第13話
「………ごめん、」
「………」
呼吸が少しづつ落ち着いてきて、必死に出した声は馬鹿みたいに小さかった。目の前の恋は、逃げる様子はないけれど返事をくれることはなく。未だに私が掴んでいた腕をかばうように手を当てている。どこか拒絶されているようで、でも夢で見たそれとシンクロしていて
そこまで心は傷つかなかった。
それよりも、恋が目の前にいることに心満たされていて。少しやつれているように見えて、心配になった。
少しの沈黙の後、息を飲んで声を出す準備をする。ずっと伝えなければならないと考えていた。
「恋、あの、言わなきゃいけないことあって…」
「…」
返事はなくて、私の独白のようになる。反応がないことに不安はどんどん大きくなるけれど、例えどんな形だろうと伝えたかった。
少し喉がひきつる。所々震える声を抑えることは出来なかった。
「あの、夜のこと。嫌なことして、ごめん。でも、最低かもしれないけど…あれは、熱にやられたとかじゃなくて…本当に…」
「……」
「…嘘じゃない、信じられないかもしれないけど――」
「気にしてない」
「、え、」
「私、淫魔だから。佐紀がそうなっても仕方ないし。むしろそれが当たり前だから」
「……いん、ま?」
急な言葉に理解が追いつかない。でも、恋がこの場しのぎで嘘を言っているようにも見えなくて余計に混乱する。
ずっと逸らされていた視線が、この時だけ私に向けられる。体の奥底を乱されるような感覚に襲われて、自分が嫌になった。
「……うん。だから、さっきの人も今までの人も…佐紀も、恋のことそういう風にするから。だから佐紀は悪くないよ。そういう人、いっぱいいたから。むしろごめんね、悩ませて」
「―――……、」
一見、私を擁護するような言葉が、心を抉る。追いつかなかった理解も混乱した思考も、吹き飛んで。体の芯が冷えて、頭が真っ白になる。
心が抉られるのは、何も考えられない空虚だと感じられた。
「……恋…は、そう、思ってるの?」
「………、」
「淫魔とか、知らないよ。私は、ただ恋が……」
―好き、だから。
……でも、そうか…。
「恋の中で、私はその人たちと同じなんだね、…」
「……」
ゆっくりと。
じわじわと。
抉られたそこから、感情が滲み出す。ようやく、思考が動き始めた。でも、出来れば。まだ感情には眠っていて欲しかった。
滲み出したそれは、傷口から溢れ出す血のようで。深ければ深いほどに止まらない。どれだけ塞いでも、隠しても、押さえつけても、
意識では止められない。
「そうだよね、!あんなことしといて、自分は違うとか……、ない、…もんね」
「………」
情けないほどに声が震えて裏返る。君の前だけでも、隠したいのに、体は言うことを聞かない。
君に誘われて、惑わされて。感情が爆発しそうだった。
君に会いたくて、君の孤独を願った。
来てくれて、一緒にいてくれて、笑ってくれて。それだけで、風邪なんて吹き飛びそうで。でも。君といたいから、熱が下がらないで欲しいと思ったりした。
君を泣かせて、最低だと思った。でも、その行為だけは、恋に嘘だと思って欲しくなくて謝れなかった。
君が知らない誰かと付き合ってると聞いて、体が灼けそうになった。君を、君の体を、声を。知らない誰かが触れて聞いていると思うと、どうしていいか分からなくなった。
なのに、誰かに背を押されないとたったの一歩も動けなくて。君にたどり着くことができない…。
でも、君が好きだと、言える。この感情が、嘘じゃないって言える。そのために、腕を伸ばせた。
…あぁ、そうか。だからこそ、私は
その人たちと同じなんだね。
「……佐紀?」
「帰ろう、恋。あの人のことは良く分からないけど」
「……、」
「彩夏も、奏も心配してる」
「でも、」
「自分のこと大切にして。……ちゃんと好きな人とそういう、こと、…しなきゃだめだよ」
「……佐紀、」
恋の手が、私に伸びる。望んでいたことなのに、身体はそっとその手から逃げた。よく、分からなくて。でも、精一杯の笑顔を見せることしか正解に思えなかった。
「送るよ」
「………」
「二人が待ってる、からさ」
それがどれだけ下手くそな笑顔だったか、私は知らない。
◇◇◇◇◇
恋が、佐紀と一緒に帰ってきた。
心配して早めに帰宅していた彩夏と、それを迎えて少しも安心できた。はずだった。
「………佐紀?」
零れるように出た私のその言葉を、拾ったやつはいなくて。当の本人でさえ、笑おうとしているだけの変な顔をして。
明らかだったのは、玄関のドアに手をかけたまま一歩も中に入ろうとしなかったこと。
口頭で数回のやり取りをして、取り繕う姿が辛そうだった。
そして。
彩夏が恋になんだかんだと話しかけている最中に、ゆっくりと存在を遠ざけてドアを音もなく閉め姿を消した。
「……おい」
「………」
「奏?どうしたの。あれ、佐紀は?」
腹の中が渦を巻いているみたいに気持ち悪い。それのはけ口にするように、反応しない恋の腕を掴んで自分に向かせる。
「ちょっ、奏!」
「佐紀に何したんだよ!恋!!」
「………、」
腹が立っているんだ。イラついて仕方がない。佐紀になにしたんだ。何を言ったんだ。
恋。好きな相手を、なんで傷つけるようなことしたんだよ。
俯いて視線を下に向けたまま、恋は何も言わない。腕を握る手が、恋を痛めつけてないか心配になったけれどそれを言葉にする余裕はなかった。
