千代姫の雛道具

石束

千代姫の雛道具



 その早春、桃の節句。


 近江彦根藩江戸藩邸奥屋敷は、十五代藩主、井伊直弼の次女千代姫の、讃岐高松藩十二万石への輿入れを翌年四月に控え、晴れやかな喧騒に包まれている。


 庭に向かって明るく開かれた広間を今日飾るのは、顔を写すほどに曇り一つなく磨き上げた黒漆に豪華絢爛な金蒔絵を施した諸道具であるが、それのどれもが、文机に乗るほどの、小さなものだった。

 もちろんこれは、実用の道具ではない。


 古来、大名家では婚礼の際、花嫁が持参する実用の什器に贅をこらすのはもちろんのこと、子孫繁栄をことほぎ、邪を払い魔を絶つための祈りの道具として、婚礼道具をそっくりに模した「雛道具」を作り、これを婚家へ嫁入り道具の「見本」として持参することがあった。

 そして大藩たる彦根藩であるから、見本の雛道具であろうと手を抜かない。

まさに三十五万石の威信をかけた雛道具である。


 一点の揺るぎも隙もない造作に、細かく行き届いた意匠。

 その美麗なこと、また、初々しきこと。見るものをひきつける可憐さにあふれていた。

 今年十二歳になられる姫様はもちろん、ご生母のお静の方まで人目がなければ駆け寄って愛でんばかりに、御目を輝かせておられる。


 ややあって殿上より、「主馬」(しゅめ)と、庭先に控える藩士へ声が掛けられた。

「京へのご用御苦労でした。今後も輿入れまで準備のほど、よろしくたのみますよ」

 はっ。と短く答えて、伏した頭をなお低く、その男、長野主馬は一礼した。


 痩せぎすで色白、眉目は整いながら険はなく、侍とはいっても出自は神社か公家かとみえるような雰囲気を漂わせている。

 事実数年前に彦根藩へ出仕する前は京の公卿、二条家の家士であり、その「つて」もあって、京の商家にも顔が利く。今回も藩公直々の下命で京へ赴き、この雛道具を含む婚礼道具の調達にあたっていた。


「姫様のおんため、またお家のため、御家にふさわしい格式ある調度をお整えいたします。万端、この主馬にお任せくださいませ」

 如才なく、流れるような返答へは、よしなに、と、お静の方は応じて、それから、ほうと一つため息をついた。

「それにしても、思いもかけぬ、今日の日ですね」

 その小さな声は、傅く主馬にだけとどく、嘆声だった。

「………」

 主馬はそれに沈黙で応える。応えながら、その心は十数年前に飛んだ。


 藩公の次女、千代姫は弘化三年(1946)一月の生まれ。生母は側室お静の方、井伊家家臣千田氏の娘である。そしてその時、井伊直弼二十一歳、

 まだ部屋住みの身で、十五年にわたる埋木舎での生活の頃である。将来の展望もなく、藩主たる兄から、厄介者扱いされながら捨扶持を与えられていた。それは嫁いだお静の方にとってもそうで、その娘である千代姫にしても、その将来がどうなるかなど全く見通せなかった。さぞ、不安であったろうと思われる。

 ただ、井伊直弼という人物は閑居しながらも安穏と過ごしたりはしなかった。茶道、和歌、能、剣術と、ありとあらゆる学問芸道へ興味を向けた。そしてそのどれにも上達した。とどまることを自らにも人にも許さない、苛烈で精力に満ちた激しい個性の持ち主だった。

 そして、とくに和歌、そして和歌と深い関係にある『国学』に直弼は打ち込んだ。伊勢松坂の本居宣長が大成したこの学問は、それまで主流であった林家の朱子学に対抗する新たな価値観としてこの時代大きく花開いていた。


 実はのちの井伊家当主、のちの彦根藩主たる井伊直弼と、長野主馬はこの時代に出会っている。彼の二条家出仕前、まだ浪々の身で伊勢や近江の村々をさすらい、地方の名士のもとで寄寓して国学を講じていた頃、評判を聞きつけた直弼が彦根の埋木舎に招いたのだ。

