雛流詩
森陰五十鈴
曲水
その日は雪が舞うほど寒いにもかかわらず、村の者たちは構わず川沿いに集っていた。岸に毛氈を敷き、文机を置く。ただ一つの小さな村に過ぎないのに、村人が
その貴人の末裔たちが本日執り行うのは、〈雛流し〉という祭事だ。〝流し雛〟ではなく、〝雛流し〟。女児の成長を願う春の節句の行事とは、日取りを除いて似て非なるものだとのこと。
〈雛流し〉の噂を聞き付け訪れたユイに、村人たちは親切に語ってくれた。見学を申し出ると、ただちに席を用意してくれるという。
「ただし」
参加の許可に謝意を示したユイを前に、ここまで親切を取り計らってくれたアヤメという女の顔に陰が差した。それは見知った類のものであるからして、ユイはこの祭事がどういったものであるか、おおよそのところを悟った。
「何を見ても、聞いても、心をお鎮めくださることを、お約束ください」
言われるまでもない。
目を伏せ小さく首肯するユイを、アヤメは席に案内した。芽生えの兆しが見える土に、直に敷かれた緋毛氈。岸が川原の如く石にまみれていないのは、目の前の緩い流れが人の手によるものであるからだ。石を積んで造られた真っ直ぐな水路は、村の一端を担っている。川上には、〈神産みの塔〉。町村の基点となる五重塔が岸にあるということは、この小さな運河が重要な役割を担っていることが分かる。
はらはらと雪花が川面に落ちる。水は透明で、灰色の空を映している。
「曲水の宴をご存じですか?」
毛氈の上に座し、文机を前にしたユイに、アヤメは問いかける。
「流れに浮かぶ盃が通り過ぎるまでに詩歌を詠む、という貴人の催しだと伺っています」
「我らがこれより行うのも、そちらになります。ただし、流れくるのは盃ではなく、舟です」
それは葦を編んで作った舟であり、そこに〈雛〉を乗せる。村人たちは〈雛〉に歌を奏上し、紙で作った人形を舟に乗せる。それがこの祭事の一連の流れであるという。
ユイの前の文机に、正方形の白い紙が一枚置かれた。
「舟は何処から」
アヤメのたおやかな指先が川上を示した。白と灰の景色の中に、朱の塔ばかりが映えていた。
「何処へ向かうのですか」
「運河の先に、
川下へと向けられたアヤメの眼差しは痛ましいものを見るかのようだった。ユイは声を掛けることもできず、目の前の紙を折りはじめる。折り紙は、幼き頃より慣れている。折り目を付けて、袋折り。顔と手を付けながら、着物を折り上げる。両面とも白い紙なので華がないのを残念に思いつつ、完成した女雛を文机から拾い上げると、まあ、とアヤメが感嘆した。
「雛人形。お上手ですね」
アヤメが恥ずかしそうに見せた紙人形は、こけしを平らにしたようなものだった。それが、三つ。いずれもやはり白い。
「子どもたちの分です」
そういえば、この祭事には子どもがいない。悪天候だからというわけでもないようだ。
「幼き頃より慣れてはいけませんし……〈雛〉が羨むようなことがあってもなりませんから」
この祭事は大人だけが参加するものである、とアヤメは言った。確かに曲水など子どもが楽しいものではなかろうが。心遣いの中に、どうしようもないもどかしさがあるのを感じ、ユイは黙り込む。
辺りは静まり、川のせせらぎだけが聴こえる。染み入る寒さの中で、村人たちは岸沿いの毛氈の上に座り、文机で何かしらの作業をしていた。紙を折っているのか、墨を磨っているのか。ややあって、萌黄色の着物を着た若い男が各席を回って配り物をしているのが見えた。そういえば、村の者たちは皆、春めいた色の着物を纏っている。雪景色の中、岸だけは春のごとく鮮やかだった。
萌黄の男はユイの前にもやってきて、色紙を一枚渡す。詩歌はそちらに書け、とのこと。
「私には、歌の心得がないのですが」
「あまり難しく考えずとも構いませんよ。作法など気にせず、心のままに」
