インポスターの優しい彼氏
かずラ
インポスターの優しい彼氏
「拝さんって、暇なとき何してらっしゃるんですか?」
ロッカーの前で、突然同僚の友井さんに話しかけられた。
この会社は私服のため更衣室はないが、私物を預けておけるロッカーをひとりひとつ貸してもらえる。ロッカーの前は出勤・退勤前のちょっとした雑談スペースだ。
友井さんとは同じ部署で、ロッカーの位置も近かったが、こんな風に話しかけられたことは今までなかった。
「えっ、突然何ですか?」
「いつも面白い文房具持ってらっしゃるし、本当は個性的な方なのかな、と気になっていて」
確かに新製品が出たらチェックしてしまうし、面白いデザインの文房具があるとつい買ってしまう。しかし見られていたとは。誰も私のことを気にしていないと思っていた。
「すみません、不躾でしたかね」
「い、いや、そんなことは……」
私は会社でほとんど私的な会話をせず、仕事上の報連相くらいしかしゃべらない。
「そろそろ行かなきゃ」
実際のところまだ時間に余裕があるのに、私は帰路へついた。
※※※
「ただいま~」
ひとり暮らしなのにただいまを言うのは、いつものくせだ。
部屋の壁には茶髪のキャラクターが印刷されたタペストリーが吊ってあり、ガラスの扉がついた棚にはぬいぐるみやフィギュアが並んでいる。
戸を開けて手に取ったのは理緒くんの形をしたぬいぐるみ。フェルトでできたそれは、ゲームセンターで何千円もつぎ込んで得たものだ。
「寂しかった?」
《うん、亜衣がいなくて寂しかった》
夢木理緒くんはアイドルゲーム「アイドルトワイライト」に出てくるキャラクターで、私の恋人、ただし想像上の、である。
「アイドルトワイライト」アイドル産業が斜陽になってしまった社会で、もう一度アイドルという文化を勃興させようとするアイドルとマネージャーの物語だ。主にスマートフォンゲームとキャラクターが歌う楽曲で展開している。
理緒くんは真珠のような白い髪と、宇宙のような紫の瞳をしている。現実にはあり得ない姿だが、髪の色や目の色がどんなものだろうが突っ込んではいけないのは、二次元コンテンツのお約束である。
出会いのきっかけは、YouTube広告だった。だらだらとゲーム実況を流していたら、「アイドルトワイライト」の広告が流れ、そこに出てきた理緒くんに魅了された。
実のところ、実在しないキャラクターを好きになるのは、理緒くんが初めてではない。
子どものころから、恋をするのは実在しないキャラクターだった。初恋は、女児アニメの悪役だった。
存在しないキャラクターとは結婚できない、ということをしったときはショックだった。
子どものあこがれとして受け入れられていた恋も、大人になると幼稚なものと受け止められる。だから私は実在しないキャラクターに恋をしてしまうことを、他人に話したことはなかった。
中学生のころ、インターネットに触れて、そういう嗜癖を持つのが、自分だけではないということに気づいた、
インターネットで読み手とキャラクターが恋愛する小説ばかりを読み漁る私のことを、親は知っていただろうか。当時は履歴を消すという知恵がなかったので、黙認してくれていた。
しかし人間は時間が経つとわがままになるわけで、私は理緒くんについて、自分と考えが違う人をどんどんSNSでブロックしていた。
「は~!? 理緒くんがそんなこと言うわけないでしょ」
アイコンをタップしてメニューを開く。
「ブロックしちゃえ」
《いいの?》
「友達も彼氏もいない喪女でも、非正規雇用のワーキングプアでも、理緒くんがいれば私は幸せだから」
《そんなに思ってくれて嬉しいよ》
まあ本物の理緒くんは絶対にそんなこと言わないんだけどね……これはあくまで私の妄想、私の幻覚である。だからこそ優しく、甘く、都合がよかった。
現実の人間なんて都合が悪いから大嫌いだ。私は幻覚と生きていく。仕事だって生活だって、仕方なくしていることに過ぎない。
次の日出勤すると、早々に上司に呼び出され、面談スペースで向かいあって話す羽目になった。
「せ、正社員」
「そう、拝さん真面目にやってくれてるし、どうかなって」
契約社員になってもうすぐ三年。契約が切れたらまた就活か、次はどこ行こうかなと考えていたところだった。
40代後半の女性上司は、個人主義で冷静だが、べたべたしていない優しさがある。彼女の人徳が部署を回していた。
昔から「みんながやっていること」を察してやるのが苦手で、大学時代に就活を始めるのが遅れた。結果、正社員の働き口を見つけることができなかった。就職浪人をする余裕はなかったので、とある会社の契約社員に滑り込んだ。
同世代の人たちに遅れをとったのはつらかったが、あまり深く考えないようにしてきた。くよくよしても解決はしないのだから。
しかし、いざ遅れを取り戻せるかもしれないという事実を前に、私は戸惑った。
「私にできるでしょうか」
「しばらくは仕事内容はそんなに変わらないし、待遇が上がるだけだと思ってくれれば」
それはそれで同一賃金同一労働の原則を破ってないか?
