桃の花が咲くころに
たれねこ
第1話 桃の花が咲く家
カシャッ――。
スマホのカメラが目の前の景色を切り取った。
撮ったばかりの写真を確認すると、三分咲きといった桜の木が映っていた。
今年の春は近年では珍しいほどに暖かく、昼過ぎの時間を歩いているだけでも軽く汗ばむほどの陽気だった。
スマホの画面を操作して、地図アプリへと切り替える。
「こっちはあんまり通ったことないんだよな」
不安を吐露しながら、ナビが指し示す道を歩き出した。
高校の入学式を数日後に控え、今日は散策を兼ねて、通学路を確認していた。
家からは最寄り駅まで出てバスに乗れば、迷うこともなく通学できる。実際、受験のときもそうやって高校に行った。
受験に合格し、あらためて位置関係を地図で確認してみれば、バスが通らない細い道が多い住宅地を抜ければ、徒歩でも行けそうな距離感だった。
住宅地の中は、できたばかりのような新しい家から、いつからあるのか分からないほどに古い家も立ち並んでいた。そういう統一感のなさがこの地域の歴史みたいでおもしろかった。
そのなかで、とある古民家の塀の上から綺麗な薄いピンクの花をつけた木の枝が伸びているのを見つけた。
「桜……かな?」
近づいて花を見上げると、今日何度か見上げてきた桜とは違っていた。それでもその桜に似た綺麗な花に見惚れてしまい、スマホで写真を撮った。
風に揺れる様も、春のどこかぼやけたような空を背景にしても、古民家と一緒に写しても、どう切り取っても絵になった。
「その桃の花、お気に召しましたか?」
突然背後から声をかけれて、心臓が口から飛び出るのではないかというほどに驚いた。
写真を撮ることや花を見ることに夢中になりすぎていて、人の気配に全く気付けなかった。
おそるおそる振り返ると、重たそうな買い物袋を手にした優しそうな面差しの老夫婦が立っていた。
「すいません。とても綺麗な花だなって思って、写真を撮ったりしていたんです。もしかして、ダメでした?」
「いえいえ、大事にしている桃の木なので、あなたのような若い人の目に止まって、さらには褒められて嬉しい限りで」
老夫が柔らかに微笑みながらそう口にし、桃の花に目を向ける。その言葉や慈しむような視線から、本当に大事にしていることが伝わってくる。
隣に立つ老婦もどこか嬉しそうに笑みを浮かべていて、
「もしよかったら、中に入って見てみませんか?」
そう誘いの言葉を掛けてくれた。
「それはいい。若い人、よかったら、私らのお茶に付き合うと思って、どうかな?」
老夫も言葉を重ね、二人の視線がこちらに向けられる。
正直なところ見知らぬ人の家に上がり込んで、お茶を飲むというのは気が引ける。それでも断るのは心苦しい。
もしかすると桃の木を自慢したいだけなのかもと思うと、ガチャでレアが当たったと見せびらかす友達と同じで、どこか微笑ましい気持ちになった。
「お邪魔でなければ、お言葉に甘えさせてもらいます」
せめてもと思い、買い物袋を持たせてもらう。ずしりと指に食い込むほどの重さを感じるが、老夫はそれをさっきまで汗ひとつかくことなく涼しい顔で持っていた。そのことに面食らいつつも壁沿いに歩いて、立派な
そこで目に入った古民家に目が釘付けになり、足を止めた。
太陽光を受けて白さを際立たせる
庭も広そうで歴史のある名家・旧家なのかもしれない。
「荷物は玄関までで大丈夫ですよ。ありがとう」
老婦は鍵を開け、玄関で荷物を受け取ると家の奥へと消えていった。
「では、庭へ回りましょうか」
老夫に連れられ庭へと向かう。外からは分からなかったが、そこはちょっとした庭園だった。
緑に溢れていて、ところどころに小さな花が咲いており、さらには小さな池もあった。ここだけ周囲の空間から隔絶されていて、空気が澄んでいるような気さえしてくる。
老夫が桃の木の下から、こちらへおいでと優しい表情で手招きしている。
すぐ近くから見上げる桃の花は壮観だった。
咲き狂っている――そうとしか表現する言葉が見当たらないほどに満開で、華やいでいた。
こんなにも花は咲き誇っているのに、不思議なほど桃の花は香りがしなかった。それなのに見ているだけで桃の甘く爽やかな香りが感じられるようだった。
吹き抜ける風の音に、葉鳴りも聞こえてくる。
そのなかで静かに揺れる桃の花を見ているだけで、不思議と心が安らぎ、時間を忘れてずっと見ていられる。
