空翔ぶ羽球

サドル・ドーナツ

空翔ぶ羽球

「じゃあ、始めよう」


「いくぞ」


 トォン


 短い呼吸と共にシャトルを打ち出す。ラケットに強く張られたガットが、芯を持った音を響かせる。それはネットを擦れ擦れで越し、思い描いた通りの弧を描いて向こうのコートへと飛んだ。バドミントンにおいて、このガットが奏でる音は重要な意味を持っていて、これを聞けばいかに上手くショットを打てたかが一発で分かる。

 瞬間、ただただ冷たかった体育館の空気が一変する。まだ授業は五時限目で、使われていない体育館は温まっていなかった。そんな中、痺れるような緊張感がどこからか湧いてきて、その最中にいるプレイヤーの呼吸を重く苦しいものにする。体が、明確に試合をし始めたのだ。


 パァンッ!


 向こう側に構える我が好敵手・綾瀬涼子あやせりょうこはその低空飛行する羽根を強く打ち上げる。ネットの遥か上空を飛び、コートの後ろ側に落ちようとしていた。前側で構えていた僕は反射的に背後にステップし、それをまた前へと打ち返す。彼女はそのショットを弱く、ネット際に落とす。すかさず僕は前へ大きく一歩を踏み出し、それを大きくコート後部へと打ち出した。

 綾瀬のスイングは届かず、コート内にシャトルが着地する。僕に一点が入った。


「あっははっ……全然鈍ってないじゃん、バドの腕」


「そっちこそ」


 たった数回のラリーだった。それだけでもさっきまでの寒さはどこかへ行ってしまい、大きくなった体のエンジンの駆動音が耳につく。

 このアクセルふかしたての高揚感がたまらなく好きだ。バドミントン以外のことをどこかへ吹き飛ばしてくれる。頭がクリアになって「楽しい」だけが体に注ぎ込まれていく。


「じゃあ、いくぞ」


 またサーブを打つ。ラリーが始まる。

 高校最後のエキシビションマッチだ。登校日でもないのにわざわざ登校して早めに体育館を開けてもらったのだ。僕は悔いのない戦いをしたかった。



〇<<



 バドミントンは一瞬を繋ぐスポーツだ。

 ネットを挟んでシャトルという羽根の付いたコルクを落とさないように打ち返し合う。噛み砕いていうとルールはこうなる。

 このシンプルな「落とさないように」の一点が、他の球技と一線を画す点でもある。テニスのようにワンバウンドもさせず、バレーのようにトスで味方に繋げることもなく、一撃で真っ直ぐ相手のコートへと送らなければならない。スピーディーな展開の中で僕らは正確なショットを求められている。

 それは会話にも似ている。小さい頃から僕はそう思っていた。

 相手に言葉を届けて、相手もそれを届け返してくる。落とさないように繰り返し繰り返し送り合う、そのラリーを何回も続ける。そしてどこかしらで落としどころをつけるのだ。違いは明確な勝ち負けはないことだろうか。


「変なこと言うなぁ、大井は」


 そんなことを綾瀬に言うと、大いに笑われてしまった。小学生の時のことだった。


「変なことあるかよ。割と真理をついてると思うぜ」


「あんた、いつもそんなこと思いながら試合とか会話してるの? なんか哲学者の成り損ないみたい」


「成り損ないって。お前なぁ」


 幼いころからの真面目な考えだったのだが、それを一蹴されてしまいムッとしてしまった。語気は強くなるし、怒りの表情も浮かんでいたはずだ。それを見て、彼女も慌てて「ごめんごめん」と謝るほどだった。

 それが、その時の試合ゲーム。仲睦まじい会話とは言えないが、それでも友情にヒビが入ることはないとお互い確信していただろう。親友ではないあくまで好敵手だったのだから、ショットが強くなるのは当たり前のことだった。

 いつだってそういう打ち合いをするのが僕たち二人の関係性。馴れ初めさえよく覚えていないようなその腐れ縁は、やはりずっと先まで腐れながらも繋がっていくのだろう。

 考えるまでもなく、そう感じ取っていた——



>>〇



「私さ、向こうの大学行くことにした」


 トンッ


 彼女は、そんな言葉と共にシャトルを放った。


「えっ」


 それまでショットだけが飛び交っていたのだが、唐突に本当の会話が混じったことで僕は動揺してしまった。ネットを飛び越してきた羽根を捉えようとして飛び込み、無様に転んでしまった。一瞬、出遅れてしまったせいでラケットにかすりもしなかった。