「くそっ、」
「奏、落ち着いてよ。どういうこと」
「……私、佐紀追いかけるわ。彩夏、恋がまた馬鹿なことしないように見張っとけよ!」
「……」
カバンを乱暴に掴んで、出ていく。彩夏は、ふたりが揃って帰ってきたなら笑顔になれるだろうと思っていたのに、想像が大きく裏切られてわけが分からなかった。
「…恋、あんた何したの」
静かな空間に、彩夏の声が響く。帰ってきてから立ったまま、口を噤んだままだった恋は、長い沈黙のあと、震える声で言葉を繋いだ。
「…佐紀のこと、また…傷つけちゃった……。…っ、ごめん、なさい…っ」
◇◇◇◇◇
頭が痛い…。
酷い頭痛と、喉の痛み。
彩夏の家を出て、しばらく歩いた先で川に沿った遊歩道にぶつかる。
どこかで防衛反応のように思考は停止していて、そのせいかどこをどう歩いたのかも覚えていない。
川に反射した陽の光で頭痛が強くなり、近くにあったベンチに腰を下ろした。
背を丸めて、目を閉じて、こめかみを抑える。座ったことで、疲労感が一気に押し寄せた気もした。風邪でもぶり返しただろうか、と思って笑えてしまう。この痛みは、大声を出したせいだ。
恋を見つけた時、普段出さない声を出した。体が泣いているんだ。
喉がちりちりして、何となくと咳がこぼれる。でもそんなことで紛れるわけもなくて、ズキズキと走る頭痛は気を滅入らせた。
思考は、頭痛のせいかまとまらない。でもなぜか漠然と涙が出そうになって、喉がひきつり鼻がツンとする。
「………っ、」
なにを、勘違いしていたんだろう。
なんで、違うって思えていたんだろう。
したことも何も。同じじゃないか。
ーー『私のことそういう風にするから』
『そういう風に』って、なんだよ。
触れさせたの?
触れさせてきたの?
どこまでを。なにを。
嫉妬に狂いそうになる。そしてまた、戒める。何を、勘違いしているんだって。
恋を想う権利などない。自分は、そうやって触れてきた人達と同じなんだ。嫉妬する意味も、想って泣く意味も、そんなこと、あっていいはずがない。
分かってるよ。そんなこと。
何度も何度も、言い聞かせて。感情を押さえつけようと必死に言い聞かせてる。
でも、分かってるけど……
もう、むりだ……
「―――っ、いやだ……。れん、っ」
君が好きなんだ。
吐き捨てるように、言葉が溢れ出す。もう耐えられなかった。苦しくて潰れそうだった。
眩しいくらいの夕日が目に刺さる。
視界が、涙と、それに反射する夕日でぐちゃぐちゃで。早く沈んでしまえと心の片隅で悪態づく。
そんな眩しいもので、照らさないで。この涙は、君に見せるためのものじゃない。そんな、綺麗なものじゃない。
「好きだよ、っ……そんなやつらと一緒にしないでよ…!」
私は違う。
この想いは……、『淫魔』なんてふざけた呼称に惑わされたものなんかじゃない。
「れんっ、」
握りしめた手に顔を埋める。爪が手のひらに刺さるけど、力の加減も出来なかった。
触れたことが許せない。怒りが攻め立ててくる。
その手で恋に触れたのか。涙を流させたのか。
その手で……
「……やだよぉ、なに、してんだよ、…恋っ」
信じて欲しい。
そんなやつらと一緒にしないでほしい。
好きなんだよ。こんなにも、感情を揺さぶられて、こんなにも涙が溢れるくらい。
今、思考の全てが君で染まっている。
―――だけど、
「でも、、むり…なん、だよ、……」
思考が声に漏れる。
自分の中に、留めておくことが出来ないくらいに感情が溢れていく。
「もう、いっしょなんだ、から。…触っちゃったんだ、から。……、っ、く、」
なんで、あの時。恋に、触れてしまったんだろう。
言い訳なんてできない。違うなんて言いきれない。
違いを信じてなんてもらえない。
触れた、その事実だけは自分とその人たちを隔てることを許さない。
「――佐紀!」
「!!」
聞きなれた声が届いて、乱れた思考が止まる。それがなければ、私は壊れていたかもしれなかった。
「……、かなで、」
「……大丈夫か?」
「…っ、うん、ごめ、ん」
「………、」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で。大丈夫なわけが無い。
けど、それ以上に崩れた思考ではなにを言っていいかも分からなかった。
近くに気配がして、奏が隣に座ったと分かる。
でも、深く追求する訳でもなくてただ座って隣にいてくれる。それが、奏の優しさだった。
少しして、呼吸が落ち着き出す。ようやく私は奏に声をかけることができた。
「………ごめん、奏。迷惑、かけて…」
「…迷惑なんてかかってない」
「…、」
「帰ろう、」
「……」
「帰って、ご飯食べて、風呂入って。……休もう」
奏の声が、あまりにも優しくて。また涙が溢れ出す。
それがなにに対しての涙なのか、もう分からなかった。
奏に手を引かれて歩く。気づけばもう日は沈んでいて、辺りは人工的な明かりが灯されていた。沈んでしまえと願ったあの瞬間から、そんなに時間は経っていないのに、心と思考と体は、どこか線を引いて『私』というモノは空っぽになってしまった気がした。
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