チューリップ(7)
次の日、教室でいつもと変わらない朝を過ごしているときだった。ひとりのクラスメイトが興奮気味に僕の机を叩いて言う。
「なあなあ小野田! お前と長谷川って付き合ってんの⁉︎」
無駄に大きな声だったから、一瞬にしてクラス中の目がこちらに向けられる。否定する前にいわゆるクラスの目立つやつらが集まってきた。
「え、なになに。小野田と長谷川付き合ってんの? まじで?」
「付き合ってないよ!」
慌てて否定するけど、どんどん集まる人の中で僕の声は簡単に埋もれてしまう。それどころか教室内の男子だけじゃなく、何人かの女子まで冷やかすようにこちらを見つめてくすくすと笑っていた。
「俺昨日見ちゃったんだよね! 美術ンとき、東門のとこで二人だけでスケッチしてるとこ」
「うわ、なにそれ、エッロー」
「うるさいなー! ただ一緒にスケッチしてただけだって」
「いや、それは嘘だね」と、最初に僕に声をかけてきたやつが言う。
「だってオレ見てたもん。グラウンドに出たときに小野田、ずーっと長谷川のこと目で追いかけてんの。んで、長谷川がひとりになった瞬間、偶然みたいに近づいて行ったんだぜ、コイツ」
「それは──」
そう言いかけて、言葉が出なかった。そこは全部そいつの言う通りだったからだ。黙っていたら認めることになるとわかっていても、焦りの中じゃうまく言葉が出てこない。
「付き合ってんだろ?」
再び降りかかったその言葉だけでも否定しようとしたときだ。
「もう、付き合ってないって」
机を囲んだ男子の壁の外から、長谷川さんの声がした。登校したばかりでカバンを背負ったままの長谷川さんがこちらに近づいてくる。
「でも昨日たしかに二人で楽しそーに絵描いてたじゃねーかよ」
「一緒にスケッチしてたら付き合ってることになるの?」
「……別にそういうわけじゃねーけど、中学生にもなって、男女そんなに仲良くしたりしねーだろ」
「中学生って、わたしたちまだ中学生になって一か月も経ってないよ? まだまだ小学生の感覚が残っていてもおかしくないでしょ。そもそも、ただ会話したり普通に授業受けたりするときに男子も女子も関係ないと思うけど」
それより、と長谷川さんが目の前の男子を睨みつけて言う。
「昨日、東門の方に行ったのはわたしと小野田くんだけだったけど、それを知ってるってことはずっと見てたんだよね? わたしたちのこと。あんたの方こそわたしのこと好きなんじゃないの」
「はあ⁉︎ んなわけねーだろ! 自惚れんな」
「ふーん……じゃあ小野田くんのことを見てたんだ。どうしてかな?」
「うっせーな! 別に小野田のことも見てねーっつの!」
男子が顔を真っ赤にして僕の席から離れたときだった。すれ違いざまに、そいつがドンと長谷川さんを突き飛ばした。
「わっ!」
その声とともに長谷川さんが勢いよく尻もちをつく。カバンを背負っていたこともあって、彼女は簡単に倒れ込んだ。
「ひなた、大丈夫⁉︎」
「ちょっとあんた、いい加減にしなよ!」
「ひなた大変! 手の甲が真っ赤になってる! すぐに保健室に行った方がいいよ」
ひとりの女子が長谷川さんに手を貸しながら言う。差し出した彼女の左手の甲が真っ赤になっていた。どうやら突き飛ばされたときにどこかにぶつけたみたいだ。
「あんた、ひなたに謝んなよ」
「いいよいいよ、これくらい大したことないし。ただ朝の会の前に保健室には行ってくるね」
真っ赤になった方の手を振りながら長谷川さんが笑う。彼女が教室を出て行ったあとすぐ朝自習開始のチャイムが鳴った。みんな何事もなかったかのように静かになる。最初に声をかけてきたやつは不本意そうにそっぽを向いたまま自分の席に座っていた。
「お前も災難だったよな」
前の席のやつの言葉に曖昧に笑う。それよりも僕は長谷川さんのことで頭がいっぱいだった。
ゆっくりと席を立って、小声で言う。
「僕、ちょっと保健室に行ってくる」
窓際の席から勢いよく走り出して教室を飛び出す。そのときにはもう周りの目という言葉は頭の中から消えていた。四階から一階の保健室まで全力で駆け下りる。長谷川さんに追いついたのは、ちょうど保健室の前だった。
「どうしたの、小野田くん」
「それっ……僕のせいだから」
長谷川さんの真っ赤になった左手を指差しながら言う。日頃の運動不足からか、格好悪いくらい息が上がっていた。長谷川さんが笑いながら首を横に振る。
「違うよ、わたしが勝手に会話に割り込んであれこれ言っちゃったからだよ。ちょっと煽り過ぎちゃったかなって、むしろ反省してる。だから小野田くんのせいじゃないよ」
失礼します、と保健室の扉を開けた長谷川さんが「あれ?」と首を傾げる。
「先生、朝の会議に行ってるみたい」
困ったようにこちらを向いて長谷川さんが笑う。このまま待っていれば朝の会が始まる頃には先生が戻ってくるだろうけど、そうしたくない自分がいる。
「じゃあ僕がやるよ」
そう言って、長谷川さんを追い越すように保健室に入った。
向かい合って丸椅子に座り、長谷川さんの左手に触れる。二人でタンポポを見たとき、長谷川さんの手を小さいと思ったけど、実際に触れると想像以上に小さかった。小さくてか弱くて、その手に怪我を負わせてしまったことを本当に後悔した。ごめん、と謝ろうとしてやめた。きっと何度謝っても長谷川さんは僕のせいじゃないと笑うのだろう。僕はその優しさをよく知っている。
タオルで包んだ保冷剤がほどけてこないように、痛くない程度にきつく結ぶ。
「小野田くん、どうもありがとうね」
目の前で長谷川さんが笑う。その瞬間、喉がきゅっと締め付けられた。苦しくて落ち着かなくて、時間が止まったみたいに僕は長谷川さんの左手を離すことができなかった。
「──小野田くん? 手、もう大丈夫だよ」
長谷川さんの目の茶色が太陽の光で透けたように薄い。朝自習の時間、校内は本当に静かで僕ら二人しかいないみたいだった。
だからかな。
教室であんなにからかわれたばかりなのに、僕はもう長谷川さんしか見えなくなっていた。
自信? 確信? ──きっとみんな、そんなものはないんだと思う。気持ちは自覚して溢れたその瞬間にコントロールが利かなくなってしまうんだ。
僕は長谷川さんの左手を再び軽く握った。
「もう一つあるんだ、チューリップの花言葉」
そう言いかけて離せるわけがなかった。その手を離したくなかった。
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