ロンリーウォーカー

宇貫 雷

ロンリーウォーカー

 13歳の夏、僕は父の実家で奇妙な話を聞いた。


 長期休暇で訪れたのは、テキサスのどこまでも広がる平原にぽつんと建つ祖父の家だった。赤茶けたレンガ造りの平屋。庭には乾いた風に揺れるススキが生い茂り、玄関の前では色褪せた星条旗がはためいていた。


 祖父はロッキングチェアに腰掛け、手元のアイスティーをひと口飲んでから、ぽつりと言った。


「お前くらいの歳の頃、まだ月に住んでいたんだよ」


 僕は思わず祖父の顔を見た。けれど、その表情には冗談めかしたところはなかった。ただ、遠くを眺めるような、静かな目をしていた。


 そして、少し間を置いて続ける。


「月を去る前にね、不思議な幽霊と出会ったんだ」


 ──月面を、たったひとりで彷徨う幽霊。

 それは、宇宙服を着た小さな子供だった。


 祖父はまるで遠い記憶を手繰り寄せるように、ゆっくりと語りはじめた。



 50年前、祖父は第二月面都市から数キロほど離れた月面で写真を撮っていた。成人を迎え、半年後には地球へ移ることになっていた。だからこそ、長年暮らした月の風景を記録に残そうと考えたのだ。


 ローバーを借り、人工の光が届かない静寂の中へと乗り出す。


 月の地表は、白くざらついた砂と無数の岩が広がる世界だった。足元のレゴリスはわずかな衝撃でも舞い上がり、静まり返った星空の下でゆっくりと降り積もる。


 カメラを構え、光の反射や陰影の変化を確かめながら慎重にシャッターを切っていく。


 ──そして、撮影を始めて二時間ほど経った頃。

 祖父は、カメラのファインダーに映る影に気がついた。


 最初は、岩の影だと思った。月面では白い岩々が宇宙の微かな光を受け、奇妙な影を作り出すことがある。何より、こんな場所に子供がいるはずがない。


 けれど、念のため撮影した画像を確認し、拡大してみると、そこに写っていたのは、旧式の宇宙服を着た、小さな人影だった。


 祖父は急いでカメラを再びその方向に向けた。けれど、影はすでに消えていた。


 祖父はすぐにローバーを走らせ、月面都市の自宅へ戻った。帰るなり、息を整える間もなく、祖父の母にこの奇妙な出来事を話した。


 祖父の母は黙って話を聞いていたが、やがて静かに口を開く。


「月面都市にはね、古くから伝わる幽霊の話があるのよ」


 月面開拓の最初期、この地で生まれた子供の中には低重力環境の影響で体の弱い者が多かった。地球で暮らす人々のように強い骨や筋肉を持たず、酸素消費量も異常に少なかった彼らは、生まれながらにして地球へ行くことができない運命を背負っていた。


 それでも、彼らは青い地球に憧れた。地平線の向こうに浮かぶ青白い球体を眺めながら、いつかあの星へ行ってみたいと願った。だが、その夢が叶うことはなかった。彼らは大人になることさえできず、月の都市の片隅で静かに生涯を終えていった。


 そんな子供たちの中に、ひとりだけ願いを諦めきれなかった男の子がいたという。

 死の間際まで、彼は地球を夢見ていた。青い星へ行ける日を待ち望みながら、病室の窓越しに地平線の彼方を見つめ続けていた。


 彼の肉体はやがて月の冷たい土へと還った。しかし、彼の魂はなおも月に留まり、果たせなかった夢を追い続けているという。


 この月の大地を去った後も、彼は地平線の彼方に浮かぶ青い星を目指して歩き続けている。干からびた月の海を、ひとりぼっちで。

 

 そして、彼はときどき、地球を目指す人間の前に姿を現すのだと。


「地球に行くのが怖い?」


 祖父は一瞬、問いの意味を考えた後、すぐに首を横に振った。


「そんなことはないよ」


 祖父の母は微笑み、静かな口調で続けた。


「生まれの星にいながら、その星の美しさを知ることはできないものよ」


 そう言って、窓の向こうを見つめていた。


「星と宇宙の境目……そう、星の渚へと辿り着いた時、やっと生まれの星の美しさを知ることができる。それにね、故郷を離れて初めて見えてくるものがあるものよ。あなたは、それを知らなきゃいけないわ」


 祖父は、母の言葉の意味を噛み締めながら、自分の前に現れた宇宙服を着た子供のことを思ったそうだ。



 ──そして、幽霊の話が終わると、祖父は唐突に僕に尋ねた。


「もし、あの子供が星の渚へ辿り着いた時、彼は何を見たと思う?」


 祖父は唐突にそう尋ねた。

 静かに投げかけられた問いだったが、その響きには妙な重みがあった。


 僕は少し考えて、答えた。


「月が綺麗だってことかな。月面は岩だらけだけど、地球から見たら黄色くて丸くて、綺麗に見えるから」


 祖父はゆっくりと頷いた。

 けれど、その表情はどこか遠く、過去の記憶を辿るような目をしていた。


「ああ、そうだね。星の美しさを見つけることだろう」


 その言葉はどこか虚ろだった。


「だけど、それだけじゃない。あの子供はそこで、見たはずなんだ……」


「何を見たの?」


 僕が尋ねると、祖父は一瞬だけ言葉を探すように間を置いた。そして、静かに、しかし確かな口調で言ったのだ。


「その先に、求めたものが見当たらないことを……」



 そのときの僕は、祖父の言葉の意味を深く考えることはできなかった。

 ただ、祖父がその瞬間だけ、ずっと遠い存在に思えたことを覚えている。


 ──けれど、今なら、あの言葉の意味がわかる気がする。


 地球を目指して歩き続けた小さな影は、星の渚に立ち、知ったのだろう。

 自分の足跡がどこへも続かないことを。

 どれだけ歩いても、地球へと届く道はないことを。


 最初の宇宙飛行士は、宇宙に出て、地球の美しさを語った。

 けれど、そこに神を見つけられなかった。


 科学は人を月へ運び、都市を築いた。

 だが、信仰は変わらず、新たな土地で魂を救う方法を示さなかった。


 宇宙には、すべてを包むような光はなく、

 救いと呼べるものは、最初からどこにもなかったのかもしれない。


 けれど、祖父の見つめた境界線の向こうに、

 彼もまた、同じものを見たはずなんだ。


 ──それでも、地球は青かった、と。

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ロンリーウォーカー 宇貫 雷 @zooey1122

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