「灰色の瞳と鱗のヘビ」
佐藤アシトは、薄暗いアパートの片隅で息を引き取った。27歳。過労と孤独が彼の命を削り、最後の瞬間、彼は思う。「人間なんて醜い。欲望と偽善に塗れた生き物だ。もし生まれ変われるなら、もう人間にはなりたくない」。それは祈りとも呪いともつかぬ願いだった。彼の視界は暗闇に溶け、やがて意識は途絶えた。
次に目覚めたとき、アシトは自分が「何か」に変わっていることに気づいた。まず感じたのは、冷たく湿った空気。そして、身体を動かそうとした瞬間、全身を覆う硬い感触と、しなやかな動き。目を開けると、そこは薄暗い森だった。木々の隙間から月光が差し込み、彼の身体を照らし出す。驚愕した彼は、自分の姿を近くの水たまりに映して見た。そこに映っていたのは、人間ではなく、黒と銀の鱗に覆われた巨大な蛇だった。長さは10メートル近くあり、鋭い牙と、灰色の瞳が月光に輝いている。
(これが…俺?)
声を出そうとしたが、喉から出たのは低い唸り声だけだった。人間の言葉はもう発せられない。だが、意識ははっきりと彼自身のものだ。混乱しながらも、彼は状況を受け入れ始めた。どうやらあの願いが聞き届けられ、彼は異世界で蛇として生まれ変わったらしい。
森の中を這い進むうちに、アシトは自分の新しい身体に慣れていった。鱗は驚くほど頑丈で、木の枝や岩にぶつかっても傷一つつかない。鋭い牙は獲物を仕留めるのに十分な力を持ち、舌を伸ばせば風向きや匂いを感じ取れる。人間だった頃の脆弱な肉体とは比べ物にならない力強さだ。「これなら…もう誰かに踏みつけられることはない」。彼はそう思いながら、森の奥へと進んだ。
やがて、彼は小さな集落にたどり着いた。木造の家々が点在し、人間らしき姿がちらりと見える。だが、よく見ると彼らは純粋な人間ではなかった。耳が尖ったエルフのような者、角を生やした獣人、そして小さな翼を持つ妖精のような種族。異世界らしい多様性にアシトは目を奪われたが、同時に警戒心も抱いた。人間ではないとはいえ、彼らもまた欲望や争いを抱えているのではないか?
集落の外れで、彼は一人の少女と出会った。彼女は青い髪と透き通った瞳を持ち、粗末な服をまとっていた。少女はアシトの巨大な姿を見て一瞬怯えたが、すぐに目を輝かせて近づいてきた。「すごい…! こんな立派な蛇、初めて見た!」彼女の声は無邪気で、敵意がないことが伝わってきた。そんな少女にアシトは攻撃する気にはなれず、じっと彼女を見つめた。
「ねえ、あなた、言葉わかる?」
少女がそう尋ねると、アシトは首を振る代わりに、地面に尾で文字を刻んだ。「わかる」。少女は驚きつつも笑顔を見せた。「やっぱり賢いんだ! 私、リナって言うの。ここに住んでるけど、みんなにちょっと怖がられてて…」。彼女は少し寂しそうに目を伏せた。話を聞くと、リナは魔力を生まれつき持つ「魔女の子」と呼ばれ、村人に疎まれているらしい。
アシトは彼女に奇妙な親近感を覚えた。人間だった頃、彼もまた周囲から孤立し、蔑まれることが多かった。過労死する前、職場では使い捨ての駒のように扱われ、誰からも認められなかった。そんな記憶が蘇り、彼はリナを守りたいという衝動に駆られた。「俺が…お前を守る」。そう地面に刻むと、リナは目を丸くして笑った。「ありがとう! じゃあ、私のパートナーになってくれる?」
それから、アシトとリナは行動を共にするようになった。アシトは蛇の姿を活かし、森で襲いかかる魔獣を退けたり、村に近づく盗賊を威嚇して追い払ったりした。リナはその魔力で傷ついた者を癒し、村人たちに少しずつ受け入れられていった。アシトは人間だった頃の醜さ――利己主義や裏切り――をこの世界でも見ることがあったが、リナの純粋さと、彼女を支える一部の村人の優しさに触れるたび、少しずつ心が癒されていった。
ある日、村に危機が訪れた。森の奥から巨大な竜が現れ、村を焼き払おうとしたのだ。竜はアシトよりもはるかに大きく、炎を吐きながら咆哮を上げる。村人たちは逃げ惑い、リナも魔力で対抗しようとしたが、力及ばず魔力切れで倒れてしまう。アシトは怒りに震えた。
(この子を…この場所を壊させるか!)
彼は竜に向かって突進した。蛇の身体はしなやかで素早く、竜の攻撃をかわしながらその首に素早く巻き付く。口を大きく開け鋭い牙を竜の鱗に突き立て、全力で締め上げた。竜は暴れ炎を吐いたが、アシトの鱗はそれを耐え抜く。長い戦いの末、竜は力尽き大きな音をドスンと立て地面に倒れた。
村人たちはアシトを英雄と讃え、リナは涙を流しながら彼に抱きついた。「ありがとう…本当にありがとう」。その言葉に、アシトは初めて「生きる意味」を感じた。人間だった頃、彼は誰にも必要とされず、ただ消耗するだけの存在だった。だが今、彼はこの世界で誰かを守り、誰かに感謝されている。
それから月日が流れ、アシトはリナと共に村に根付いた。蛇の姿は恐れられることもあったが、彼の優しさと強さが伝わり、やがて村の守護者として慕われるようになった。彼は思う。「人間じゃなくて良かった。あの醜さから解放されて、新しい俺が生まれた」。灰色の瞳と鱗を持つ蛇は月夜の下で静かに鱗を輝かせ、リナの歌声を聞きながら穏やかな眠りに落ちていくのだった。
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