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第1話

「さっきはごめん」

一晴かずはるおじさんは、先を歩く母の背中に向かって、そう声をかけた。

竹宮たけみや

もう一度母に声をかける。

大学の頃からの馴染みなのか、母のことは旧姓で呼んでいる。

私はその名前聞くと、いつもドキリとしてしまう。母がひとりの女性であることを意識してしまうからだ。

母は、呼びかけと赤信号のふたつを無視して、ずんずんと先を歩いていく。

母の体の中に不機嫌な空気が籠っているのがわかる。体を動かしてないと、うまく抜けていかないのだろう。

「なんかあったの?」

私は隣で歩くおじさんに声をかけた。

「ん、まぁね」

おじさんは、苦笑いした。

せっかくのお祝いの場なのに、自分の機嫌ひとつで場の雰囲気を壊してしまうところは、いかにも母らしい。

この日、私は京都にある大学に合格した。そのお祝いに、おじさんが隠れ家的なレストランに招待してくれたのだ。

デザートを食べ終えた後、私がトイレに立って戻ってきた時には、母の姿はなかった。その間に、何かがあったのだろう。

「聞いたら、答えられるような内容?」

「いや。恥ずかしい話だから」

おじさんが赤信号で立ち止まった。私も合わせて立ち止まった。

夜の静かな交差点。車どころか、歩いている人もいない。

私は横で立っているおじさんを見上げた。

おじさんは信号を見てはいなかった。

小さくなってゆく母の背中を見つめていた。

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