堕ちた先で

須藤淳

第1話

聡太は夢の中に立っていた。

そこには、見たこともないほど美しく、冷たい微笑を浮かべた悪魔がいた。


「あなたは、俺の願いを叶えてくれますか?」

聡太が真剣な眼差しで悪魔と対峙する。


悪魔はゆっくりと聡太に近づき、まるで慈しむように囁く。

「お前の恋人、美琴の病を治すことができる。ただし、代償として、お前の魂は壊れ、美琴のことを忘れることになる。」


美琴は、不治の病に侵されていた。

日に日に痩せていく体。青白い顔。細くなった指先。

聡太は迷わず言った。

「それでもいい。美琴を救ってくれ。」


美琴が生きられるなら、それでいい。

悪魔が手を振ると、聡太の意識はふっと途切れた。


一方、美琴もまた、夢の中で悪魔と向き合っていた。


「私が死んだあと、聡太が悲しまないようにしてほしい。彼の中から、私の記憶を消してほしい。」

苦しそうに微笑む美琴を、悪魔は楽しげに見つめる。


「お前が死ぬまで待つのは退屈だ。少しずつ、彼の記憶を消していくことならできる」

美琴は一瞬、迷った。

けれど、聡太が悲しみの中で生きるよりは、その方がいい。


「それでいい。聡太には幸せになってほしい。」

夢は静かに終わり、美琴は目を覚ました。



奇跡のように、美琴の病は快方に向かっていった。

だが、それと引き換えに、聡太の中から美琴の存在は少しずつ薄れていった。


最初は些細な違和感だった。


美琴の好きな花が思い出せない。

美琴が好きだった料理の味が、どうしても思い出せない。

美琴の声が、遠く感じる。


やがて、彼女の顔を見ても、何も感じなくなった。


そして美琴が完全に回復したとき、聡太の記憶から彼女は完全に消えていた。

美琴がどれだけ名前を呼んでも、聡太は振り向かず、虚ろな瞳で宙を見つめるだけだった。


「聡太の魂は……壊れてしまったの?」

彼の瞳には、もう何の色も映らなくなっていた。



「こんなこと、願ってない……!」


美琴は再び夢の中へ逃げ込んだ。

そこには、あの悪魔が待っていた。

「また会えたね。今度は何を願う?」


美琴は涙を流しながら叫ぶ。

「私は死んでもいい! 聡太の魂を戻して!」


悪魔はおかしそうに笑う。

「聡太の願いを無碍にするものではないよ。」


彼は楽しげに言葉を続ける。

「二度目の願いは特別なものになる。輪廻の輪から外れてもいいのなら、その願いを叶えよう。」


美琴は戸惑った。

「輪廻の……外?」


「そうだ。そこは何もない、孤独で暗い世界。苦しみしかない場所だ。人間が耐えられるような場所ではない。

 だが、そんな場所にわざわざ堕ちなくとも、輪廻を繰り返せば、いつかまた聡太に会える未来があるかもしれないよ。」


諭すように悪魔は言うが、美琴は大きく頭を振って叫ぶ。

「確約されていない未来を信じて、今苦しんでいる聡太を放っておくことなんてできない!お願いです。聡太を救ってください!」


迷わず答えた美琴に、悪魔は満足げに微笑む。

「人間は面白いね。」


その瞬間、契約が結ばれた。

美琴の体は闇に溶けていった。



聡太は突然、全てを思い出した。


美琴のこと。

美琴への想い。

美琴の願い。


だが、目を開けても、美琴はどこにもいなかった。


聡太は悪魔を探し、夢の中で問いただす。

「美琴はどこだ!?」


悪魔は満足そうに微笑んだ。

「もうどこにもいない。輪廻の外に落ちた。」


聡太は膝をつき、虚空を見つめた。

美琴のいない世界で、生きる意味があるのか?


彼は静かに囁いた。

「俺を美琴のいる世界に連れて行って。」


悪魔は愉快そうに微笑んだ。

「本当にお前たちは面白いね。」



聡太と美琴は、輪廻の外れた世界に堕ちた。


そこは、光も希望もない、ただ二人だけの世界。


聡太は美琴の手らしいものを握る。

美琴もまた、聡太のようなものを抱きしめる。

体温も肉体も感情も魂も輪郭もない、かつて二人だったものがそこにある。


何もない世界でも、何も感じられなくても、二人が共にある限り、それがすべてだった。


——これは、狂おしいほど純粋な愛の果ての、美しく、残酷な物語。

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堕ちた先で 須藤淳 @nyotyutyotye

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