「向こうって? どういうことだよ」


 立ち上がりながら聞いた。体の熱は引いて、暖房のぬるい空気が体を撫でる。


「北海道出て、本州のさ、神奈川の大学行くってこと」


 外を見る。大粒の雪が戸や窓のガラスを叩き、さらさらと音が聞こえている。

 この閉ざされた雪国から離れると、そう告げられたことをなかなかうまく呑み込めずにいた。北海道は海に囲まれている、だから一つ県を跨ぐのなら必ず海を渡ることになり、かなりの労力や費用が掛かる。地続きに隣り合っていて、気楽に県を跨げる本州とは勝手が違うのだ。

 僕はここに残る。だから彼女が本州に行くということは、滅多に会えなくなるということに他ならない。今まではいつだって好きな時にバドミントンを出来たというのに、これからは一年に二、三回会えるかどうか分からないのである。

 腐れ縁が、千切れようとしている。その事実が与える喪失感に、僕はしばらく立ち尽くしていた。


「……ほら、羽根拾ってよ。まだ5―7でしょ?」


 落ちたシャトルは死んだ羽根。誰かが拾って打たないと生き返らない。寂しそうに冷たい床に転がるだけだ。

 深いため息と共にそれを軽く打って渡すが、カンと調子外れな固い音を立ててあらぬ方向に飛んでしまい、綾瀬には届かなかった。


「じゃあ打つよー」


 改めて転がるそれを手に取り、彼女がサーブで試合を再開させた。軌道は攻めっ気を見せずにそのまま僕の元へと飛んでくる。


「綾瀬。それいつぐらいから決めてたんだ?」


 言葉を乗せ、打ち返す。そこにさっきまでのスピードは無い。ゆったりとした、繋ぐための打ち合い。


「結構前」


 上へと打ち上がる。落ちるまでだいぶかかって打つのは簡単だが、仰ぐと電灯が眩しくてシャトルを見失いそうになってしまう。


「何で今日まで隠してた?」


 今度は、少し鋭いショットを打つ。丸みのない、直線的なルートでネットを越していく。


「隠してたわけじゃないよ」


 綾瀬のショットはさっきよりも大きく上がる。僕はラケットを構えながら後ろに歩き、跳び——スマッシュを放つ。

 スパァッと鋭く空気を貫く音と共に、目にも止まらぬ速さで鋭角に落ちていく。彼女は飛び込むように腕を伸ばすが、無情にもシャトルは床に叩きつけられた。


「ほんとかよ」


「本当だよ。受からないと思って言ってなかったけども、受かっちゃってさ」


「……そうか」


 シャトルが投げ渡され、今度は僕のサービス


「最後っていうのは、そういうことなのか」


 「体育館を借りて最後の試合をしよう」、そう誘ったのは綾瀬だった。その時はあくまで高校生として最後のという意味だと解釈していた。だが、彼女が北海道を離れるのだとすると、「最後」が持つ重さは全く違ってくる。

 もっと受け止めるのに覚悟がいる重さだ。


「そう。ここから先は色んな手続きで忙しくなる。だから、時間が取れるのはこれが最後だ」


「僕が断ったらどうするつもりだったんだ? 何も言わずに行くつもりだったのか?」


 綾瀬は、至極あっさりと告げてきた。自分の出立や僕との別れを、悲しみと共に噛みしめている様子もなかった。心にも留めていない些事ならば、やはり何も言わずにそうしただろう。

