第3話 一瞬の対話①
王都の夜会は、時間が経つにつれてますます熱気を帯び、会場中が談笑や音楽に包まれていた。豪奢なシャンデリアが照らす中央のダンスフロアには、ペアを組んだ貴族たちが華麗なステップを踏んでいる。飲食を楽しむ者たちが周囲を取り囲み、それを眺めるだけの人々もまた、それぞれの思惑を胸に会話を交わしていた。
ロザリア・グランフィールドもまた、夜会の華やかさに引き寄せられるようにフロアの近くを歩いている。すでに多くの人々と挨拶を交わし、王太子の婚約者として相応しい振る舞いを崩さないよう努力してきたが、心中では何とも言えない疲労感が募っていた。ジュリアン・アルディネス――王太子である彼の姿は先ほどから何度か遠目に捉えてはいるものの、なぜか正面から接触するチャンスを得られずにいる。もしかすると、彼が避けているのかもしれない――そんな疑念まで浮かぶほどだ。
ダンス曲の合間に小休止が入り、フロアにいた貴族の数人が辺りのテーブルやソファに腰を下ろし始める。ざわめきが一瞬だけ落ち着きを取り戻したところに、ロザリアはふとジュリアンの気配を感じ取った。やや離れた場所で、数名の貴族が王太子を取り囲む形で話をしている。あの端正な姿勢と金髪が、周囲の装飾と相まって浮かび上がっていた。
(やっと……ここで少しお話できるかもしれない)
ロザリアは静かに息をつき、仕草を乱さぬように注意を払いつつ、そのグループへ近づいていく。周りにいる人々は「グランフィールド公爵令嬢だわ」「あら、ようやく王太子殿下のもとに?」などと密やかにささやいているが、彼女はそれをまるで意に介さないかのように歩みを進める。
王太子ジュリアンがいる一角はやや落ち着いた雰囲気で、大きな柱を背にする形で彼らが言葉を交わしていた。おそらく、場の中心の騒がしさを避けるためなのだろう。そこには伯爵や子爵が二、三名ほど、熱心に何事かを申し出ている様子が見て取れる。ロザリアが視界の端に入った瞬間、一人の貴族がパッと顔を上げる。彼女の姿を認めたのだろう。
「失礼いたします。殿下、皆さま、ご機嫌はいかがでしょうか」
ロザリアは裾を軽く持ち上げ、優雅に一礼する。自分が婚約者であるという事実を示すために、貴族として最適な礼儀を欠かさないよう努めた。ただ、心の奥では、ジュリアンの態度がどう返ってくるかに不安があった。
「……ああ、ロザリアか。今宵は来てくれたのだな」
ジュリアンは会話を中断し、ロザリアへ視線を向ける。その声は以前のような温かみを感じさせるものではなく、どこか冷えた響きを含んでいた。彼女はかすかに胸が痛む思いをしつつも、あくまで堂々と笑みを作る。
「ええ、殿下のお姿をお見かけしたものですから、少しご挨拶だけでもと思いまして。夜会を楽しんでおられますか?」
「そうだな……まぁ、そこそこには」
それだけ言うと、ジュリアンは一瞬だけロザリアの装いに目を向けるが、特に言葉を添えるでもなく再び視線をそらす。周囲にいる貴族たちが気まずそうに気配を潜め始めたのを感じて、ロザリアは内心「やはり違和感がある」と思わずにはいられない。婚約者である二人がこうして同じ場所に立っているというのに、まるで他人同士のように距離があるのだ。
ただ、彼女はその表情を少しも崩さず、周囲に向けて笑みを浮かべる。視線を少し外に逃がし、他の貴族たちにも同時に挨拶を送るような仕草をとる。それが公爵令嬢として、王太子の隣に立つべき人間としての最低限の振る舞いだった。
「皆さまにご挨拶が行き届かず、申し訳ございません。今宵も素晴らしい催しで、感謝申し上げますわ」
「……いえいえ、こちらこそグランフィールド公爵令嬢にお会いできて光栄です。殿下ともお話が進みましたので、私はこれで失礼します」
「私も、いったん席を外させていただきますね。今後ともよろしくお願い申し上げます」
伯爵や子爵が頭を下げてそそくさと離れていく。ロザリアとジュリアンの二人きりになると、ほんのわずかに周囲の人々が遠巻きに視線を送っていた。まるで「婚約者同士が仲睦まじい会話をするのでは?」と期待しているかのようだ。しかし、空気は意外に冷えきっていた。
「殿下、先ほどはご挨拶できず失礼いたしました。ずいぶんお忙しそうでしたので、遠慮させていただきましたが……何かご用向きがございましたら、いつでもお声がけくださいませ」
「……特に用はない。今日はこうして来てくれているのだし、それで十分だろう」
「そう……ですか。では、よろしければ少しだけお話を――」
ロザリアが一歩踏み出そうとすると、ジュリアンはすっと手を上げて制するような動きを見せる。そして、表情にははっきりとした笑みなどなく、どちらかといえば「面倒なことを片づける」というような冷淡さを漂わせていた。
「すまないが、私は少々立て込んでいる。これ以上長くは話せないんだ」
その言葉に、ロザリアは戸惑いを隠せない。目の前で壁を作られたような気配を感じ、胸が痛む。けれど公衆の面前で取り乱すわけにはいかないので、彼女はあくまで穏やかな口調を保った。
「承知いたしました。殿下がそのようにおっしゃるのなら……また後ほど、よろしければ少しでもお話をお聞かせくださいませ」
「……ああ、機会があればな」
ジュリアンはそれだけ言うと、近くのテーブルに置かれたワイングラスを取り上げ、軽く口をつけた。まるでロザリアがそこにいないかのように、当たり障りのない動作を繰り返すばかり。彼がロザリアを直視するのは最初の一瞬だけで、その目はどこか空を泳いでいるようにも見える。
周囲にいた貴族たちや給仕たちは、二人の会話の空気に何とも言えない緊迫感を感じ取っているのか、黙して口を
「……では、私はこれで失礼いたします。殿下、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
ロザリアは自ら頭を下げ、静かにその場を離れた。名残惜しいというより、これ以上いてもジュリアンのそっけない態度に胸がかき乱されるばかりだからだ。婚約者としての体裁を保つために、最低限の会話は交わした。しかし、事実上「取りつく島もない」と表現できるほど殿下の態度は冷淡だった。
彼女が踵を返すと、周囲の人々がすっと道をあける。公爵令嬢と王太子の婚約関係は、社交界で大きな興味の的なのに、今は誰も介入しようとはしない。その微妙な空気を全身に感じ取りながら、ロザリアは小さく息を吐き出した。
――どうしてこんなにも壁があるのだろう。以前はもう少し穏やかに接してくれたのに、まるで私に興味がないかのように振る舞う。
胸の奥がざわついて仕方がない。けれど、周囲からは多くの視線が注がれている以上、取り乱すことなどできない。ロザリアはあくまで気高い微笑を保ち、長いスカートの裾を揺らしながら、その場を早々に離れた。少しでも人気の少ない場所を探して一息つくためだ。
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