声のない音

わんし

声のない音

 佐藤響さとうきょうは、小さな町の静かな通りに住む少年だった。


 耳が聞こえないという彼にとって、世界は常に無音で、目で見て感じることだけが頼りだった。


 両親は離婚し、母親と二人三脚で生きていた。母親は、決して裕福ではなかったが、毎日懸命に働き、響に愛情を注いでくれた。


 それでも、他の子どもたちと同じように遊ぶことができない響は、次第に孤独を感じるようになった。


 彼の住む町は、自然に囲まれた小さな町で、夏になると地元の人々が集まる祭りが開かれる。祭りの賑やかな音や、歌声が響き渡るその日、響はいつものように母親に手を引かれて会場を歩いていた。


 人々の笑顔や楽しそうな声が響いているが、彼にはそれがどんなに素晴らしいものなのか、実感することができなかった。


 祭りの中、響はふと立ち止まった。目の前で、何か特別なことが起こっているようだった。目を凝らして見ると、町の広場の中央で、一人の少女が歌っていた。彼女はギターを手にし、心を込めて歌っていた。その歌声は、他の音と違って、何か強い感情を持っているように感じられた。


 しかし、響にはその声がどんな音なのかはわからなかった。彼女が歌う姿をただ見つめていると、何か胸が熱くなるような気持ちが込み上げてきた。


「何だろう、この感じ…」


 その少女は、加藤光かとうひかりという名前の歌手志望の少女だった。


 祭りの一環として、町の広場で歌のパフォーマンスをしていたのだ。響はその歌に心を奪われ、しばらくの間、彼女の歌う姿から目を離せなかった。音が聞こえなくても、その歌が放つ力強いエネルギーは、響の心に直接触れるような気がした。


 光は歌い終わると、周りの人々から拍手を浴びながら、笑顔を浮かべていた。響は、彼女がそのまま去ってしまう前に思わず声をかけた。


「その歌、すごく…」


 言葉がうまく続かなかったが、光は不思議そうに響を見つめた。


「ありがとう。でも、どうして聞こえなかったの?」


 響は、彼女が自分にどう接するか不安だったが、光は優しく微笑んだ。


「あなた、耳が聞こえないんだね。」


「でも、私、歌が大好きなの。」


「聞こえなくても伝えたいことって、きっとあるんだと思う。」


 その瞬間、響は自分が感じたものが言葉にできるかもしれないと思った。光の言葉が、彼の心に響いたからだ。それから二人は、少しずつ会話をするようになり、友達のように過ごす時間が増えていった。


 その日から、響は光が歌う姿を見続け、彼女の歌に込められた思いを理解しようと努力した。音のない世界に生きる響にとって、光の歌は一つの道しるべのように感じられた。


 音はなくても、心の中でその歌が響く感覚が、彼にとっては何よりも大きな意味を持つようになった。


 彼は、光に触発されて音楽に興味を持ち始めたが、それがどれほど難しいことかはすぐに感じ取った。音楽の世界に足を踏み入れることは、彼の無音の世界から一歩踏み出すことを意味していた。


 しかし、響はその道を歩みたいと思った。彼には何か伝えたいことがあった。


 そして、光と一緒にその思いを伝える方法を見つけたかった。


 響は光とすっかり友達になった。彼女が歌う姿を見ることが日課となり、次第に音楽が響の心に色を添えるようになった。彼は目を閉じて光の歌に合わせて手のひらを空に向け、空気の動きや振動を感じることで、その歌が生み出すエネルギーを感じ取ろうとした。


 音がない世界でどうやって音楽を理解し、伝えることができるのか、響にはその方法がわからなかった。


 しかし、光と過ごす時間が長くなるにつれて、少しずつその答えが見えてきた気がした。


「響、あなたも歌ってみたら?」


 ある日、光はそんな言葉をかけてきた。響は驚いた。自分が歌うなんて、考えたこともなかったからだ。どうして歌うことができるだろう?


 音を聞いたことがない自分に、歌の意味があるのだろうか?


