第2話 竜の墓標
広大なる白砂漠の星落つ彼方に、数日で消えてしまう天幕の町があるという。元は最近滅びた大国の、白砂漠に飲まれてしまった辺境地だ。世界各地からその期間だけそこに人が集まり、ごく小規模な町を築く。交易路からは離れ、水の道からも外れているというのに多くの人が集まってくる。たまたま見つけたものはまるで蜃気楼のような町だったと語る。
たまたま行き会った隊商がその町へ寄るというので、旅人もひとつ話の種に天幕の町を訪れることにした。数日で消えてしまうという噂だったが、思いのほか大きな町となっており感嘆した。商人たちの大市場になっていて、世界各地の商品が集まり、夜遅くまで賑わっているのだった。南の森から北の山、東の海から西の砂漠までありとあらゆるものが置いてある。しかもなんでも、誰でも買い物が出来るのだ。スパイスだって真珠だって許可はいらない。金さえあれば売ってもらえる。薄汚れた旅人だって歓迎される。まるで闇市だ。ここで売られていないものなどないかに思われたが、不思議なことに、水だけは売られていない。なぜなら水は町の中心から、こんこんと湧いているのだ。ちょっと疲れたから休もう、そこらでお茶でも、と思っても茶葉はあるが茶そのものは出てこない。中央に美味しい湧き水があるからね、とこうである。
なんでもこの町はまず、巫女の祈祷から始まるらしい。そして水が湧き出でて、まるでその水の匂いに誘われるように商人たちが集まってくるのだと。その巫女の祈りはそれはすさまじく、砂漠の真ん中にだって雨を降らせて泉を作ると伝え聞く。しかし誰もその巫女の姿を見たことがない。噂ではそのように聞いていたが、町の人間に聞いても笑われるだけだった。真実はとんとわからぬ。けれどこの地方、元々ここにあったかの国では、水といえば女性名詞で語られていた。そして魔法をつかうものもまた女性名詞となる。きっとそういう、言葉遊びの果てだろう、旅人はひとり納得することにした。
疲れはてて喉の渇きを耐えながら、町の中心部にある湧き水までやってきた。水は壊れた円形の、人が数十人ほどは入れそうな直径、おそらくは祭壇だろうか、元々井戸として作られたわけではないだろう浅い石組の内側に、滾々と湧き出でている。浅く、しかも傾いているので水はちょろちょろと漏れ出し、その下にある瓶へと流れ、更にこぼれて器が受けている。もちろんその器からも水はこぼれ、白砂を影の色に染めていた。泉の傍に天幕はなく、人の姿は少ない。ただ石組の傾いた上側には詩人が腰掛け、歌を売っていた。かれの横にある木の器には、世界各地の硬貨や木の実、貝殻、宝石、いろいろなものが入っている。
「おいくらでも、あなたが価値を感じるものを。いくらでも、あなたが価値を感じる歌を」と詩人は歌った。天幕の町ではなんでも売っていると感心しながら、旅人はいちばん馴染みある故郷の硬貨を一枚、投げ入れた。雨が降るのは何故なのか、と詩人が歌い始める。降るはずのない場所に、湧くはずのない場所に、水があるのは何故なのか、と。その疑問をまさに抱いていた旅人は、瓶から受けた水で喉を潤しながら歌に耳を傾けた。
前触れもなく降る雨は竜が死ぬ証だ。大地の下で、海の底で、砂漠の上で、竜が力尽きたのだ。竜は水で出来ている。竜の命が水を捕まえているから、力尽きると水は居場所を失ってしまう。この水が溢れたらどうなる? ――田畑を押し流す濁流になるだろう、山を崩す雪崩を作るだろう、海水は陸に乗り上げ、砂漠は更に干からびる。竜の命が支えていた、水の営みが綻びるから……。詩人は更に歌う。
むかしは竜の居場所を知る魔女がいた。魔女は隠れ里に住んでいて、竜の死期を悟ると墓場まで導いてやっていた。けれど知っているかい、あの大きな戦を! ――あの戦に魔女の隠れ里は巻き込まれてしまった。戦に使われた魔女たちは、祖国を守ったにも関わらず、惨い拷問の末に一人残らず燃やされた。ひどい話、恐ろしい話。でもそう、あの国は……。詩人はもったいつけるように楽器をかき鳴らし、唇を湿らせる。
そう、災厄で滅びてしまった。水が溢れ、川は決壊し、その後に虫が大量発生して田畑を食いつくし、堤の失われた川は機能しなくなり、乾いた大地に転がる虫の死骸を求めて鼠がわいた。鼠が疫病を運んできて! ――どれも四十年に一度はある災厄。しかしそれが一度に押し寄せて、あの国はあっという間に滅びてしまった。そう、もう三十年も前のことだ……。詩人は一度口を閉じ、まるで秘密をささやくようにまた歌い始めた。
