「目薬と笑顔の小さな日常」

街の喧騒が少し落ち着く夕暮れ時、駅前の小さな公園のベンチに一人スーツ姿の男が座っていた。名前は佐藤健太、32歳。典型的なサラリーマンで、この日も残業を終えて疲れ果てた身体を引きずるように帰路についていた。眼鏡の奥の目は赤く充血し、肩には重そうなビジネスバッグが食い込んでいた。彼はバッグから目薬を取り出し、首を仰いで一滴目を狙った。


「うっ…!」


目薬は見事に額に命中し、目には届かなかった。健太は顔をしかめ、もう一度挑戦する。しかし、今度は鼻の穴に直撃。思わず「ぶはっ」と変な声を出してしまい、周囲の視線を少し感じた気がして慌てて首を縮めた。


「いや、集中しろ、集中…」


三度目の正直を信じ、彼は目を見開いて慎重にボトルを構えた。だが、その瞬間、指が滑り、目薬が勢いよく頬を伝って顎まで落ちていく。健太は深くため息をつき、ベンチに凭れるようにして目を閉じた。「もう無理だ…目が死ぬ…」と呟いたその声は、疲労と諦めで掠れていた。


そんな様子を少し離れた場所から見ていた少女がいた。彼女は派手なピンクのマニキュアに金髪の巻き髪、ミニスカートに厚底ブーツという、いかにも“ギャル”な出で立ちだった。名前は彩花(あやか)、19歳。近くのコンビニでバイトを終えた帰り道、たまたまこの公園を通りかかったのだ。彩花はスマホを手に持ったまま、健太の奮闘をじっと観察していたが、とうとう我慢できなくなったらしい。


「ねえ、おじさん、ちょっと待って!」


軽快な声とともに、彩花が健太の隣にドカッと座った。健太は驚いて目を見開き、「お、おじさん…?」と呟きながら彼女を見た。彩花はニヤリと笑い、健太の手から目薬をひったくるように奪うと、「ほら、やってあげるからじっとしてて!」と言い放った。


「いや、でも…自分でできるし…」


健太が弱々しく抗議するも、彩花は聞く耳を持たない。「できるならもう入ってるでしょーが。ほら、顔上げて!」と強引に健太の顎を掴み、目薬を構えた。健太は抵抗する間もなく、彩花の勢いに押されて目をぱちぱちさせながら顔を仰いだ。


「はい、右目いくよー。動かないでね!」


彩花の手際は意外にも良く、一滴がぴたりと健太の目に落ちた。「おお…!」と小さく感動の声を漏らす健太。続けて左目にも見事に命中させ、彩花は満足そうに「はい、完璧!」と胸を張った。


「…ありがとう。助かったよ」


健太は少し照れながら礼を言い、目をしばたたかせた。目薬のおかげで視界がスッキリし、疲れが少し和らいだ気がした。彩花は「どういたしまして!」と明るく笑い、ベンチにもたれてスマホを弄り始めた。


その日から、二人の奇妙でほのぼのとした日常が始まった。


翌日、同じ時間、同じベンチ。健太がまた目薬を手に持っていると、どこからともなく彩花が現れた。「お、またやってる!昨日教えたのにまだ下手くそなの?」とからかうように笑いながら、彼女はまた健太の隣に座った。


「いや、昨日は助かったけどさ…毎回頼むわけにはいかないだろ」


健太が苦笑いをすると彩花は「いいよ別に!私、こういうの得意だし」とあっさり答えた。そしてまたしても健太から目薬を奪いとり、サクッと両目に滴を入れてしまう。健太は「…お前、目薬のプロか何かか?」と呆れたように呟いたが、内心ではその手際に感心していた。


その後も、二人は夕方の公園で顔を合わせるようになった。健太が残業で疲れてベンチに座っていると、彩花がバイト帰りにふらっと現れる。最初は目薬をきっかけにした会話だったが、次第に他愛もない話題が増えていった。


「今日さ、コンビニで変なお客来たんだよね。アイス買ってそのまま店で食べ始めてさ、マジありえない!」


彩花が笑いながら話すと、健太は「それは確かに変だな…でも、俺の上司も大概だよ。今日、会議中に寝てたのに急に起きて『異議なし!』って叫んだんだぜ」と返す。二人は顔を見合わせて笑い合い、疲れた一日の終わりが少しだけ温かくなった。


ある日、彩花がベンチに座るなり、「ねえ、おじさんってさ、いつも疲れてるよね。仕事そんなに大変なの?」と真剣な顔で尋ねた。健太は少し驚きながら、「まあ…そうだな。残業多いし、上司が厳しいし。でも、慣れちゃってる部分もあるよ」と答えた。


彩花は少し考え込むように黙り、それからポケットから小さな袋を取り出した。「はい、これ」と差し出したのは、コンビニで売ってるような小さなキャンディだった。「疲れたときは甘いもの食べるとちょっと元気出るよ。私、いつもこれ食べてる」と笑う。


健太はキャンディを受け取り、「…ありがとう」と小さく呟いた。袋を開けて一つ口に放り込むと、ほのかなレモンの味が広がり、確かに少し気持ちが軽くなった気がした。「お前、意外と優しいんだな」と言うと、彩花は「何!?意外って失礼じゃん!」とふざけて肩を叩いてきた。


季節が巡り、二人が出会ってから数ヶ月が過ぎた。ある寒い冬の日、健太はいつものようにベンチに座っていたが、彩花の姿はなかった。少し寂しく思いながら目薬を手に持つと、自分でやってみようかとボトルを構えた。すると、背後から「待て待てー!」と聞き慣れた声が響き、彩花が息を切らして走ってきた。


「遅くなった!バイト長引いてさ…って、おじさん、自分でやろうとしてた!?」


彩花は驚いたように目を丸くし、健太から目薬を奪うと「やっぱ私がやってあげる!」と笑った。健太は「もう慣れたから大丈夫だよ」と言いながらも、結局彩花に任せてしまった。


目薬を入れ終わった後、彩花は「ねえ、おじさん」と少し照れくさそうに切り出した。「私さ、この時間好きだよ。おじさんと喋ってると、なんかホッとするっていうか…」


健太は少し驚いて彼女を見たが、すぐに柔らかく笑った。


「俺もだよ。疲れてても、ここで二人で会うと元気が出る」


二人は少し気まずそうに笑い合いながら、冷たい風の中で肩を寄せ合った。


それから二人の日常は続き、健太の目は彩花のおかげで充血することも減った。彩花は健太に「もう目薬要らないじゃん!」と笑い、健太は「いや、予防のために頼むよ」と返す。そんな些細なやりとりが、二人の間に温かい絆を紡いでいった。


街のベンチで始まった小さな出会いは、目薬一滴分のきっかけから、二人にとってかけがえのない時間へと変わっていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る