主婦ですが、探偵始めました
白河 隼
第1話 専業主婦 橘優衣
午前七時。橘優衣(たちばな ゆい)は、息子の拓海を小学校へ送り出すための準備を始める。
「たっくん、朝ですよ~。おはよ~」
優衣はふわりとした声で囁きながら、布団の中に丸まっている拓海の背中を優しくさすった。
「んー……まだねむいー……」
「もうお日さま、ぴっかぴかだよ。ほら、たっくんの大好きなアンペンマンもテーブルで待ってるから、起きましょうね~」
小さな体がもぞもぞと動く。優衣はクスリと笑いながら、拓海の髪をなでた。
「もう、お顔ぺったんして起こしちゃうぞ~」
「やだぁ~!」
そう言いながらも、拓海は目をこすりながらようやく布団から抜け出した。
「ほんとに、アンペンマンが待ってる……!すごーい!」
ぱちぱちと手を叩く拓海を見て、優衣は幸せな気持ちでフライパンを温めた。
朝食を済ませると、制服に着替えた拓海のランドセルを優しく背負わせ、玄関でしゃがみこむ。
「たっくん、気をつけてね。応援してるね~」
「うん!いってきまーす!」
元気よく手を振りながら走り出す息子の背中を見送り、優衣は小さく息をついた。
時計を見ると、午前八時。ここからは自分の時間だ。
「はあ……親ばかなのかしら……さすがに小学生に入ったし甘やかしすぎかしら……」
キッチンの片付けを済ませ、軽く掃除をし、コーヒーを淹れる。
「まあ、息子は人生最後の彼氏っていうくらいだし、まだまだ甘々でいいわよね……!」
M&Aのプロフェッショナルとして外資系金融機関で働いていた20代の頃は、こんな穏やかな朝が来るとは思わなかった。
結婚を機に退職し、専業主婦としての生活にも慣れた今、ようやく自分のプライベートをゆっくりと味わえるようになった実感がある。
夫の涼介は現在、海外に長期出張中で家を空けている。リビングには静寂が広がり、久しぶりの自由な時間が訪れていた。
優衣は、お気に入りのカフェへと向かう。
近所の商店街にある静かなカフェ。いつも頼むモーニングセットとともに、持参した本を開く。
「ほんと、理想的で穏やかな一日ね」
そう思いながらコーヒーを口に運んだ、その時だった。
「おはようございます、橘さん」
不意に低く落ち着いた声が聞こえた。
顔を上げると、そこに立っていたのはスーツ姿の男性――宮嶋直樹(みやじま なおき)だった。
「おや、宮島さん。珍しいですね、こんなところで」
優衣は驚いた様子を見せながらも、穏やかに微笑んだ。
「ご無沙汰しております。いや、この前のお祭りではありがとうございました……!一人で酔っぱらっちゃってましたね、後片付けお願いしちゃってたようでその節はご迷惑をお掛けしました。」
「ふふっ、次の日を気にせず飲めるのも若い頃までなので、私は良いと思いますよ。」
宮嶋は照れながら頷いた後、真剣な表情に戻ると、少し迷った様子で彼女の前に座る。
「……あの、お時間少しよろしいでしょうか?」
「どうしたんですか?」
「実は、橘さんにお願いしたいことがあるんです」
「お願い?」
「ええ。昨夜、高級ホテルのスイートルームでIT企業の社長が銃殺されまして。密室状態で、現場にあった銃は被害者の手の中に。外部からの侵入や脱出の痕跡は一切なかったんです」
優衣の眉がわずかに動いた。
「おや、事件の話ですか?……つまり、自殺に見える状況ですね?」
「突然すみません、そうです。しかし、第一発見者である秘書の証言が奇妙なんです。彼は『22時に銃声を聞いた』と言っていますが、司法解剖では死亡推定時刻は21時半ごろとされている。時間の食い違いがどうしても気になって」
優衣はコーヒーを一口飲みながら、静かに資料をめくった。
「それで……どうして私に?」
宮嶋は少し言いづらそうに目を泳がせた後、苦笑しながら言った。
「数か月前のお祭りのとき、橘さん、謎解きゲームに参加されていましたよね?」
「ああ……はい、しましたね。拓海の前だったので、良いところを見せたくて少し本気を出してしまいました……」
宮嶋は苦笑しながら続けた。
「実はあの時、私も参加していたんです。でも、橘さんが驚異的なスピードで全問正解しているのを見て、ただただ唖然としましたよ。周りの人も『天才だ』と騒いでいました」
「そんな大げさな」
「さらに、その時に周りの方々が噂しているのを聞いたんです。橘さん、あの名門の京東大学を首席で卒業されて、世界有数の外資系金融機関で不正会計を暴きまくっていたとか?」
「誇張されていますが……まぁ、そんな感じです」
優衣は微笑んだが、どこか気まずそうな表情だった。
「正直、ダメもとなんですが……もしよかったら、今回の事件、少しだけでもアドバイスをいただけませんか?」
宮嶋の真剣な眼差しに、優衣はしばらく考えた。
「……私は探偵でも刑事でもないですよ?あまり、お役に立てないと思いますが。 」
「いえ、警察は時として思考が凝り固まってしまう。第三者の視点で事件を見てもらうことで、新たな可能性が見えてくるかもしれません」
「……」
優衣は時計をちらりと見た。午後3時には拓海を学童へ迎えに行く予定がある。
「……5時間だけなら」
「えっ?」
「それまでに終わるなら、少しだけ付き合います」
宮嶋の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか? ありがとうございます!」
「でも、私は正式な捜査には関われませんよね」
「そこは知り合いの探偵のつてでどうにかします。では、早速、現場へ向かいましょう」
優衣はコーヒーを飲み干し、バッグを手に取る。
「探偵ね……まあ、案外楽しかったり……。」
心の奥底にある好奇心が、静かに疼き始めていた。
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