彷徨する旅人の記

第1話 見えぬ星の道標

 荒涼たる白砂漠の星落つ彼方に、奇妙な町があると聞いたことがある。なんでもその町は水の道を外れた場所にも関わらず、何年も何十年も滅びずに存在するそうだ。小さな集落なので隊商は滞在を断られるが、少数の旅人であれば歓待してくれる。渇き果てて今にも滅びそうな町だが、住人に悲壮感はまったくない。甘い干果をくれて、わずかな水を分け与え、ほとんどない家畜を潰してくれたりもする。そして夜には伝統の踊りを舞ってくれるというのだ。

 そんな話を旅人が思い出したのは、今まさにその歓待を受けているからだった。夜盗に追われて命からがら逃げのびたもののすっかり大地を見失い、星を頼りに歩くにもいったいどれだけ歩けば道へ戻れるやらと途方に暮れた旅人を、その集落は拾い上げて怪聞のままに大事にしてくれた。家畜こそ今はないと肉は出なかったが、まるで石蜜を舐めるように甘い干果を振る舞ってくれた。黒く熟した分厚い花弁のような果実で、これまで味わったことのない食感だったが、大変な美味だった。

 噂を聞いたときにはそんな奇っ怪なる集落があるものかと鼻で笑ったものだが、いや見るは千の言葉に勝るとはいったもの。たしかに白砂漠の何処かには異様に気のいい、ともすれば気の触れたようにすら感じられる集落がたしかに存在したのだった。小さな杯にほんの一口ばかり分け与えられた葡萄酒で口を湿らせながら、しかし旅人は疑心に胸を騒がせてもいた。明日にはこの集落は消えて砂紋の上で目を覚ますのではないか?

 ところが、歓待の舞手が飛び上がったときである。紗帯を器用に風に泳がせて回る舞手の向こう側、ふいに夜空の端が揺らぎ始めたかと思うと、波打ちながら押し寄せてくるものがあった。それは夜よりも深い青藍をしており、また透き通り、ときに面を星のようにきらめかせる。旅人は思わず声を上げた。湖であった。大いに青く澄み巨大なる、湖の幻が、夜の真上に現れたのである。歓喜の声が上がり、舞手はいよいよ独楽のように早く回り始めた。やがて蜃気楼の湖はすっかり夜の縁までを覆い、町はすっかり水底へと沈められてしまった。

 さてこれはいったいいかなる不思議であろうか。しかし訪れた水が幻であることは、旅人が息を出来ることからも明らかだった。一方で旅人は、わずかな水では癒えきらなかった渇きが潤されていることもまた感じていた。それは水のようでいて水ではなく、けれどたしかに水でもある。この不思議について旅人は町のものに尋ねようと腰を上げたが、町人はみな舞い、歌い、そしてあるいは天幕の家々へと姿を消しており、旅人の話を聞いてくれそうなものはひとりもいなかった。旅人は思案した後、たとえどのような不思議であれ、水にありつけたことは僥倖であると己を落ち着かせた。旅の不思議は香辛料と同じで、隠されているくらいがちょうどいい塩梅だと旅人も心得ている。さりとて好奇心の虫は騒ぐもので、諦めきれず首を巡らせていると、赤々と焚かれるひとつの篝火の傍にひとり、火番をする子どもがいるのを見つけた。その子どもは火の明かりに照らされて、金の瞳を輝かせている。

 旅人が子どもに近づくと、おかしなことに気がついた。瞳ばかりか、黒かったはずの髪も、皮膚までも金にきらめいて見えるのである。すぐ傍まで訪れた旅人に気がついて、慌てたように子どもは逃げようとした。しかし手に持った薪を思い出したのか右往左往して、結局その場に留まり、元より小さく座り直した。

「誰にも言わないで」子どもは旅人にささやいた。「擬態がまだ上手くないの」秘密を明かすように言う。

「擬態とはなんだい」

「朝には長老が教えてくれる話よ」

「それでも聞きたい」

 旅人が強く願うと、子どもはおずおずと小さな声で話し始めた。

 われらは砂魚の血を引いている。この青い湖は蜃気楼ではなく、実際にここにある。隠されているのではなく、夜になるといつでも訪れる。われらにとってここは渇き果てた滅びかけの町ではなく、いつでも水に満ちている。われらはとても少ない水で生きていける。水そのものがなくても、砂に潜って水を蓄えた虫や種を食べることで十分だ。なにせ砂を食べるだけでも生きることは出来る。砂を食べずに食べるものがあるのからここは十分な土地なのだ。――と、このように言うのである。

