摘んでもいない花

元気モリ子

摘んでもいない花

私はおしっこに行きたい時、「おしっこに行ってくる」と言い残し、その場を立ち去る。


よく母や職場の上司などから、「もう大人やねんから、おしっことか言いなさんな!」と注意されてきた。

男の先輩には、「そんなことを言っているからモテない」などと揶揄されてきた。


なら何と言えば良いのか。

「しょんべん行ってくる」は、あまりにもあまり過ぎるだろう。


皆は何と言う。

「お手洗いに行ってきます」

「トイレ行ってくるわ」


この辺りが代表格であろう。

もちろん私だって、場をわきまえて「ちょっとお手洗いに…(微笑み)」なんて言うことも出来る。

(何が楽しくて皆微笑むのか)

まぁどれだけ格好を付けようが、結局のところ皆便所へ馳せ参じるのだ。


私は正直、この2つのセリフの方がよっぽど恥ずかしい。

なぜなら、この2つには「うんこをする可能性」も含まれているからだ。

私はこの可能性を残すのが悔しい。

悔しくてたまらない。


例えば、「トイレに行ってくる」と言って帰りが遅いと、「なんだ、うんこか」と心の中で思われてしまう。

しかし、「おしっこに行ってくる」と言って帰りが遅いとなると、「おしっこをした後に、身だしなみも整えているのかな」となる。

伝わるだろうか。

「トイレに行ってくる」には、してもいないうんこをしたことにされる危険性が孕んでいるのだ。


これを許して良い訳がない。

だって私はうんこをしていないのだから!


便所ですることなんてたかが知れている。

みんな扉を一枚隔てた向こうで、あのふたつに割れた尻を出しているのだ。

なのにそれを隠して隠して、トイレと言ってみたり、化粧室と言ってみたり、お手洗いと言ってみたり、お花摘みなんて言ってみたりするわけだ。

単なる尻出し部屋ではないか。


何が恥ずかしいのか知らないが、そんな手前のところで濁すから、してもいないうんこをしたことにされるのだ。

悔しくはないのか。


私は何度も悔しい思いをしてきた。

「ちょっとお手洗いに…」などと言って席を立った日には、光の速度で用を足す必要がある。

うんこではありえないスピードで帰還しない限り、してもいないうんこをしたことにされてしまう。


予想外に混んでいたり、大荷物に手こずったり、時間を要してしまった際には、猛ダッシュで便所を出て、「すいません!なんか!凄い混んでて!はい!凄い混んでて!」などと饒舌に弁解し、余計に「今まさにうんこをしてきた奴」の様になってしまう。


こんな大きなストレスを抱えるくらいなら、私は「おしっこに行ってきます☆」と明瞭に伝え、風吹く草原の真ん中でピクニックをするかの如く用を足したい。

それが人ってもんだ。



排泄は人生の基本である。

これはスピリチュアルではなく生理的事実である。

腹を壊していて余裕のある人がいるか?

おしっこを我慢しながら良い仕事ができるか?

これは私が29年間生きてきて学んだ、大きな大きな本質である。


本当であれば便所ぐらい好きに行かせて欲しい。

しかしそうもいかないのが現実であり、これは飲み込まざるを得ない私たちの現状でもある。

ならば便所に居る時ぐらい、雑な懸念を捨てる努力をする必要があるのだ。


言葉ひとつで、身に覚えのない花を摘まされることになる。

君はそれで良いのか?

知らず知らずのうちに、大量の花を背負って生きていくことになっても良いのか?


私は君を、そうはさせない。

さぁ、花を捨てて、さぁ、こちらへ。



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摘んでもいない花 元気モリ子 @moriko0201

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