「本当にとても綺麗ですね」
心からの感想がポツリと口から漏れ出た。老婦はそれを聞いて、何も言わず嬉しそうな表情で頷いた。
しばらく桃の花を眺めていると、縁側のガラス戸が開く音が聞こえた。そちらに目をやると、老婦が急須や茶碗を乗せたお盆を置いている姿が見えた。
「お茶にしませんか? 縁側から見る庭や桃の木もいいものですよ」
「はい。ありがとうございます」
縁側に腰かけると、庭を眺めるためだけにあるような場所のように思えた。庭全体が調和して見え、また違った見え方に飽きというのをいっさい感じさせない。
老婦は急須から茶碗にお茶を注いでくれ、柔らかな湯気が立ち上がる。
「今はお出しできるお茶請けはありませんが、どうぞ」
「そこまでしてもらわなくて大丈夫です。じゃあ、いただきます」
出されたお茶は、味が濃いのに渋みはなく、ほのかな甘みがあった。ひとくち飲んで、息を吸うと不思議とすっきりとした風味だけが残っていて、今まで飲んだどんなお茶よりも美味しかった。
「とても美味しいです」
素直な感想に、老婦は陽だまりのような暖かな笑みを返してくれた。
ふと老婦の後ろにある部屋の障子戸がわずかに開いていて、中が見えてしまった。
和室のようで、着物が
「着物……ですか?」
「ええ、よかったら見てみますか?」
老婦はそう言いながら、障子戸を開けた。そこに並べて掛けられていた着物の美しさにまたしても言葉を失った。
黒を基調にところどころ金と白で文様が入った着物と、赤を基調に華やかな文様の入った着物。
「言葉にならないほど綺麗ですね」
「とても大事なものですからね。これらは今日のためにお直ししたり、干したりして準備したものですから」
隣に座った老夫がそう説明してくれた。
「今日のため……ですか?」
「はい。今日は雛祭りなのですから」
「雛祭り? 雛祭りは先月じゃないですか?」
「若い人はそう思うのも無理はありませんね。しかし、本来の雛祭りが行われていたのは旧暦でいまくらいの時期なんですよ。雛祭りを桃の節句と呼ぶでしょう? それは桃の花が咲く時期に行っていたからなんですよ」
老夫は呆れることなく優しい声音で教えてくれた。学びがあり、素直に感心してしまった。
そこで最初に見た二人の姿を思い出し、点と点が繋がり、疑問が湧き出てきた。
「あれ? 着物を用意しているってことは、もしかして誰かいらっしゃるんですか? 先ほども買い物帰りのようでしたし」
「はい。とても大切な方がお見えになる予定になっています」
「そうなんですか? なら、その人が来る前に早く帰ったほうがいいですよね?」
「お気になさらず、ゆっくりと庭や花を見ながら、お茶を楽しんでください」
老夫は優しく
「それでは私は奥の蔵に荷物を取りに行きますので」
そう言い歩き出した背中に、「あの」と声をかけていた。
「どうかしましたか?」
「よかったら手伝わせてもらえませんか? 素敵な庭に招いてくださったばかりか、お茶もごちそうになって、何か少しでも返させてほしいんです」
立ち上がった俺を老夫が真っ直ぐに見つめる。それから老婦と視線を交わしているようだった。
「ここはお言葉に甘えさせてもらいましょうよ」
老婦の言葉に老夫は頷き、俺に再度向き直った。
「そうだね。それでは客人なのに申し訳ないのですが、お手伝いをお願いしてもいいですか?」
「はいっ!」
「ありがとう、お優しい若い人の子――」
その老夫の言葉に引っかかりを覚えたが、今は役に立てることが嬉しくて、深く気に留めることもなかった。
それから老夫に付いて建物に沿って回り込むと奥に蔵が見えた。
蔵を生で見るのが初めてで、つい感嘆の声が漏れてしまったが、老夫は気にせずに蔵の入り口の戸を開けた。
蔵の中には、高い位置にある窓から光が差し込んでいて、空気中の
どこか埃っぽい匂いがするが、不快感がないのは木の香りが混じっているからかもしれない。
老夫の後を付いて階段を上り二階へと上がると、床に若い女性が倒れていた。そのことに気付いて驚くと同時に、振り返った老夫の伸ばした手が額に触れた。
その瞬間に世界は揺らいで、身体に力が入らなくなり床に倒れた。完全に意識が途切れてしまう直前に声が聞こえた気がした。
「すまないね、人の子。少しだけ、その身体を貸してもらうよ――」
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