「ではどうしておれにも湖が見えたのか」

「あなたも星を食べたから。甘い干果を食べたでしょう。あれがわれらの星」

 子どもが言うには、星を食べると好ましく思う相手と感覚を共有出来るそうだ。つまり、旅人がこの集落に心を寄せていれば、湖は現れ、渇きを癒すことが出来る。隊商ではこうはいかない。

「心を寄せるものと、寄せないものがいればどうしても差が出てしまう。もしあなたが心を寄せておらず、湖が見えなかったとしても、それはそれで仕方ないこと。でも心を寄せてくれたなら、星はあなたを新たな土地へ旅するまで守ってくれるだろう。われらと結びついたならば、人には感じ得ぬ空の水を感じ取れる。この白砂漠が乾いた砂の海ではなく、足元にひたひたと水の押し寄せる湖の浅瀬だとわかるだろう」

 旅人は、初めは冗談だろうと疑っていたはずの子どもの話に、いつのまにか引き込まれていた。子どものむき出しの腕には金色の鱗がきらきらとまたたき、魚じみて輝いていた。旅人は夜空を見上げた。

「星とはあれか」

 尋ねると、子どもは首を振る。

「砂魚に遠い夜の光は見えない。かわりに大地の星が見える。星は地に成る。地の底からちりちり、からからと光って誘うのだ。水の道を通って花を咲かせる、大きな木だ」

 子どもがいうには、それは水の道に根を広げ、白砂漠のあまねく大地に、星の落つ先まで伸び伸びた巨大な木だという。地中にあり、花が咲くときには、ぽっ、ぽっ、とほどけるような音がするそうだ。旅人はさまざまな植物を思い浮かべてみたが、当てはまる木は存在しなかった。

「その木を見てみたい」

「そこにある」

 子どもの指さす方を見るが、旅人にはわからない。子どもに夜の星がわからないように、星の木は旅人には感じられないようだった。風籟が細波のように鳴りわたり、砂に触れれば雨季の走りを覚える。大地の奥に、たしかな水が感じられる。深く呼吸しても喉がひきつることはなく、嗅いだことのない芳しい香りがする。花のような気もするし、麝香のような、あるいは樹脂のような、乾いて、それでいて瑞々しい果物のような。子どもがあまり話してると怒られてしまうから、と立ち去った後、歓待の宴があけて眠りにつくまで、旅人はずっとその香りをきいていた。

 朝になって、長老から聞いた話に砂魚は出てこなかった。この町は蜃気楼の湖に助けられる町で、あなたのおかげでこの町の寿命も伸びました、ありがとう、あなたにも水の加護を、きっと次の町までたどり着けるでしょう、というような話だ。はたしてどちらが真実なのか。長老の瞳は金ではなく、元は黒かっただろう白髪も金色に輝くことはない。けれどふと目を落とした手に、きらりと金色の光を見た。指先、はがれかかった鱗のような金色を。

 旅人は一夜の歓待に礼を告げ、幾ばくかの金とともに、星を象ったお守りを渡した。

「夜空にある星を目印に旅をしてきたが、次の旅では地の星を探してみます」

 そう告げると、長老は大きな声で笑った。

「どうやらいたずらものがいたようだ」

 土産にと贈ってくれた甘い干果を指して、それが我らの星だと言った。

「あなたにまだ湖が見えるならば、いずれ星も見つけるでしょう」

 旅人は町を離れた。干果を食べても湖が現れることこそなかったが、驚くほど渇きを感じぬ旅路だった。乾いた白砂漠を幾晩も歩き続けるのに、水の一滴も必要としなかった。そればかりか、引き寄せられるように足が勝手に動いた。どういうわけか、往くべき道がわかるのだ。自らもまた砂魚になってしまったのだろうか。旅人が集落を振り返ったとき、ふとあの宴で嗅いだ匂いがよぎった。

 そこには河が横たわっていた。大いなる水がとうとうと流れながら集落から町までの道を繋いでいる。その支流が巨大な本流へと注ぎ、出会う水が飛沫をあげてざざと砂を濡らしていた。次の町まで続く大きな、果てないほど大きな川。なんという偉大な川だろう。旅人は大河に出会って気づく。今まではかろうじて気配として皮膚で感じていたものが、嗅覚を視覚を刺激して押し寄せる。これこそが水の気配。すべてのものが近しく滑らかで、重量を持ってたしかに感じられる。不思議な感覚だった。旅人は大河の流れに足を浸し、そのさらさらと流れる砂と水の息吹にしばし、耳を澄ませた。ぽっ、とどこかで、ほどける音を聞いたような気がした。

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