堕ちた先で
須藤淳
第1話
聡太は夢の中に立っていた。
そこには、見たこともないほど美しく、冷たい微笑を浮かべた悪魔がいた。
「あなたは、俺の願いを叶えてくれますか?」
聡太が真剣な眼差しで悪魔と対峙する。
悪魔はゆっくりと聡太に近づき、まるで慈しむように囁く。
「お前の恋人、美琴の病を治すことができる。ただし、代償として、お前の魂は壊れ、美琴のことを忘れることになる。」
美琴は、不治の病に侵されていた。
日に日に痩せていく体。青白い顔。細くなった指先。
聡太は迷わず言った。
「それでもいい。美琴を救ってくれ。」
美琴が生きられるなら、それでいい。
悪魔が手を振ると、聡太の意識はふっと途切れた。
一方、美琴もまた、夢の中で悪魔と向き合っていた。
「私が死んだあと、聡太が悲しまないようにしてほしい。彼の中から、私の記憶を消してほしい。」
苦しそうに微笑む美琴を、悪魔は楽しげに見つめる。
「お前が死ぬまで待つのは退屈だ。少しずつ、彼の記憶を消していくことならできる」
美琴は一瞬、迷った。
けれど、聡太が悲しみの中で生きるよりは、その方がいい。
「それでいい。聡太には幸せになってほしい。」
夢は静かに終わり、美琴は目を覚ました。
◆
奇跡のように、美琴の病は快方に向かっていった。
だが、それと引き換えに、聡太の中から美琴の存在は少しずつ薄れていった。
最初は些細な違和感だった。
美琴の好きな花が思い出せない。
美琴が好きだった料理の味が、どうしても思い出せない。
美琴の声が、遠く感じる。
やがて、彼女の顔を見ても、何も感じなくなった。
そして美琴が完全に回復したとき、聡太の記憶から彼女は完全に消えていた。
美琴がどれだけ名前を呼んでも、聡太は振り向かず、虚ろな瞳で宙を見つめるだけだった。
「聡太の魂は……壊れてしまったの?」
彼の瞳には、もう何の色も映らなくなっていた。
◆
「こんなこと、願ってない……!」
美琴は再び夢の中へ逃げ込んだ。
そこには、あの悪魔が待っていた。
「また会えたね。今度は何を願う?」
美琴は涙を流しながら叫ぶ。
「私は死んでもいい! 聡太の魂を戻して!」
悪魔はおかしそうに笑う。
「聡太の願いを無碍にするものではないよ。」
彼は楽しげに言葉を続ける。
「二度目の願いは特別なものになる。輪廻の輪から外れてもいいのなら、その願いを叶えよう。」
美琴は戸惑った。
「輪廻の……外?」
「そうだ。そこは何もない、孤独で暗い世界。苦しみしかない場所だ。人間が耐えられるような場所ではない。
だが、そんな場所にわざわざ堕ちなくとも、輪廻を繰り返せば、いつかまた聡太に会える未来があるかもしれないよ。」
諭すように悪魔は言うが、美琴は大きく頭を振って叫ぶ。
「確約されていない未来を信じて、今苦しんでいる聡太を放っておくことなんてできない!お願いです。聡太を救ってください!」
迷わず答えた美琴に、悪魔は満足げに微笑む。
「人間は面白いね。」
その瞬間、契約が結ばれた。
美琴の体は闇に溶けていった。
◆
聡太は突然、全てを思い出した。
美琴のこと。
美琴への想い。
美琴の願い。
だが、目を開けても、美琴はどこにもいなかった。
聡太は悪魔を探し、夢の中で問いただす。
「美琴はどこだ!?」
悪魔は満足そうに微笑んだ。
「もうどこにもいない。輪廻の外に落ちた。」
聡太は膝をつき、虚空を見つめた。
美琴のいない世界で、生きる意味があるのか?
彼は静かに囁いた。
「俺を美琴のいる世界に連れて行って。」
悪魔は愉快そうに微笑んだ。
「本当にお前たちは面白いね。」
◆
聡太と美琴は、輪廻の外れた世界に堕ちた。
そこは、光も希望もない、ただ二人だけの世界。
聡太は美琴の手らしいものを握る。
美琴もまた、聡太のようなものを抱きしめる。
体温も肉体も感情も魂も輪郭もない、かつて二人だったものがそこにある。
何もない世界でも、何も感じられなくても、二人が共にある限り、それがすべてだった。
——これは、狂おしいほど純粋な愛の果ての、美しく、残酷な物語。
堕ちた先で 須藤淳 @nyotyutyotye
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