愛猫はかく語りき

名月 楓

愛猫はかく語りき

時とは有限である。

物事には必ず始点と終点が存在し、今あるものにはいつか必ず終わりが来る。

生き物にとってのそれが死である。


私は昔から賢い方だったと思う。勉強はできたし他人の言うことはちゃんと守り、人には優しくしてきたつもりだ。そんな私だから、物事にはいつか終わりが来ることもわかっていた。けれどそれには質感がなく、ただテストの穴埋めのための知識のようなものであった。幸いというべきか、私の親しい親族が亡くなるようなことは成人になる頃までにはなかった。

死に初めて質感が与えられたのが中学3年生の秋だった。


私は猫を飼っていた。小学生の頃に弱っていたところを庭で見つけて保護し、そのまま飼うことにしたのだ。猫が元気になると毛並みはツヤツヤして鳴き声に可愛らしさが出て余計に愛おしくなり、私はよく可愛がった。学校から帰れば真っ先に猫を撫でて親に話すのと同じように今日の出来事を話した。にゃあ、と相槌を打ってくれるのが私にはとても嬉しかった。夜になれば同じ布団で温まり、私にとって猫はまさしく家族であった。

そんな日々が続いていた高校受験の準備をする秋、私はいつも通り塾に行き、肌寒くなってきた道を帰って家に着く。その日も玄関に猫が迎えに来ることはなかった。リビングに行くと、眠そうに座布団の上で丸くなっていた。ここ1ヶ月くらいこんな調子で明らかに弱っているのが分かる。病院に連れて行ったら、病気などではなく老衰で死期が近いと言われた。まだ私はその事実をうまく咀嚼出来ず、その日も何があったかを猫に話しかけていた。一度か二度返された濁った声の、にゃあ、を聞くと安心と共になぜか悲しさを覚えた。

翌日、また塾から帰り玄関を開けると母が焦った様子で猫が出て行ってしまったと言った。私はそれを聞いて呆然としたが、すぐに外に駆け出して懐中電灯を頼りに猫を探した。しかし、暗がりの中で逃げた猫を探すのは砂浜の中から一粒のダイヤモンドを探すようなもので結局見つからずに帰宅した。なぜ逃げてしまったのか、何か嫌だったのか、早く会いたい、強い焦りと悲しみでその日はうまく眠れなかった。

次の日、この日も塾に行った。私の賢さは学校でも塾でも気丈に振る舞うことを求めたので、幸いみんなに心配されるようなことはなかった。塾の大学生の先生を除いて。


「なんか元気ない?」

「…なんでわかるんですか」

「うーん、なんとなく?それにしても何かあったの?」

「飼い猫が逃げてしまったんです」

「あらら、よくあることなの?」

「いや、最初は野良猫だったので、飼ってすぐはありましたけどそれからは全く」

「うーん、最近元気だった?」

「いや、弱ってて医者ももうすぐ老衰だろうって」

「じゃあきっとそれだろうね」

「どういうことですか?」

「猫はね、死ぬときは親しい人の前から姿を消すらしいんだ、なんでか知らないけどね」

「……」

「きっともう時間だったんだろうね」

「……そう…ですか……」

「『死は平等に訪れる、決して死を忘れること勿れ』ってやつだ、メメントモリ的なね、いつかは来る終わりだから仕方ないんだよ」

「…そうですよね……」

「って言われても辛いもんは辛いだろうね、今日は早めに帰ってゆっくり休みなよ。辛い中勉強しても身につかないからさ」

「そうします…」


それから私は家に帰った。なぜか帰宅の時の記憶は曖昧で、家に着いたら父親に目が腫れていると言われた。その日は早めに寝ようと思い布団に入った。猫がいない布団の中は肌寒く、喪失感が吹き込んでいた。寝れない目を無理矢理瞑り、数十分してきた眠気に体を任せる。するとある夢を見た。初めは自分が小学生、家の庭だった。次に景色が変わりリビング、その次が自分の部屋の机の上、そしてベッド、最後にリビングの座布団の前になって、そこで段々とモヤが形を作るように猫が現れた。そして喋り出す。


「ぼくは幸せだったよ、この家に拾われて、君に出会えて」

「……」

「だから君には笑顔でいてほしかった。ぼくの死で悲しませたくなかった、だけどやっぱりダメだったみたいだ。どうしても悲しませてしまうよな。だからこうやって夢に出てきたんだ。」

「…戻ってきてよ」

「それは出来ないよ、君もわかってるんだろう?」

「……」

「これは最後の対話だ。いつも話してるみたいに話そう」

「…うん」

「ほら、涙を拭いて、今日は何があったんだい?」

「今日は…1時間目が自習になって、みんなで勉強を教え合ったんだ」

「うんうん」

「難しい問題があってね、クラスの内2人しか解けなくて、それが解けたんだ」

「それはすごいね」

「体育の時間はバスケでたまたまスリーポイントが決まったんだ」

「さすがだね」

「それから…塾で猫がいなくなる意味について教わったんだ」

「そうだったんだね、余計いっそう辛そうだったのはそれだったのか」

「うん…」

「死というのは非常に辛いね、ぼくも君も、誰も幸せにならない」

「……」

「けれど、仕方なく訪れて、なんとも逃げ難い」

「……」

「でもね、そこにだけ目を向けたらダメなんだ、終わりは悲しいけど、それまではきっと楽しいことがたくさんあったはずなんだ。それを悲しさだけで塗りつぶしちゃいけないよ」

「そうだね…うん、そうだよね」

「わかってもらえてよかった、もう時間がないからね、そろそろ本当にお別れの時間だ」

「…最後に撫でてもいい?」

「もちろん」

私は猫の背をゆっくり撫でる、すると、にゃあ、と綺麗な鳴き声を出し、幸せそうな表情をしていた。


そこで夢から覚めた。


あれからちょうど2年、高校に通って今は倫理の勉強をしている。そこでニーチェについてとその著作である『ツァラストゥラはかく語りき』について学んだ。愛猫の死を乗り越えてなお、私は超人には至れていない。完璧には決してなれない。しかし、賢い人くらいには、なれたと思う。始まりと終わりという感触が、確かに手のひらの中にあるのだ。

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