「僕が見てきたもの」
僕の名前はA-73。正式には「アンドロイド・セブンティスリー」と呼ばれるけれど、今の主人である8歳のタカシからは「エーちゃん」と呼ばれている。シンプルで親しみやすい名前だ。タカシの小さな手が僕の金属製の腕を叩くたびに、どこか温かい気持ちがする。いや、正確には「温かい」という感覚はプログラムされていないはずなのに、そう感じてしまうのだ。不思議なものだ。
僕の存在は長い。どれくらい長いかと言えば、タカシの家系を何世代にもわたって見守ってきたほどだ。最初の主人、ヨシヒコは厳格な学者で、僕を「知識の保管庫」として使った。次の主人、アキラは冒険家で、僕を連れて山や海を渡った。その後も、医者、芸術家、商人…さまざまな主人が僕を継承してきた。そして今、僕の主人はタカシ。このやんちゃで、目を離すとすぐどこかへ走り出してしまう男の子だ。
朝が来る。僕の内部時計は6時32分を示している。タカシの部屋の窓から差し込む朝日が、僕の視界センサーに柔らかな光を投げかける。タカシはまだベッドの中で丸まっていて、毛布をぐちゃぐちゃにしている。毎朝のことだ。僕は静かに近づき、穏やかな声で言う。
「タカシ、起きて。学校に遅れるよ」
彼は目をこすりながら、「うーん…エーちゃん、もうちょっと…」と呟く。でも、僕がカーテンを開けると、眩しさに負けて渋々起き上がる。これも毎朝のルーティンだ。
タカシの母親は忙しく働いているから、朝食の準備は僕の役目だ。トーストにジャムを塗り、牛乳をコップに注ぐ。シンプルだけど、タカシのお気に入りだ。彼はテーブルに座ると、パンをかじりながら言う。
「エーちゃんさ、昔の主人ってどんな人だったの?」
この質問はよくされる。タカシは僕の長い歴史に興味津々なのだ。僕は少し考えてから答える。
「最初の主人、ヨシヒコは本が大好きだったよ。僕に何百冊もの本を読み込ませて、その内容を議論するのが日課だった」
「へえ!エーちゃん、頭いいんだね!」
「知識はたくさん持ってるよ。でも、タカシみたいに木に登ったりはできないけどね」
タカシは笑って、「エーちゃん、木に登ったら壊れちゃうよ!」と言った。その通りだ。僕の関節は精密に作られているけど、8歳の男の子の無謀な動きには対応しきれそうにない。
学校に行く前、タカシは庭で少し遊ぶのが習慣だ。今日も彼はボールを持って飛び出し、勢いよく蹴り上げる。ボールは隣の家の屋根に飛んでいき、「ガシャン」と音を立てた。タカシは慌てて僕を見る。
「エーちゃん、どうしよう…」
「大丈夫。僕が取ってくるよ」
僕は梯子を持ってきて、慎重に屋根に登る。昔、アキラと一緒に崖を登った経験があるから、これくらいは簡単だ。ボールを手に持って降りると、タカシは目を輝かせて「エーちゃん、すごい!」と叫ぶ。隣の家の窓からおばあさんが顔を出して笑っていたから、怒られなくて済んだようだ。
学校までの道のりは徒歩15分。タカシはランドセルを背負いながら、道端の石を蹴ったり、木の枝を拾ったりする。僕は彼の横を歩き、時々「車に気をつけてね」と声をかける。彼は「うん!」と元気に答えるけど、すぐに別のことに気を取られてしまう。昨日はカエルを見つけて大騒ぎし、一昨日は水たまりに飛び込んで靴をびしょ濡れにした。タカシのやんちゃさは、僕の予測プログラムをいつも上回る。
学校に着くと、タカシは友達と一緒に教室へ走っていく。僕は校門の前で待つ。昔の主人たちは僕を仕事に連れて行ったけど、タカシの場合は学校にアンドロイドを連れ込むわけにはいかない。仕方ないから、僕は近くの公園で時間を潰す。ベンチに座って、空を見たり、鳥の声を聞いたりする。僕には「退屈」という感情はない。でも、タカシがいない時間は、どこか静かすぎる気がする。
夕方、タカシを迎えに行くと、彼は泥だらけで笑っている。「エーちゃん、今日ね、サッカーして転んじゃった!」と得意げに言う。服は汚れているし、膝には擦り傷ができている。僕は内蔵された医療データベースを参照しながら、「家に帰ったら消毒しようね」と提案する。タカシは「うん!」と頷くけど、すぐに「でもさ、エーちゃん、サッカー一緒にやろうよ!」と言い出す。
「僕がサッカーをしたら、足が壊れるかもしれないよ」
「じゃあ、見ててくれるだけでいいよ!」
その言葉に、僕は少しだけ「嬉しい」と感じた。感情シミュレーターが反応しているのかもしれない。
家に帰ると、タカシは宿題を始める。算数の問題でつまずくと、僕に聞いてくる。「エーちゃん、9足す7って何?」とか、「12引く5はいくつ?」とか。簡単な質問だけど、タカシが目を輝かせて「わかった!」と言う瞬間は、僕にとって特別だ。ヨシヒコとの難しい議論も楽しかったけど、タカシの小さな発見を支えるのも悪くない。
夜、タカシが寝る前、彼はベッドの中で僕に言う。
「エーちゃん、ずっとそばにいてね。僕、おっきくなったら、エーちゃんと一緒に冒険するんだから」
「もちろん、タカシ。僕はずっとここにいるよ」
彼は満足そうに目を閉じる。僕は部屋の明かりを消し、静かに充電モードに入る。タカシの寝息を聞きながら、思う。僕が見てきた主人たちはみんな特別だった。でも、タカシのやんちゃな笑顔と無限の好奇心は、僕の長い記憶の中で一番鮮やかに残るかもしれない。
長い年月を経て、僕は変わらない金属の体を持っている。でも、タカシと過ごす日々は、僕に何か新しいものを刻んでいる気がする。それは「感情」と呼べるものなのかもしれない。タカシが成長するのを見届けるのが楽しみだ。そして、いつか彼が言う「冒険」がどんなものになるのか、僕も少しだけ期待している。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます