ヴェサリウスの鎮魂花(公募用改稿版)

阿々 亜

プロローグ

 胃が痛い。

 倉田莉緒くらた りおはそう思いながら、病棟に続く廊下を歩いていた。速足で歩いているため、ゆるくウェーブのかかったミディアムショートの髪と白衣の裾が、足音に合わせて揺れている。目鼻立ちのくっきりとした美人だが、今、その表情は険しい。

 どうも、最近胃が痛い。働き過ぎで潰瘍でもできたかな? GF(胃カメラ)受けたほうがいいかな?

 そんなことを考えているうちに、目的の病室の前についた。その病室は人と物でごった返していた。病室の入口には赤い救急カートが置かれており、病室内では若い男性医師と複数人の看護師が緊迫した声でやり取りをしている。ベッド上には60代の男性患者が寝ており、酸素マスクを装着して、ぜえぜえと苦しそうに息をしている。ベッドサイドに置かれたモニターはずっとけたたましいアラームが鳴っている。莉緒が病室に入ると、若い男性医師が安堵の表情を浮かべる。

「ああ、倉田先生!!」

「状況は?」

 体中から焦りがにじみ出ている男性医師とは対照的に、莉緒は静かな声でそう問うた。

「67歳男性。昨日、肺炎で入院になった方です。入院時の酸素化は、ルームエアで94%だったんですが、夜間の間にどんどん酸素が下がり、現在は10リットル・リザーバーで85%です」

 男性医師は慌てながらも簡潔に状況を説明し、莉緒はさらに質問していく。

「画像は?」

「これが昨日で、これがたった今ポータブルで撮ったものです」

 男性医師はそう言って、タブレット端末に表示されたレントゲン画像を見せる。昨日のレントゲンは右側の肺の一部に白い影がある程度だが、今日のレントゲンは両側が真っ白だった。

「心疾患の既往は? あとBNPは測ってる?」

「心臓の既往はありません。BNPは正常範囲内です」

「まさか、コヴィッドなんてことはないわよね?」

「抗原定量で昨日も今日もカットオフ以下です。それに尿中肺炎球菌抗原が陽性だったので、起因菌は肺炎球菌でまず間違いないと思います」

「てことは、肺炎球菌肺炎に起因するARDS(急性呼吸窮迫症候群)ってことになるわね」

「今、MEセンターからハイフローネーザルを持ってきてもらってます」

「ハイフローじゃダメよ。これは挿管しないと。ARDSでも67歳なら十分助かる可能性はある。患者さんの名前は?」

「永森さんです」

 莉緒は患者の耳元でゆっくりと話しかけた。

「永森さん。私は呼吸器内科の倉田といいます。永森さんの肺炎は今とても重症で命に関わる状況です。ですが、重症の間だけ口から肺にチューブを通し人工呼吸器を使えば乗り切ることができると思います。その間、鎮静薬を使って寝ていただきます。命が助かるのに一番確実な方法です。そのように処置させて頂いてよろしいですか?」

 患者は息も絶え絶えながら、首を振って了解の意を示した。

「ありがとうございます」

 莉緒は患者に礼を言い、周囲に向けてこれからの処置に必要なものを次々に指示していく。鎮静薬、バッグバルブマスク、気管挿管チューブ、喉頭鏡、etc……準備が整い、莉緒は患者の頭側に立った。

 あー、胃が痛い。やっぱり、明日にでもGF受けよう。

 莉緒はそう思いながらも、周囲に指示を出していく。

「ドルミカム2㎎ iv、そのあと時間2㎎で持続」

 男性医師が点滴の側管から鎮静薬を注射し、2分ほどで患者は目を閉じた。呼吸が浅くなり、莉緒はバッグバルブマスクで呼吸を補助する。十分に鎮静がかかっていることを確認し、バッグバルブマスクを外し、喉頭鏡を患者の口腔内に挿入し、中を覗く。

「声帯確認。挿管チューブ」

 莉緒の真横に立っていた看護師が、莉緒の右手にチューブを渡す。莉緒はチューブをするすると口腔内に進める。

「声帯通過。スタイレット抜去」

「カフ注入。10cc」

「聴診器」

「胃泡音なし、前胸部左右差なし、側胸部左右差なし」

「呼吸器装着。モードはPCV、吸気圧8、PEEP4、呼吸回数12。ETCO2モニターをつけて。あと、確認のポータブルを呼んで」

 流れるように処置が完了し、モニターに表示される酸素飽和度は80%台前半から90%台後半まで上がっていた。

「ありがとうございます。倉田先生」

 男性医師は安心しきった表情で礼を言った。

「勝負はこれからよ。痰のグラム染色で本当に肺炎球菌でいいのかかくに……」

 莉緒はそこまで言いかけて言葉を止める。

 やば、いよいよ痛い。

 胃に強い痛みを感じ、心窩部を押さえ苦悶の表情を浮かべる。

「倉田先生、大丈夫ですか?」

 尋常ではない様子に、男性医師はおろおろしながら声をかける。

「ちょっと……これは……マジで、ヤバいかも……」

 そうして、莉緒はどさりとその場に倒れた。

 

 は目を覚ました。体を起こし、あたりを見回す。木製の家屋の一室。電気も水道もない部屋。木製の窓の隙間から朝日の光が漏れ出ている。寝ぼけている頭がだんだんとはっきりしてくる。

 あー、の夢かー。

 リオは自分の置かれた状況を思い出し、落胆する。はぁとため息をついて、ベッドから立ち上がり、窓を開ける。外から太陽の光が一気に入ってきて、リオの金色の長い髪と青い瞳が輝く。そこに広がっていたのは、小高い山々に囲まれた小さな街だった。建物は全て木と石でできており、道は舗装されておらず、街の中央に井戸があり、住民たちが水を汲むために列をなしている。自動車は一台も見当たらず、そこかしこに馬が繋がれている。

 ここは、日本ではない。 ここは、21世紀でもない。 ここは、地球ですらない。 ここは、だ。

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