九戸政景@

「あ、お魚さん!」



 娘の沙果奈さかなが公園の池の鯉に目を向けて走り出す。池には色とりどりの鯉が悠々と泳いでいて、その姿を沙果奈は目を輝かせながら見ていた。



「ママ、このお魚さん達はなーに?」

「それは鯉っていうのよ。見た目が綺麗なのが多いわよね」

「こい?」

「そうよ。中にはとても綺麗な模様の鯉を育てるために何匹も育ててる人もいるみたいよ」

「へー……」



 沙果奈は相づちを打ちながら鯉を眺める。子供ながらそういうよさがわかるのかと思っていたけれど、よく見ればその視線は一匹の鯉に注がれていた。



「沙果奈、その鯉が気に入ったの?」

「うん……」



 日本の国旗の赤い丸のような模様が中心についた鯉の動きを沙果奈はジッと見ていた。いつか好きな男の子でも出来ればこんな風に見つめるのだろうか。そんな事を思いながら微笑ましくなっていた時、そろそろ帰らないといけない時間になることに気づいた。



「沙果奈、ほら帰るわよ」

「うん……」



 沙果奈は名残惜しそうに答える。そして私に手を引かれながら歩き始めたものの、その視線は変わらず鯉が泳ぐ池に注がれていて、そんなに気に入ったのかと私は驚いていた。



「沙果奈、そんなにあの鯉が気に入ったの?」

「……うん、好き」



 沙果奈はボーッと答える。そんなに好きなら今度鯉の絵でも描かれた何かでも買ってあげようかと思いながらその日は帰った。けれど、沙果奈の様子はその日から変わってしまった。



「ままー」

「んー、どうしたの?」

「鯉さんのところに行きたい」

「え、また?」

「うん」



 時間さえあればあの鯉がいる池に行きたがったのだ。そうじゃなければ画用紙に鯉の絵ばかりを描くし、出来上がったその絵を見てはまるで恋をしているように熱っぽい視線を向けているのだ。明らかにこれは異常だった。



「鯉? 子供には珍しいから興味を引かれてるだけだろ?」



 夫はこう言ってまともに取り合ってくれない。その間にも沙果奈の様子は少しずつおかしくなり、私もおかしくなりそうだった。そしてそんな日々が1ヶ月続いたある日。



「沙果奈? どこにいるの?」



 朝から沙果奈の姿が見えないのだ。どこにいるのかと思いながら探していた時、私はハッとした。あの池だ。あの池に行けばいいはずだ。確証はなかったが、私は池に向かった。すると、池のそばには沙果奈が昨晩着ていたパジャマが置かれていた。



「沙果奈、どこなの?」



 沙果奈を探しながら池に近づく。するとそこには沙果奈が好きな鯉に寄り添うように泳ぐ小さな鯉がいた。その瞬間に悟った。ああ、あの子は鯉に恋するあまりに鯉になってしまったのだと。


 その後、沙果奈は行方不明になり、夫とも不仲になって離婚した。けれど、今でも私はあの池に行って二匹の鯉にエサをやっている。大切な娘とあの子が恋した鯉なのだからそれは当然だろう。そして今日も私は。

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九戸政景@ @2012712

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