。左右でふたつに結んだ髪が、大げさに空を切る。


「別にそういう下心はなくって、ただ、みんなで楽しいことできたらいいなって……まあ、それでゆい先輩が喜んでくれたら、嬉しい……ですけど……」


 あたふたとした口調は、尻すぼみに恥ずかしそうなそれへと変わっていった。ツインテールの位置を直しながら、上目遣いに私を見る。可愛い子だな、と、素直に思った。


 照れ笑いの有朱とは反対に、末結は余裕たっぷりの皮肉そうな笑みを浮かべた。


「いいんだよ、有朱ちゃん。応援してるから。頑張ってね」

「もう、意地悪ですよ、汝鳥なとり先輩」


 有朱は頬をふくらませる。そのとき、教室のドアが音を立てて開かれた。先輩たちが戻ってきたようだ。大仰な仕草で部屋を見回し、芝居がかった口調で言う。


「よーし、諸君。ちゃんと練習してるか~」

「してまーす」


 意気揚々と答えながら、末結はマウスピースを楽器に嵌めた。


――――――


 ミーティングを終えて学校を出ると、空は群青色に染め上がっていた。まだはっきりと視界の効く夜道に街頭の灯りが映えて、昼間とは違った、不思議な明るさを醸している。


「いやあ、疲れたねえ、今日も……」

「本当……もう、へとへと……」


 末結と並んで歩きながら、私はなんとか返事をした。土曜日の授業は午前中までなので、たっぷりと練習時間がとれるのだ。なんだか目がしょぼしょぼする……寝不足なのか、集中のしすぎなのか。酸欠という線もある。今日は早く寝たほうがいい……憩いの日曜日を思うだけで、全身の力が抜けてしまいそうだった。


「まじで、なんでこんなにキツいんだ……土曜日ってもともと安息日じゃなかったの、キリスト教って」

「……難しいこと聞かないで。疲れてるのに」


 たしか、キリスト教の安息日は日曜日だったはずだ。土曜日なのはユダヤ教ではなかったか。

 でも、そんなことは口にしない。言葉と一緒に余計な体力が出ていってしまいそうだった。


「許子。これはもう、行くしかないよ」

「どこに」

「二十四時間営業の夢のカフェ……もとい、コンビニに」


 末結が言っているのは、部活帰りにたまに寄っている、イートインコーナーのあるコンビニのことだ。立地も学校からほど遠く、見咎められる心配もない。少し歩くことになるが、コンビニスイーツの糖分には、それを補って余りある効能があった。


 あまりほいほい行っていると、あっという間に財布が空になってしまうが、まあ、今日くらいはいいかな……。思考が安易な方向に流されていくのを感じながら、私は末結に同意した。


 気分的にはふらふらだが、人の体は丈夫なもので、足はまっすぐに私たちを運んでくれる。

 道すがら、末結は有朱のことを話題にあげた。


「可愛いよねえ。あんな子に懐かれてたら、許子も冥利に尽きるってもんでしょ」

「そうだね。本当、私のどこがそんなにいいのか……」

「こらこら、そういうこと言わない」


 とん、と末結は肩をぶつけてきた。


「鈍感っていうか、自己肯定感が低いのかな? いや、やっぱり鈍いだけなのか……」


 半ば独り言のような言葉だった。


「でもさ、人に好きって言われたら、素直に受けとってあげたほうがいいよ。もちろん、迷惑じゃなかったらだけどさ。有朱ちゃんも、寂しがってるかもしれないじゃん」

「そう……かな」


 別に、拒んでいるつもりはない。有朱のような可愛い後輩に好かれて、嬉しくないはずがない。そう思う。けれど、それが有朱には伝わっていないのかもしれない。もし仮にそうだとして、私はどうしてあげればいいのだろうか。わからない。


「……有朱は、もっと喜んでほしいのかな」


 私が言うと、末結は顔をほころばせた。


「まあ、許子のほうにそういう気持ちがあるなら、大丈夫だよ。大丈夫っていうか……心配ないよ」

「そっか。うん、そうだよね」


 私は息をついて、頭を空にする。夜の空気が冷たい。体の表面が冷やされると、かえって内側にうだるような気分を覚える。


 ポケットの中でスマホが震えた。思考を停めていた私は、反射的に通知を確認する。メッセージはいくつか届いていた。有朱からのものがひとつ、それ以外は流愛から。通知欄の一番下の文面を読んで、私は息を止めた。