〈雛〉に捧げることだけを留意してくれれば良いのだ、と言うが、その〈雛〉を知らぬユイには、捧げるべきが分からない。筆の先を墨汁に浸したまま、色紙を睨むほかなかった。
そのうちに、川上から笛の音が流れてきた。神楽の如き荘厳な、しかし華やかさも感じさせる笙の音色。
〈雛流し〉が始まった。
ややあって、川上より見えてくる葦舟。ユイの瞼は震えずにはいられなかった。
乗っているのは、小さな女の子どもだった。
「あれが、〈雛〉――産まれたばかりの神、ですか」
ユイの察しの良さにアヤメは驚き、それから頷いた。
「〈雛〉は我が村の塔で産まれてすぐ、舟に乗せられます。『この塔に生まる子、良く非ず』――と。ただそれだけが語り継がれている」
そして〈雛〉は流される。運河の向こう、川を下って、いずれは海へ。
「……厄介払いのようでしょう?」
アヤメの声は震えていた。ユイから目を逸らし、じっと川面を睨む顔には、苦渋の表情が浮かんでいる。……なるほど、彼女は
降りしきる雪の向こうで、舟はとろとろと進んでいる。いくら傾斜が緩いとはいえ、まるで川の水が粘度を持っているかのようだった。舟の舳先が己の目線に掛かると、村人は歌を詠み上げる。三十一の音に乗せられているのは、祈りだった。どうか良い生がありますように。良い場所に辿り着けますように。そして、紙人形を舟に乗せる。
もしかしたら、寂しくないように、だろうか。
そんなことを思っているうちに、舟はユイの近くまで流れてくる。
切り揃えられたおかっぱ頭。赤い着物に、白の打掛。目はくりくりと大きく、頬はぷっくりとしていて、如何にも子どもらしいのだが、表情は大人の真似をしてかすまし顔。詠み上げられる歌に目を細め、次々と乗せられる紙の同乗者に口元を綻ばせ、慎ましく村人に感謝する。
凛としたその姿は、一般的な雛祭りに飾る女雛をも思わせる。
ユイは思わず筆を取った。墨で、手元の紙人形の衣を黒く染め上げる。折って頭の向こう側に隠した先端を、もう一度折り返して烏帽子にし、それもまた黒く染める。
その間に舟は目の前まで差し掛かろうとしていて、ユイは放り捨てるように筆を置き、即席の歌を詠んだ。
名残雪 下りし舟に 花手向け
祈るは君の 流れ着くさき
捻りのない歌だった。かかりなどなく、率直な歌だった。苦々しく思いながら、ユイは通りがかった舟に紙人形を置く。即席の男雛。必死に手を伸ばして、なるべく〈雛〉の傍へ。
〈雛〉は、他と同じように、ユイに謝意を示した。ユイは軽く頭を下げる。舟の中に敷き詰められた白い人形たちが目に入った。――まるで、棺に手向ける花のようだと思った。
舟はとろとろと進んでいく。村人の真っ白な想いを乗せて、下っていく。
姿が見えなくなって、ようやく毛氈の上の村人たちは動き出した。虚脱した顔で口も開かず、片付けをはじめる。
宴の始末が済み、村の者が散らばると、岸は途端冬景色となった。雪は勢いを弱めていたが、色のない世界が寒々しい。
「……余計なことをしましたか」
人形の形は様々だったが、色はすべて白だった。もしかしたら意味のあったことなのかもしれない。だとすれば、ユイの行いは余計なことだったのかも。
「いいえ。〈雛〉もお喜びでしょう」
アヤメは、客人のきまぐれを咎めなかった。
「冷えたことでしょう。どうぞ我が家へ。温かい甘酒を用意いたしましょう」
手足の冷たさに、ユイは誘いを受けることにした。
アヤメの家の子どもたちは、何事があったのかも知らず、無邪気にユイに絡みついてきた。親の愛情を受け、伸び伸びと暮らす子どもたちは、〈雛〉とは違って気取った様子などない。
あの幼気な神が、これを目にしたら。すまし顔は崩れてしまうのか。
どう転んでも痛ましいその在り方が、ユイの胸を刺す。
渡された甘酒の入った湯呑みが、手先を温めてくれた。
雛流詩 森陰五十鈴 @morisuzu
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