 よほど相性が良かったのだろう。同い年の二人は三日にわたって語りあったという。

 現在の彦根藩における「御系譜編集御用懸」という主馬の立場は、藩主世子の病死にともなって井伊家継嗣として兄の養子となり、その兄の死によって藩主の座についた直弼に望まれた結果である。

 とはいえ、二十人扶持の新参にして軽輩である。歴代の重臣や名門の家士がひしめく彦根藩の中では誰も彼に注目していない。それに、与えられた役目も定まった役割があるわけでもなく、国持ち大名として多忙な直弼の個人的な秘書のような役割。とはいえ、それはそれで、出自不明で根なし草同然だった旅の国学者――『流浪の歌詠み』としては、望外の出世といえた。

 正に「おもえば……」とは、お静の方だけではなく、長野主馬にとっても同じ思いである。あの時代を思いやればこそ「あのお小さかったお姫様」が、と一層感慨深い。


 それゆえに、主馬には、お静の方の思いも痛いほどに分かった。

 転変は人の世の常である。不遇の日々のわずか十年の後にこの春がやってきたのであれば、この満たされた温かな日々がふとした拍子に砕け散ることもまた、あり得ないことではない。

 それが栄耀栄華にはほどとおい、ささやかな、まさしくひな飾りのような婚礼であったとしても――

 

 ああ、この小さな姫様に、ゆるぎない格式と伝統を、譜代筆頭彦根藩にふさわしい出で立ちのしつらえを――。

 そう思えばこそ、多忙な京都出張を縫って、婚礼道具の調達に奔走してきたのである。


「彦根は大藩にございます。加えて讃岐松平家のご当代は殿様ともご昵懇の間柄。千代姫様のご将来には何のご心配もございません」

「そう、ですね」


 春と呼ぶにはまだ早い小春の日和。

 不意に訪れた寒気を振り払うようなお静の方の言葉に、主馬は心中で決意する。


 やらせてなるものか。

 数ならぬ身なれど、この身にかえて。


 ◇◆◇


 徳川譜代の筆頭大名、近江彦根三十五万石、十五代藩主、井伊直弼の娘、千代姫が、讃岐高松十二万石藩主、松平頼聡に嫁いだのは安政五年(1858)四月、十三歳の春。

 婚礼の翌日、つまり安政五年四月二十三日に、直弼は大老に就任している。

 そして、わずか二年後の万延元年(1860)桃の節句の三月三日に、桜田門外で水戸浪士によって暗殺される。 

 千代姫は、実家井伊家の禍いが、婚家の松平家に及ばぬようにとの配慮から、離婚して井伊家に戻った。

 このとき雛道具もいっしょに持ち帰られた。


 その後を主馬は知らない。主馬は通り名で、これを後に改めて長野主膳。


 井伊大老の腹心として京都において情報収集にあたり、将軍継嗣問題ではいち早く一橋派の運動を察知し、水戸密勅事件では事態を察知しえず後手に回るが、公卿や水戸藩の反幕派の粛正に辣腕をふるって、京を震撼せしめた。

 世にいう『安政の大獄』である。長野主膳こそはその実行者であり、彼は大老の死後、彦根藩によって逮捕され斬刑に処せられた。彼のみでなく、井伊大老の形跡は彦根藩内でも一掃された。

 そのような内訌と自浄の末、彦根藩は譜代筆頭でありながら早くに朝廷側について戊辰戦争を戦い、何とか幕末を乗り切り、明治を迎えた。


 明治五年(1872)六月、千代姫二十六歳、有栖川宮家の仲立ちで、もとの松平頼聡と再婚する。

 婚礼道具は明治の時代にふさわしい物が新調された。どんなにか晴れがましく幸せなことだったろうか。


 そして、千代姫の雛道具は彦根に残った。現在も多門櫓に大切に保管されている。

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