「でも正社員になれば、出世もできるし賃上げもゆくゆくはしてあげられると思う」
「少し考えてもいいですか」
「拝さん、あなたは無口だし何考えてるかわからないけど、仕事はちゃんとしてくれてる。嫌なら強くはお願いしないけど、自信を持ってね」
「は、はあ……」
私はうなずいた。
最近おかしい。私はひっそり理緒くんとひっそり暮らしていきたいだけなのに。舞台の片隅で木の役をやっていたのに、急に自分にスポットライトが当たった気分だ。
ひどく不安になる。息が苦しい。ここは私のあるべき場所ではない。逃げ出さなければ――でもどこへ?
友井さんは信頼できる同僚だ。友達になれるならいいことだ。正社員への登用も、評価されたゆえだし、登用されて嫌になったら転職すればいいだけだ。
私は何から逃げようとしているのだろう。わからない。ただただ心ははやり、私が私でなくなってしまったようだ。
早歩きで街をすり抜け、マンションの一室にたどり着いた。ドアを開けると、オタク趣味の部屋が出迎えてくれる。
頭の中でぐるぐると言葉が回る。怖い。でも、どうしてだろう。私は何も損なわれていないはず。
浮かんでくる感情を否定して、さらにその否定を否定して、思いは脱線を繰り返す。
理緒んは、いつものちょっと困ったような笑顔を浮かべて、タペストリーの中にいた。
《どうしたの、亜衣ちゃん》
「わからない、何もわからない」
《落ち着きなよ》
「みんなどうして私に期待するの? こんな妄想に恋する女なんか好きになったって仕方ない」
《……それ俺の前で言う?》
「ご、ごめんなさい」
理緒くんは、私の頭の中でふんわりと微笑む。少し悲しげな、それでも優しい笑顔だ。紫色のひとみがまぶたの下にかくれる。
《そうだよ、俺は亜衣の妄想なんだからさ。もっと好きなように扱ってもいいんだよ》
「でも」
《ばかだなあ。俺は、亜衣が好かれるに足る人間だって知ってるよ》
空しい言葉だ。これは私が勝手に考えた言葉で、妄想で、願望なんだ。
――本当にそうだろうか?
願望であっても、妄想であっても、確かに私は私に優しい言葉をかけたのだ。妄想に込められた感情はすべて嘘だっただろうか。
理緒くんはこの世にはいない。二次元のキャラクターで、決して触れ合うことはできない。もちろん私の彼氏などではない。
だけどきっと、私は、私自身は、本当は誰かに優しくされ、評価され、大切にされたかった。
私は洗面台に向かった。鏡の中には私がいた。真っ黒な髪を中途半端に伸ばして、度のきつい眼鏡をかけ、何年前に買ったか忘れてしまったスウェットを着ている。
これが私だった。きれいでもなければ賢そうでもない。だけど――確かにここまであがいて生きてきた。
苦しくなって心の鏡を覗いたら、そこには私の望みがあった。それがたまたま理緒くんの形をしていたのだった。
出勤すると、ずらりとロッカーの並んだ部屋が、私を出迎えた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
ロッカーで会った友井さんは、私の声音を聞いて少し驚いていた。私は友井さんのかばんをちらりと見ると、言ってみる。
「友井さんのそのキーホルダー、『森羅の神』のやつですよね。今アニメやってる」
「えっ、拝さん知ってるんですか?」
「アニメ見てます。原作もアニメ見終わったら読もうかな」
「うわ~。そうだったんですね」
振り返ると、ろうかの向こう、彰仁くんの笑顔が、ちらっと見えた気がした。
だけどそれはあくまで気がするだけで、すべては私の妄想で、だからこそ、励まされたのだった。
インポスターの優しい彼氏 かずラ @kazura1128
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