 光はそんな響の気持ちを理解していた。彼女は、歌が音だけではないことを感じ取っていたからだ。歌は声やメロディーだけでなく、その人の思い、気持ち、そして生きる力を伝えるものだと光は信じていた。


 そして、彼女は響がそれを感じ取れる日が来ると確信していた。


「音がなくても、歌には心があるんだよ。」


「あなたの気持ちを伝えるために、歌う方法を見つければいいんだよ。」


 響は光の言葉に深く感動した。自分の心を歌に乗せることができるなら、それがどんな形であれ、伝えたいと思う気持ちはきっと届くと信じた。


 そして、響は初めて光の歌に合わせて、手のひらでリズムを取ることを試みた。音がなくても、その動きから響は何かを感じることができた。光の歌に込められた想いを、自分の中で紡ぎ出すことができるような気がした。


 それからというもの、響は少しずつ歌の世界に触れ、光の歌を理解しようと努めた。彼はその無音の世界の中で、音楽の不思議な力を感じ取り、言葉で伝えきれない思いを歌で表現したいという強い願いを抱くようになった。


 しかし、歌にはその深さと難しさがあった。音を感じることができない響にとって、歌うことは一歩踏み出す勇気が必要なことだった。


 言葉では伝えきれない思いを、どうやって形にすればよいのか—それが響にとっての大きな課題だった。


 そんな日々が続く中で、光は自分の夢を語るようになった。


「私、歌手になりたいんだ。」


「オーディションを受けることに決めたの。」


 光の言葉に響は驚いた。彼女の歌声がオーディションで認められれば、音楽の世界に踏み込むことができる。


 光がその夢を追いかける姿に、響はどこか心が揺さぶられるものを感じていた。彼女の夢が叶うことを心から願いながらも、彼は一つの疑問を抱え続けていた。


 音楽の世界に入りたいと願う光が、果たしてどれほどの困難に直面するのだろうか? 音楽が持つ力を信じている彼女が、その力を信じて進み続けることができるのだろうか—。


 響はその未来が少し不安だった。しかし、何よりも大切なのは、光が持っている夢を応援し続けることだと心に誓った。


「僕も、応援してるよ。君の夢を、ずっと。」


 響はその言葉を胸に、光のためにできる限りのことをしようと決心した。それが、自分の存在をどこまででも支えてくれる光となるのだろうと信じていた。


 光がオーディションを受ける日が近づいてきた。町の広場で行われるそのオーディションは、全国規模の音楽コンテストに繋がる重要なステップだった。


 光はその夢に向かって一歩を踏み出そうとしていた。彼女の歌声には、どこか特別な力があった。響は、彼女の努力を支えるために、できる限りのことをしようと心に決めた。


「頑張って、光。」


 響は心の中で彼女にエールを送った。


 その時、音が聞こえない自分にできる応援は、ただそばにいることだけだと感じていた。言葉を交わすことができても、音楽の世界に触れることができても、響は常にその壁を感じていた。


 オーディションの日、光は会場に向かう準備をしていた。彼女は少し緊張していたが、その瞳には強い決意が宿っていた。


 響も会場に向かう彼女を見送った。彼の胸の中には、これまで感じたことのない不安が広がっていた。音楽の世界に足を踏み入れるための一歩として、光がその舞台に立つことができるのか、それとも何かが彼女を止めるのか。


 響にはその未来がどのように展開するのか分からなかった。


 そして、オーディション当日。


 光が会場に到着すると、彼女は数多くの参加者たちに囲まれ、少し戸惑っていた。だが、彼女はすぐに自分を落ち着け、舞台に立つ準備を整えた。緊張と期待が入り混じる中、彼女の番が来た。


