這えメロス

タカナシ

第1話

 僕の名前は柱目露栖はしらめ ろす。今年35歳になる、どこにでもいるような中年サラリーマンだ。

 唯一の自慢は、可愛らしい奥さんと天使な娘がいることだ。


 その二人の為にガツガツ働き、この度マイホームを手に入れた。

 もちろん新築なんて豪勢なものは無理だったけど、中古でもそれなりに満足している。自分の部屋も猫の額並みの広さだけどあるしね。


 そんな僕はただいまインフルエンザで絶賛ダウン中。

 僕らの天使にうつしてはいけないと、妻と二人で実家に戻ってもらっている。つまりこの家には僕一人だけだということだ。


 高熱の中、独りで心細い気持ちはあるけど、それよりも家族にうつさないで済む安堵の方が大きい。


 今は2階の寝室、ダブルサイズのベッドを贅沢に1人で使い寝ているのだが、枕元のスポーツドリンクの残量もあやしくなっており、1階の台所から新たな飲み物を取りたいなぁと思えど、動くのが大変で、独りの辛さを味わっている。


「ううぅ、辛い。こんなことなら恰好つけずに妻にだけは残ってもらうべきだったか。いやいや、それでうつってマイエンジェルにまでインフルの菌がついたら一生自分を恨むか。まぁ、まだ少し水分はあるし、このままもう少し寝ていよう。寝て起きたら少しは良くなっているかもしれないしな」


 本当なら、ひなまつりで一緒にちらし寿司やひなあられを楽しむはずだったのに……。最悪だ……。


 うとうとと薬の影響か、それとも体調の悪さからか、僕は軽く眠りにつく。


「はっ!! うわああっ」


 体調不良時独特の嫌な悪夢から目を覚ました。


「夢か……。なんて悪夢だ。まさかマイエンジェルが嫁に行く夢を見るなんて」


 だけど、嫁に行かなかったら行かなかったで、それはダメだよな。一番はしっかりした相手に嫁ぐことだよな!


 そんなどうでもいいことを考えながらふと壁掛け時計に目を向けると、時刻は11時を指し示していた。


「おおう。かなり寝てしまっていたみたいだな。ほぼ、まる一日寝ていたのか……」


「…………やばいっ!!」


 僕はそのままベッドから転げ落ちるように抜け出した。


「うっ……」


 急に動いたからかめまいが体を襲う。


 くっ! だが、負けてたるものかっ!!

 昨日がひなまつりということは、今日にはひな人形を片付けねば、マイエンジェルが行き遅れてしまう!!


 迷信だとは分かっている。分かっているし、結婚するだけが幸せとは思わないが、だが、自分のせいで少しでもケチがついてはいけない。


 這いずりながら、部屋の扉の前に。

 立ち上がればめまいが襲いくるため、ドアノブが激しく高い位置に見える。


「なんの、これしき」


 手を伸ばす。体がジンジンと悪寒が襲うが、なんとか指先が振れる。

 そのままドアノブを降ろすと、ガチャリと無事に開く。


「立ち上がるのがつらいからと言って横着したのは失敗だったかも……」


 吐き気も襲い掛かり、大きく体力が削られていく実感がある。

 だが、それでもここで止まる訳にはいかない。

 普段は一瞬だが、今は長く長く感じる廊下を這って進む。


「昔は柱目露巣はしらめ ろすという名前から『走れメロス』と言われたけど、これじゃあ、這えメロスだな。ははっ」


 意識を保つために独り言をぶつぶつと言いながら、なんとか廊下を攻略すると。


「分かっていたけど、目の前にするとゲンナリするな……」


 目の前には階段。たしか10段くらいあったはず。

 まるで崖のようだ。

 這って頭から行くには勇気がいるし、落ちたときのリスクを考えると足からずりずりと行くのが正解だろう。


 僕はゆっくり、ゆっくりと足先から降りていく。


「あ、あ、あ、やばい、やばい」


 足先から這って降りていくという安全に憂慮した行動の代償に上衣が徐々に捲れ上がっていく。

 10段の階段を降り切ったときには、中腹程に上のパジャマが置き去りになっていた。


「さ、寒い……。もうダメだ。こんな格好になってしまったし、時間もあと少ししかない。もうこのまま、諦めて部屋に戻ろうかな。何もインフルになっているときにしなくても……」


 諦めそうになったそのとき、幼い娘の笑顔、そして笑い声が聞こえた気がした。

 ダメだ。こんなところで諦めてたまるかっ!


 もう時間もないし、体力もない。とりあえず、服はひな人形を片付けてから回収しようとそのまま進むことにした。


 あと一部屋抜ければひな人形のある部屋だ。

 頑張れ、頑張れ、露栖っ! お前なら出来るっ!!


 ずりずり。ずりずり。ズボンも脱げてきたが、もはや構うものかっ!

 そもそも、この家には僕一人だけなのだ、誰に気を使うというのだ。インフルから来る寒気さえ僕が気にしなければいいっ!


 あと少し。もう少しでひな人形のある部屋に到達する。


 やった、着いた! 着いたぞ!!

 マイエンジェルよ。一度は諦めそうになった父を体調良くなったら殴ってくれ!! やれば出来るのにっ!! 甘えだった!

 さぁ、あとは片付けるだけだっ!!

 ひな人形に手を伸ばしたとき、


「し、しまった! 手袋を忘れた!!」


 直接触ってしまってはせっかくのひな人形に油がついてしまう。

 手袋を取りに行くのは、もう体力的に無理だ。

 多少汚れてもいいから、片付けるか、それとも諦めるか……。どうする? どうする!?


 そう思っていたとき、


――ピンポーンっ!


 玄関のチャイムが鳴り響く。

 なんで、こんなタイミングに。というかなんでこんな時間に!?

 

 どうする強盗とか泥棒とかか? 家人がいるかの確認か?

 出るのが正解か、それともここで息を殺しておくのが正解か。


 そんなことを考えたのは一瞬。すぐに自分がほぼ全裸だということに気づき、ただの来客という可能性にかけて、息を殺す。


 留守だから帰ってくれ。


――ガチャリ。


 鍵が開く音がする。

 な、なんでだ!? ピッキング!? まずい、本格的に泥棒じゃないか!!


 今の僕では、どうしようもない。全裸だし。


「こんにちは。露巣大丈夫?」


 光と共に鍵を開けて入ってきたのは、僕の母親だった。最悪だ。この恰好を見られるなら、まだ泥棒の方が良かったかも……、いやいや、そんなことはないな。


「嫁ちゃんから、独りで心配だから様子見てあげてって言われて来てみれば、あんたなんて恰好してんのよ」


「その、ひなまつり終わったし、ひな人形片付けようと思って、なんとか這ってきたんだけど、その途中で服脱げちゃって」


「何言ってるの? ひな人形は3月の中旬までに片付ければいいのよ」


「え、マジ?」


「まじ」


 柱目露巣は絶叫した。


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這えメロス タカナシ @takanashi30

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