実はここに集まる商人たちは、あの国の生き残りたちなのだ。あのとき生き延びたのは、竜の水を飲んだから。あの大戦によって死に場所を失った竜が人々の上に落ちて、竜の血を被った。そうと知らぬうちに。――水の営みが滅びても、竜の血が体内にあるうちは生き延びた。そうしてはっと気がついたら、竜の水の匂いを感じられるようになっていた。天幕の町は、竜の死期がわかる……。詩人はそこで、すっと大きく息を吸って、曲調を戻した。
ああ! 心配しないでくれ、この水は竜の血ではない、ただの水だ。竜は大地へ降りるとき、水の跡を残すのだ。これが甘露、甘露。そう笑って締めくくり、うれしそうに詩人は水を飲む。
不思議な曲調にすっかり前のめりに歌を聴いていた旅人は、急に歌から引き離されたように感じて、少しばかり不満に思った。水を飲もうと器を傾けようとして、すっかり空になっていることに気づく。普段なら一杯で止めておくところ、とめどなく流れる水がもったいないように思われてもう一杯、器に受ける。すると詩人が楽器を撫でるようにつま弾いた。水音のように音が転がり落ちる。
我らは長く生きるだろう、竜の匂いに誘われ、各地から集まり、己の来た地へ戻ることなく、新しい土地へ行くのだ。私の名前を今日知ったとて、明日からは別の名前。私は東から来て、西へ旅立つ。そう、あと五年ほどは西にいるだろう。年を取らぬこともきっと気づかれまい。そろそろ最初に商人となった北へ戻っても、息子だと思ってもらえるかもしれない。私たちは永久に旅人だ。――旅人よ、君ならばわかるだろう。旅は孤独だ。けれど出会いと、今この憩いこそが至高のとき……。詩人は楽器から手を離し、水の入った器を掲げた。
「さあ乾杯しよう、ただの水だがね、これより美味い水はどこへ行ったって存在しない、世界中を旅したものたちが、口をそろえてそう歌う。この水が、なんと無料なのだよ。素晴らしい町だろう?」
旅人は詩人の器と器を合わせ、一杯の水をゆっくりと味わった。甘露と言われてみればたしかに飲んだことのない、体に溶けて染み渡り、すっと消えていくような不思議な水だ。これがもし竜の血だったなら、と旅人の胸にわずかな寂寥と嫉妬が起き上がる。傾き始めたこの体にとって、永久の旅路は望むべくもない果てだ。しかし名前を失い、安息もままならず旅立つのは、今を超える孤独があるに違いない。常に水を待ち、水の匂いに焦がれて。
旅人はもう一枚、鞄の底にしまっていた西の国の硬貨を取り出した。三十年前に滅びた国の硬貨は、未だその価値をもって流通している。なにせ精度がいいし、錆びないし、大国ゆえに硬貨を扱う場所も多かった。すでに国はないというのに、新しく作られなくなった分、価値は上がる一方だ。この一枚も、もっと価値があがるまで懐に暖めて置こうと思っていたものだった。だが、この一杯の水にはその価値があるような気がした。硬貨を詩人の木の器へいれようとすると、詩人はさっと器を引っ込めた。
「この水に、誰も価値をつけられない」
水は無料、それは価値に代わるものがないからだ。そしてそれを所有するものがいないからこそ。
「その硬貨はまだあたためているといい、まだまだ価値は上がるだろう、なにせ作れるものが、失われたのだから」
広げて振るかれの手は、指が数本欠け、酷い火傷の痕があった。そのときふと、旅人は気がついたのだった。竜の血を浴びたのは魔女だったに違いないと。魔女に放たれた火を消そうとして、竜がその上に落ちたのだ。死期を悟った自らの身を代償に。かの国では、竜を女性名詞で呼んだ。それに由来する魔術を、水を。その影響で、魔術を扱うものはすべて魔女だ。そして魔女と呼ばれるものの中には、魔術のように素晴らしい腕前の職人や、まるで魔術のように強い戦士なども含まれたという。人が数十人は入ろうかという石の枠組、この泉の元の姿は、火刑場だったのではなかろうか。大国と竜の栄枯盛衰を思いながら旅人は目を閉じ、透き通る水を喉の奥へと流し込んだのだった。
そうして更ける夜を明かし、次の朝にはほとんどの天幕は片づけられみな思い思いに旅の支度をしていた。昨日までの活気は朝靄のように溶けてほどけ、蜃気楼のように消えゆこうとしていた。
「それではよい旅を、旅人よ、また水の湧く場所で」
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