「加藤光さん、どうぞ。」


 舞台に立った光は、息を深く吸い込んでから、ギターを弾きながら歌い始めた。その歌声は、会場全体に広がり、聞く人々を魅了した。


 響はその歌声を感じようと、目を閉じ、彼女の歌に込められた思いを心で感じ取った。光が全身で表現するその歌に、響は深く心を動かされた。


 だが、突然、何かが起こった。


 歌声が途中で途切れた。光の手がギターから離れ、顔を歪めた。


 何かがおかしい。会場の空気が静まり返り、観客たちが不安そうに彼女を見守る中、光はうつむき、顔を押さえた。響もその場でその異変を感じ取った。


「光…?」


 声に出すことはできなかったが、響はその瞬間、何か大きな不安に包まれた。光は舞台の上で、言葉も音も失ったように見えた。


 周りの人々が慌てて駆け寄り、スタッフが光を助けようとしていた。


 数日後、光から連絡があった。


 彼女は事故に遭って、声を失ったのだという。


 歌手としての夢が、一瞬で消え去ってしまったのだ。


 事故後、病院での診察を受けた光は、医師から声を回復させるのは難しいと言われた。その知らせを受けた時、響は何もできない無力さを感じていた。


「もう歌えないのか…?」


 それでも、響は光に会いに行くことにした。彼の心は、ただ彼女を支えたいという一心で動いていた。


 光がどうしても声を取り戻したいと願い、歌手としての夢を追い続けたいと思っていることを、響はよく知っていた。


 だけど、今はその声が戻らないという現実に直面している。


 彼は光の元へ向かいながら、ふと思った。音のない世界に生きる自分が、どうして音楽を信じることができるのか。


 音楽はただの音だけではない。音がなくても、心が通じ合う方法があるのではないかと、彼は気づき始めていた。


「光…君は、歌えなくてもきっと大丈夫だよ。」


 響は心の中でそう呟いた。音がない世界でも、伝えられることがあると信じているから。


 響は光が入院している病院に着くと、静かな廊下を歩きながら心の中で何度も自分に言い聞かせた。何かを伝えなければならない、それは言葉ではなく、心で通じる何かだと。彼女がどんなに苦しんでいるのか、どれほど自分の夢が打ち砕かれたのか、響は十分に感じ取っていた。


 しかし、今の自分にできることは、光を支え、彼女に新たな希望を与えることだけだと強く感じていた。


 病室に入ると、光はベッドに横たわり、静かに窓の外を見つめていた。


 彼女の表情は疲れきっていて、どこか遠くを見つめるような瞳をしていた。響はその姿を見て、胸が痛くなるのを感じた。


「光…」


 響が声をかけると、光はゆっくりと顔を上げた。彼女の目は少し驚いたように見えたが、すぐにその瞳に微かな光が戻った。


「響…。来てくれたんだ。」


「もちろんだよ。君のことを支えたいから。」


 響は、言葉よりもその温かい手を光の手にそっと重ねた。言葉にしなくても、今この瞬間に伝わるものがあるように感じた。


 光は静かに息をつき、そしてふっと笑顔を見せた。


「ありがとう…。でも、もう歌えないんだよね…。」


 光の言葉は、まるで全てを諦めたような響きを持っていた。彼女がどれほどその夢に執着していたのか、それを理解している響には、光の言葉がどれほど辛いものか痛いほど分かった。


「光、僕も思うんだ。音がない世界で生きてきた僕には、音楽がどんなものか分からなかった。」


「でも、君の歌を聞いて、僕は分かってきたんだ。音楽って、音だけじゃないんだよ。」


 光はその言葉に驚いたように目を見開いた。響は続けた。


「僕は、音を聞くことができない。でも、君が歌うとき、その歌が心に響くんだ。」


「音がなくても、心で感じることができる。だから、君も歌えなくても、心で歌うことはできるんじゃないかなって思うんだ。」


 響はその言葉を信じていた。音楽は音だけではなく、心で感じるものだと。光が歌えなくても、彼女の中にある思いや感情は、きっと何かの形で伝わると信じていた。


 光はしばらく黙って考え込み、その後、ゆっくりと口を開いた。


「でも、どうやって?」


「君が歌えないなら、僕が教えるよ。」


 響はそう言うと、光に手を差し伸べた。音のない世界で育った彼が、どうしてそれを教えることができるのだろうか。


 答えはシンプルだ。


 心で感じ、心で伝える方法を、彼は少しずつ学んできたからだ。


 そして、今それを光に教えることで、二人の夢を一緒に作り上げていきたいと思ったからだ。


「僕が君の歌を感じるように、君も僕の感覚を感じてみてほしい。」


 響は光に微笑みながら言った。光は驚きとともにその手を取った。


 そして、彼女は目を閉じ、響の手のひらに耳を当ててみた。音はなくても、その手から伝わる温かさ、鼓動、そして響が持つ不思議な感覚が彼女の心に届くようだった。


「どう? 何か感じる?」


「うん…なんだか、響の気持ちが伝わってくる気がする。」


 光の顔に、少しずつ明るさが戻ってきた。その瞬間、響は確信した。二人が一緒に歩む道は、必ずしも音楽の形を取らなくてもいい。


 ただお互いを信じ、心で通じ合うことができれば、それが本当の「歌」だと。


 数ヶ月後、光は再び舞台に立った。しかし今度は、彼女が歌うのではなく、響と一緒に心で作り上げた音楽を、二人で表現する舞台だった。


 光は手話を使い、響は振動や感覚を感じながらリズムを取った。音がなくても、二人の間にある強い絆と、伝えたいという気持ちが会場中に響いた。


 その瞬間、音のない世界でも心が通じ合うことができるのだと、全ての人々が感じた。


 舞台が終わり、二人は肩を並べて立った。光は涙を流しながら、響に言った。


「ありがとう…。響、あなたがいてくれて、私はもう一度、歌っている気がする。」


 響は微笑みながら答えた。


「僕もだよ。音のない世界でも、心で通じ合えるんだ。」


 二人の夢は、音のない世界でも実現した。音がなくても、伝え合えるものがある。


 それを証明した二人の物語は、永遠に続いていくことだろう。

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