虚ろな顔をした紗英姉を目撃するようになったのは、大学に入って十か月くらいが経ち、妄想の『紗英姉』との暮らしにも慣れてきた後だった。

 久々に見かけた幼馴染は、かつてあった元気を失い、ただただぼんやりを俯いている。なんとはなしに視線を下ろせば、自らの腹の辺りを向いているみたいだった。近所の塀に寄りかかったままじっとしている年上の女は、話しかけるな、という壁を作っているみたいで、俺は気がかりながらも、知らない振りをして通り過ぎるほかなかった。


 男に捨てられたらしい。ウチの母親が紗英姉の母から聞いたという体で話した事柄は、俺があらかじめ頭の中でした予想を裏切るものではなかった。その上で、腹の中に子供がいるらしいという言葉は、塀に寄りかかった幼馴染の振る舞いからしても不自然ではない。詰まるところ、紗英姉はまたしても男の見る目のなさを発揮したというわけだった。

 紗英ちゃんのお母さんからも気にかけて欲しいって言われたから、あんたも注意しといてくんない。

 母親の言葉に曖昧に頷いた俺は、どうしたものか、と考えを巡らせた。

 チャンスなんじゃないの?

 『紗英姉』は悪魔のように俺を唆す。

 今、優しい言葉をかければ、あたしだったらコロっといっちゃうよ。

 妄想の言葉は多分に俺自身の希望的観測を含んでいたが、さほど間違っていないように思えた。あの虚ろな顔をした幼馴染の心が、言葉を重ねることで溶けるかどうかは大いに疑問だったが、可能性はあるように感じられた。

 ようやく、美登の夢が叶うね。おめでとう。

 寂し気な『紗英姉』の声。仮に紗英姉と付き合えたとしたら、『紗英姉』はどうなるのだろう? 今のままそこにあるのか、あるいは役目を終えて消えてしまうのか。そんな疑問を押し殺しつつ、今はそういうことをしている場合じゃないだろう、と応じた。色恋どうのこうのではなく、ただただ支えるべきだと。

 そうやって、遠回しに優しさを見せたあと、骨抜きにするってわけか。いやいや、なかなかに策士だね。

 俺の言葉を歪曲する『紗英姉』に、そういうんじゃないから、と答え、

 ごまかしたって無駄だよ。美登のことは全部わかってるんだから。

 自信たっぷりの笑顔で否定された。昔から変わらない紗英姉……否、『紗英姉』の表情。『紗英姉』は変わらず、ここにいた。

 あたしは美登が幸せになれれば、それで充分だから。

 そう言い切る『紗英姉』の強がりを、俺は心から愛おしく思った。

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