『どこいってるの?』


「……末結」

「なに?」

「やっぱり私、帰る。ごめんね、また……」

「え、ここまできて? なにかあったの?」

「ごめん。ちょっと……」

「許子? 大丈夫?」

「うん……」


 末結から疑問符を受けとる度に、私の頭は白くなっていく。思考停止とも違う、ショートして焼き切れていくような感覚。


「疲れちゃった? 具合が悪いとか……」


 末結は私の前髪をかき上げ、額に手をあてた。


「うん……そうかも」

「今週、大変だったもんね。ごめんね、連れ出しちゃって」

「ううん、いいの……休めば大丈夫だから」

「そっか。それじゃあ……ああ、許子の道、あっちか。じゃあ、また。来週かな」

「うん。またね」


 私は末結に背を向けて、足早に帰路を歩いた。途中で引き返したので、それほどの時間はかからない。すぐに自宅のマンションにたどり着いた。

 エレベーターを待ちながら、再びスマホを開く。ロック画面を眺めていると、すぐに流愛からのメッセージが届いた。


『おかえり。今日もおつかれさま!』


 安堵して、私はこれまでのメッセージにもまとめて既読をつけ、最後のものにだけお礼の返信を送った。流愛と私はGPSのアプリで位置情報を共有している。流愛はマメに私の現在地を確認しているようで、私が帰ってきたタイミングで「おかえり」のメッセージが届くことはたびたびあった。


 だから、寄り道にも、もっと気をつかうべきだった。流愛は馬鹿じゃない。同じ手で何度も誤魔化していたら、すぐにバレるだろう。できるだけ気づかれないような、気づかれても納得してもらえるような、そんな配慮を考えなくては……。


 家に上がり、家族との挨拶もそこそこに、そのまま流愛とのやり取りをこなした。吹部のグループのほうにも色々と通知がきていたけれど、流愛との会話を片手間にすることは禁じられている。


 まずは私から、今日の部活での出来事を話した。前までは流愛のほうから訊かれて、私がそれに答えるという形だったが、なんとなく私から話して欲しそうな感じだったので、段々とそのように変わっていったのだ。


『え、、、カフェのこと話しちゃったの?』


 泣き顔の絵文字つきで、流愛は私のメッセージに反応した。

 どきり、と、心臓が脈打つ。


『うん。嫌だった?』

『嫌じゃないけど……ふたりだけの思い出って感じだと思ってたから』


 私は緊張しながら、なるだけ早く返信を入力する。


『そっか。ごめんね るーちゃんの気持ち、考えてあげられなかった』

『ううん、いいよ。私が勝手に思い込んじゃってただけだもん』


 その返信に少し安堵して、流愛の立てるような文章を考えていると、私の油断を責めるように次のメッセージが表示された。


『とこは、別にそんなこと思ってなかったんだもんね。私とそういう特別っぽいことするの、あんまり好きじゃない?』

『ごめんね、とこがそういうの嫌なら、別にいいんだよ。とこ、友だちいっぱいいるもんね。ひとりじめしちゃだめだもんね。私と行ったところも、上書きしちゃう?』

『別にいいんだよ。とこがそう思ってくれなきゃ、私も意味ないし。本当に、私に気をつかったりしないでいいよ。とこがしたいようにしてね。私も、それが一番だから』


 液晶に表示される文章が増えていくたびに、私の頭は真っ白になって内容を理解するのが難しくなる。ほとんどが流愛からのメッセージで占められた画面を見つめていると、自分の頭も流愛の言葉でいっぱいになるようだった。


 なんとか返信を考える。いま、流愛に必要な言葉がなにか、必死で考える。


『ううん、気をつかってるわけじゃないよ。私もるーちゃんと一緒に行けて嬉しかったし、聞かれなかったら言わなかったよ。ちょっとそういうのにしつこい子がいてね。ごめんね、できたら私も、内緒にしておきたかったんだけど』


 祈るような気持ちで送信して、流愛の返信を待つ。

 ごめん、有朱……。


『ううん、怒ってないよ 許す! でも、そのぶん今度は、もっと特別なことしよ? 私たちだけのやつ♡』


 ハイテンションな絵文字に彩られたその文面を見て、私は脱力する。対面で反応を見れない分、メッセージでのやり取りはひときわ緊張してしまう。いつも目の前に流愛がいてくれたらいいのに。


 とにかく、そんなやり取りで私からの報告は終わり、そこからは和やかな会話が続いた。だいたいは他愛もない話だ。学校の愚痴、好きなアイドルのこと、いつか欲しい化粧品、 一緒に行きたいところ、したいこと……。

 頭の中にあるポジティブな言葉を組み合わせて、文脈に沿った応答を考える。可愛い。頭いい。似合うよ。すごい。楽しそう。楽しみ。大好き……。


 話題も内容も、大してバリエーションはない。大抵はいつかもしたような話ばかりだ。それでも、流愛が喜ぶなら、それでいいと思う。


 母に早くお風呂にはいるように言われて、私は流愛とのやり取りを切り上げた。流愛はまだ話したがったが、わが家に防水ケースはないので、そこは納得してもらう。

 ようやく制服を脱いで、ひとごこちつく。一日で一番、好きな時間かもしれない。温かいお湯の中で、手足がゆっくりと弛緩していく。湯気でぼやけた照明を眺めていると、頭の中にもフィルターがかかるような気分になる。


 いや……、

 それは、いつものことか……。


 湯気はだんだんと濃くなっていき、私の頭を満たしていく。視界がぼやけ、触覚がぼやける。橙色の光が遠ざかって、完全に見えなくなるころ、私は意識を手放した。

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