幸福の値

須藤淳

第1話

彼は自分の名前を知らなかった。

国家幸福審査局の職員は、過去の記憶を消去された者が従事する。

それは公正な判断を下すための必須条件だった。


彼らは個人ではなく、ただ幸福値の監視者として存在する。

幸福値――政府が定めた幸福の指標。

それは国民一人ひとりに割り振られ、政策の根拠となる。


幸福値とは、政府が国民の幸福度を数値化した指標であり、国家はこの数値をもとに、政策の策定、社会制度の改善、危険分子の特定を行い、「国民全体の幸福を最適化する」ことを目的としている。


幸福値の最低値は0、最高値は100。


だが、システム上、生きている人間の最低値はどれほど絶望していても「10」に設定されている。

0が表示されるのは、死んでいる者か、国家にとって排除すべき危険分子だけ。


通常、幸福値の監視者には「10未満」の数値は見えないようになっている。

彼は毎日、無数の幸福値を眺め、異常値をチェックする。

それはただの数値管理に過ぎず、彼自身に感情はなかった。


だが、その日は違った。


「幸福値:0」


監視者である自分が目にするはずのない数値。

完全なるエラーか、それとも――?


感情がないはずの男の目に、何かが宿る。

システムがこれ以上のチェックを拒むが、彼は抑えきれない衝動に突き動かされ、それを突破する。


システムは正常に機能しており、即座にその人物を「幸福回収措置」の対象として処理しようとしていた。

だが、彼は画面に映るデータに目を止める。


対象者:ミナ・カサハラ(35歳)

職業:元ジャーナリスト

家族構成:なし

幸福値の推移:3年前から急激に低下、ついに0に到達


ミナ・カサハラ。

どこかで聞いたことがある気がした。


だが、これ以上深入りすれば危険だと分かっていた。

それでも、彼は情報を掘り下げ、とうとう彼女の素性にアクセスする。


彼女はかつて、政府の「幸福値操作」に関するスクープを追っていた。

「政府は幸福を管理している。だが、それは本当に"幸福"なのか?」

しかし、記事を発表する直前、彼女は突然失職し、社会から消された。


以来、幸福値は急落し、今ではゼロ。

さらに、彼女の家族も数年前、不審な事故で死亡していたとされる。

偶然か? それとも――。


その瞬間、彼の端末が不自然に点滅した。

画面の奥から、隠されていたデータが浮かび上がる。


「幸福回収措置適用履歴:職員ID 1078(旧名:シンジ・カサハラ)」

彼は言葉を失った。

カサハラ、シンジ……?

0に設定された女性と同じ姓。


理由も分からないまま、ひどく懐かしい感覚に襲われ、頭が割れるほどの痛みを感じた。

それでも、ミナを助けなければという使命感だけが彼の手を止めなかった。


彼はなんとかシステム内部に侵入し、ミナの幸福値の手動操作を試みた。

通常、幸福値は自然な変動の範囲内でしか変更できない。


しかし、特殊なルートを通れば、一時的に操作が可能だった。

もちろん、彼がそのような操作方法を知るわけがない。

彼は何か得体のしれないものに突き動かされるように、幸福値を一気に70に設定する。


幸福値:0 → 70


幸福値が一定以上に回復すれば、彼女は「幸福回収措置」の対象から外れる。

画面に「処理完了」の文字が表示された。


――その瞬間、端末が警告音を発した。


『職員ID 1078、重大な規則違反を確認。

 幸福値を修正→0へ変更済み。

 記憶の再消去、または抹消措置を実施→設定済み』


けたたましいアラートが鳴り響く。

終わった。

だが、自分が抹消されることより、彼女を救えたことに満足だった。


その直後、画面が急に切り替わる。


『幸福値異常上昇を確認→ID 1078の幸福値:80

 幸福度が基準を超過したため、職務免除』


彼は驚いた。

自分の幸福値が……80?


彼は確かに「幸福」を感じていた。

誰かを救うために行動し、それが成功した。


その事実が、彼に初めて「満たされる」という感覚を与えたのだ。

そして、それこそが「幸福値の真実」だった。


幸福値は、誰かを助けることで上昇する。

だが、国家はそれを許さなかった。


彼のIDは即座にシステムから抹消され、彼は「職務免除」。

つまり――消去される運命となった。



気がつくと、公園のベンチに座っていた。

過去の記憶はなく、自分の名前も分からない。

だが、心は穏やかだった。


ふと隣を見ると、一人の女性がいた。

黒髪の女性。

どこか懐かしい顔。


「……君は?」

彼女は微笑み、答える。

「ミナよ。」


彼は何かを知っていた気がする。

だが、思い出せなかった。


ふと、口を開く。

「君は……幸せでしたか?」

ミナは少し考えたあと、静かに微笑んだ。

「ええ。たぶん、今はね。」


夕陽が二人を包む。

彼は、自分が何者なのか知らない。

それでも、どこか満たされた気持ちがあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幸福の値 須藤淳 @nyotyutyotye

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