 だが、決して浅くはない友人との別れとは、もう少し特別であるべきなんじゃないだろうか。そう簡単なのだろうか、腐れ縁を切ることは。


「そうかもしれない。直前にメールかなんかで送るだけだったかも」


「……」


 振りかぶって構える腕が、不用意に力んでしまう。

 だが、それがシャトルに乗ることはなかった。大いに空振り、ラケットが空を切る音だけが空しく響く。それを恥ずかしいと感じる暇は僕にはなかった。


「はぁ……そうか、そうかもな、お前ってやつは」


 キーンコーンカーンコーン


 六時限目の締めのチャイムがスピーカーから流れてくる。帰りの学活が始まり、じきに部活動の生徒がここに集まってくるだろう。だから、試合はここで終わりだった。


「点数はそっちの方が多いかな。あー勝てなかったかー」


 正確な数字は数えてくれる人がいなかったせいで分からなかった。ただお互いマッチポイントに達していないことはわかった。

 せめて決着はつけたかったが、そんな時間はもうない。僕たちは去り行く人間、コートはさっさと明け渡すべきなのだ。


「軽く後輩たちに軽く挨拶してから帰ろっか」


「あぁ」


 ネットはそのままに、シャトルとラケットを片付け、僕らは静かに待ち続けた。



〇<<



 軽くのつもりだったが、外が暗くなるくらいに話し込んでしまった。雪は止んでいたが、夜の闇と積雪がひどく気温を下げていて、びりびりと肌が痺れるほどに寒かった。

 街は眩しい。夜空の黒に映える積雪、その浮き上がった純白が街路樹の黄色いイルミネーションを更に際立たせていて目が痛くなりそうな景色だった。光が羽虫のようにうっとおしく視界に入ってきて、騒々しい限りだ。

 僕たちは黙ったまま歩き続けていた。僕は気まずいことこの上ないと感じているが、向こうはどうなのだろうか。何も思っていないのか、それとも僕と同じものを感じているのか、分からない。願望を言うならやはり僕との別れに何かしらの感慨を持っていてほしかった。そうでないと長年一緒にやってきた僕としてはやり切れない。

 言葉を直接投げ掛けるのは苦手だ。変に感情がむき出しになるし、反対にひた隠しにしてしまうことだってある。今は特にそうなってしまいそうだ。

 もっとあの試合を続けたかった。そう、悔やまずにはいられない。


「昔さ、バドミントンとコミュニケーションは似てるって言ってたよね」


 悔やむだけの僕をよそに、彼女は会話を始めた。


「私、あの時は笑ったけども、今になって割と正しかったんじゃないかって思うんだよね」


「なんだよいきなり」


 てっきりお別れの挨拶でもされるかと思ったが、話は僕が昔から思っている哲学崩れの思想の話だった。真面目に考える必要もない、ただの戯言でしかないのだが、それを語る彼女の表情はそうは思っていなかった。


「思いを届けて、受け取る。その繰り返しはやっぱりラリーなんだよね。でもさ、あんたのは直線的っていうか、刹那的すぎるよ」


「刹那的?」


 バドミントンは一瞬を繋げる、そういうスポーツだ。一瞬を逃せばシャトルは零れ落ちてしまう。言葉だって思いだって落とすべきではない。


「人生ってさ、当たり前だけどもバドミントンの一試合とは比べ物にならないんだよ。だから、一瞬が含む時間も相対的に長くなる。思いを打ち込んで、それが返ってくるのがすごく遅れてくることだって、多分あるんだよ」


 彼女はラケットバッグの中を探り、シャトルを一つ取り出した。そして少し駆け、僕から距離を取ってこちらを向いた。


「ねぇ! 大井はさ、また私とバドミントンしたい?」


 そう言って、シャトルをアンダースローで力いっぱい投げる。ふわふわと若干風にあおられながら、白い羽根は夜空に浮いた。


「お、おい!」


 慌ててそれをキャッチする。車道に出たらどうするんだ、と怒鳴ろうとしたが、それは出来なかった。


「返事はまだいらないよ。まだ私の思いはずっと上を飛んでるから。その時が来たら打ち返してよ。大井ならきっと落とさないでしょ?」


 綾瀬は笑っていた。その瞬間に世界が大きくぼやけた。ピントの絞りを解いたように、背景がぼやけ彼女しかはっきりと見えなくなる。木々に絡まる光の粒は滲むように広がって彼女の輝きに還元されていった。

 演劇の舞台が主人公を乗せるように。僕が見る世界の主役が彼女になった。


「あぁ、そうだったのか」


 やっと理解した。彼女は悲しんでも寂しがってもいない——最初からそんなのは意味のないことだったから。

 いつでもは会えないかもしれないが、きっといつかは会える。そう信じているのだ。

 せっかちな僕にはできない考え方だが、彼女がクリアで大きく打ち上げたのなら、ゆっくりと打ち返さざるを得ない。


「……寂しくなるな、綾瀬」


「その寂しさを噛みしめて、他の子に浮気なんかしないようにしなさいな」


 冗談めかして笑う彼女は、手を差し出してきた。僕はそれを握った。それが試合開始の合図なのか、終了の合図なのかは分からない。だが、どちらであったとしても、ゆっくりとでも僕は彼女との試合を続けて行きたかった。いつか、今抱いている感情を整理して彼女に届けるためにも、この羽根は生かし続けなければならない。

 そんな決意を込めた握手だった。

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空翔ぶ羽球 サドル・ドーナツ @sabamiso0822

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